goo blog サービス終了のお知らせ 

『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

91 明王院

2025-07-26 | 愛知県

百寺巡礼第80番 明王院

東洋のボンベイと隣り合った古寺

 

倉敷を中心とした三泊四日の岡山旅行の初日の夜は福山に宿泊した。大きなビルが立ち並び、思っていたより都会に見えた福山の市街。駅前のバスターミナルから朝早い便に乗り約10分程度で最寄りのバス停で降りる。ここから明王院の入り口まで歩いて10分強である。8時過ぎであったが、8時から入口の扉が開いているのでちょうどよかった。階段を上り境内はこじんまりした広さである。本堂は内に入ることもできないため参拝をし、堂宇と境内の写真を撮ればすぐ終わる。1時間後が帰りのバス時間で、ちょうどよいスケジュールを組めた。

明王院(みょうおういん)は、広島県の東端の都市・福山市の西側、芦田川に面した愛宕山の麓にある。寺伝によると大同2年(807)に空海が四国を草戸山(愛宕山)の中腹に観世音を安置したのが開基と伝わる。元は西光山理智院常福寺と称した律宗の寺院だったと伝わり、江戸時代に近隣にあった明王院と合併し、中道山円光寺明王院と改称し現在に至る。しかし開基から貞和4年(1348)の五重塔建立に至るまでの約500年間の寺史を示す記録は発見されておらず全く不明である。大同2年の草創期についての記録は江戸時代初期の元和7年(1621)の本堂の棟札に記されているが、空海開基の記録は江戸時代中期の元禄3年(1690)の本堂棟札に記されているのが初見である。だが、本堂に安置されている国の重要文化財の十一面観音立像は平安時代の作であり、開基が平安時代と推測させる貴重な資料となっている。また昭和27年(1962)から行われた本堂解体修理において、現・本堂地下の発掘調査が行われ、現・本堂が建立された元応3年(1321)よりも以前の掘立柱穴が点在する建築遺構が発見され、それは開基時期が現・本堂建立時期よりも前の時代であるとの確実な証拠になっている。

境内前を芦田川が流れるが、平安時代から江戸初期頃まで、この川一帯の地域に門前町として栄えた集落跡が発見され、草戸千軒とよばれた大きな街並が存在していた。この街は、他の地方との物流の交流拠点として繁栄しており、数多くの商工業者がいたと見られ、遠くは朝鮮半島や中国大陸とも交易していたとみられている。また近くには明王院とその隣の草戸稲荷神社の門前町としても繁栄していたとみられる。

 

参拝日     令和7年(2025)4月18日(木) 天候晴れ

 

所在地     広島県福山市草戸町1473                                       山 号     中道山                                               宗 派     真言大覚寺派                                            本 尊     十一面観音菩薩                                           創建年     大同2年(807)                                            開 基     空海                                                札所等     中国三十三観音8番                                          文化財     本堂、五重塔(国宝)  十一面観音菩薩像(国重要文化財)

拝観時間    9:00~16:00                                                      拝観料     無料                                                   アクセス    福山駅前から鞆港行きバス 7分 草戸大橋下車 徒歩(約1100m)14分 

      

 

 

 

 

草戸千軒があった史跡の案内図。

 

 

 

 

明王院門前付近。

 

 

 

境内地図。

 

 

 

 

明王院の寺名を刻んだ石碑。

 

 

 

 

門前から見た境内。

 

 

 

閻魔堂。   入口門を入ってすぐの堂宇。享保11年(1726)に再建されたもの。閻魔大王ほか十王が祀られている。

 

 

 

閻魔堂と言っているが、実際は扁額のとおり十王堂である。閻魔王をはじめ秦広王、初江王など仏教や道教において地獄で亡くなった人を裁く10人の裁判官のことだという。

 

 

 

 

入口から本堂に向かう約30数段の石段。

 

 

 

 

階段の途中に見つけた地蔵。

 

 

 

 

階段から見る石垣の擁壁と木々が植えられた公園。

 

 

 

 

階段を上がり下を振り返る。

 

 

 

 

手水場。  自然石を積み重ねた手水鉢(石)に無造作にも細竹(塩ビ製)から水が滴る。

 

 

 

 

山門。  切妻屋根の門は慶長19年(1614)に再建されたもの。室町時代の木割(部材の寸法や組み合わせ)が見られるという。全体には雄大で豪壮な門の造り。

 

 

 

 

中道山の扁額が掛かっている。

 

 

 

 

山門越しに本堂を見る。

 

 

 

 

山門を振り返る。

 

 

 

 

庫裏。  山門を入り境内の右手の建物。 入母屋に本瓦葺きの初期書院形式を残している。初代福井藩主・水野勝成によって再建され、昭和38年(1963)に解体修理され現在に至っている。

 

 

 

 

朝早く参拝したため窓口は閉まっていた。御朱印ももらえなかった。

 

 

 

庫裏の玄関。 玄関は小屋組みが露出している。部屋には江戸時代に狩野派の絵師によって描かれた障壁画が見られる。

 

 

 

書院。   庫裡とともに、元7年(1621)に福山城初代藩主・水野勝成が、福山城の一部と同様に、神辺城から移築再建したものと伝えられている。昭和37年(1962)に共に県重文に指定された。

 

 

内部は非公開であるが、書院の平面は田の字型に四つの部屋に分けてあり、四周を広縁と廊下で取り囲んでいる。北東側の8畳は貴賓の間で床、棚、付書院を備えている。明暦2年(1656) に徳川家光の位牌堂に転用されたが、昭和38年(1963)の解体修理時に元の姿に復元された。鴨居には、江戸時代の俳人 野々口立圃が描いた「三十六歌仙絵」の扁額があり、当時の状態で保存された扁額は、全国でも非常に珍しいもの。

 

 

 

 

境内を見る国宝の本堂と五重塔。

 

 

 

本堂【国宝】    元応3年(1321)に建立された。外観は禅宗様式が色濃い大きく反った屋根が特徴。昭和39年(1964)に国宝に指定された。全体的に和洋の姿をとり、細部において唐様、大仏様を組合わせた瀬戸内海沿岸では最も古く、全国でも最古級の折衷様式の建物。

 

 

 

向拝を見る。

 

 

 

 

向拝虹梁に取り付けられた蟇股。唐獅子の彫刻だが、色彩が薄れその姿が捉え難い。

 

 

 

堂内部は、密教本堂の特徴である格子戸で厳格に仕切ってあり、格子戸の奥側が内陣でとなっている。内陣には、厨子に納められた国の重要文化財指定の十一面観音立像(秘仏 で33年毎のご開扉)や福山市の重要文化財の仏像が安置されており、外陣の天井には、日本で最初に寺院に用いられた輪垂木天井となっている。外陣にも入室はできない。

 

 

 

十一面観音菩薩立像【国重要文化財】  本堂の本尊・秘仏として、須弥壇上厨子に安置。 一木造で、本体と蓮華座の蓮肉部と共木で彫出し、下地は錆漆(砥粉(とのこ)と漆を混ぜたもの)を施し、古色塗りとしている。なお、背面腰部辺りに嵌)め板があり、一部に内刳(うちぐ)りが施されている。左手は胸前に挙げて華瓶(けびょう)を持ち、右手は垂下して掌を開いて前に向け、右脚をわずかに踏み出し、蓮華座の上に立つ。頭上には単髻(たんけい)を結い、頂上に阿弥陀仏面、天冠台上の地髪に菩薩面三、忿怒(ふんぬ)面三、狗牙上出(くげじょうしゅつ)面三、背面に大笑(だいしょう)面、以上十面を一列に並べている。また、正面中央には化仏(けぶつ)(阿弥陀如来立像)を配し、眼は彫眼(彫刻して彩色を施す)で半眼開きとし、薄めの唇を緩く閉じ、端麗な面相を示している。着衣は条帛(じょうはく)・天衣(てんね)・裙(くん)・腰布・腰帯を着けている。なお、左足第一指先をわずかに上げているのは、衆生を救いに行く微妙な一瞬を示すものとされている。

観音菩薩像の、顔はやや面長で明快な目鼻立ちを刻み、肩を強く張り、胸回りは豊かで、両肘内側から胴をわずかに絞り、腰以下の肉付きも豊満に表し、どっしりとした姿態となっている。衣の皺に見られる翻波式衣文(ほんぱしきえもん)(大小の襞を交互に繰り返すもので平安時代前期に多く見られる)や茶杓形衣文(ちゃしゃくがたえもん)(抹茶をすくう匙(さじ)の先端の形に似る)の彫り口はやや深めであるなど、全体的に平安時代前期の作風が見られる。しかし、腰高の均整のとれたプロポーションになるのは平安時代後期になってからの特色であり、仏像彫刻史における平安時代の前期と後期の端境期とされる10世紀前半に位置付けられる興味深い遺例。                                         (画像はネットより)

 

 

 

 

屋根には反りのある本瓦葺き。軒丸瓦の文様は新しいと巴文。軒は二重の平行垂木を組み物で支える。

 

 

 

 

隅柱の組み物を見ると禅宗様式の木鼻、柱の頂部に乗る雲形の大斗は禅宗の特徴を表す。柱は上下の部分がすぼんだ粽柱。

 

 

 

 

 

 

南西側の五重塔前から見た本堂。入母屋造りの妻は、二重虹梁を大瓶束で受けた妻飾は禅宗様のもので、中央には連子窓が設けられた。堂宇の前面に1間の向拝を持つ。 四方に濡れ縁の回廊を廻らす。解放ができる唐桟戸は全面と両側2間。

 

 

 

 

鐘楼。   正保4年(1657)福山藩主・水野宗久の寄贈。面取りした角柱を方形の礎石上で内側に傾斜をつけて建てたいわゆる四方転びの建て方で、特に角柱を内湾させているのが特徴で、江戸時代初期の雄健な手法を示す建造物。

宗休とは福山藩主初代水野勝成の隠居後の号です。

仏様への参拝のご挨拶として、突くことができますが、心おだやかに一度だけ優しくお突きください。

 

 

 

 

梵鐘は明暦3年(1657)福山藩三代目藩主・水野勝貞の寄贈によるもの。

 

 

五重塔【国宝】   南北朝時代の明和4年(1348)に建立。純和様の姿をとり、その全景は極めて美しい。全国の五重塔のうち5番目の古さで中世密教寺院における現存唯一の遺例といわれる。また、民衆が主になって建てた塔としては日本最古となる。本塔の心柱が初重の天井で止まって浮いていて、全国的にも珍しい例。。浮いているのは地震対策で、心柱制振と言われ、東京スカイツリーにも採用されている。

 

 

 

 

正面から見た五重塔。      高さ24.19m。初重内部には広島県指定重要文化財の弥勒菩薩と不動明王、愛染明王の坐像が安置されている。これを囲む四天柱には金剛界の諸仏諸菩薩などの密教世界が広がっている。

 

 

相輪。  九輪のごく一般的な形。相輪の根元となる伏鉢(台座の上)には「この塔は草戸千軒の人々が少しずつお金を持ち寄って作られた民衆の塔である」という趣旨の文が刻まれているという。

 

 

 

 

 

 

 

初層部分。     初層内部は絢燗豪華な密教世界が広がり、四方の壁面に描かれた真言八祖行状図、仏壇上の中尊と四天柱三十六尊を合わせた金剛界三十七尊、長押・天井などには唐草文・花鳥・飛天などが極彩色で描かれ、さながら浄土の世界を表している。内部は非公開。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五重塔の仏像。 左から木造弥勒菩薩坐像、不動明王座像、愛染明王坐像。いずれも南北朝(1348)ごろの作で広島県指定重要文化財。

 

 

 

五重塔の西側から見た境内全景。

 

 

 

 

 

地蔵堂。 六体の地蔵が鎮座する。

 

 

 

 

愛宕神社入口の石鳥居。

 

 

 

 

樹齢900年の楠。 樹周りは約7m。

 

 

 

 

弁天池と七福神。 境内の南端に小さな池があり畔に七福神の七体の像がある。

 

 

 

弁天様は、弁天池の中央に鎮座している。

 

 

 

 

弁天池の高台から東側一帯に福山市街が広がる。

 

 

 

 

ズームで見た福山のビル群。

 

 

 

 

少し離れて五重塔。

 

 

 

 

明王院境内全景。

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー弥勒菩薩への信仰というものは、、死後に兜率天浄土へ生まれ変わり、同時に五十六億七千万年後に弥勒菩薩が如来となるときには、その力に頼ってこの世に生き返りたい、というものだった。じつは、この明王院の五重塔は、そうした弥勒菩薩の兜率天浄土に憧れる人びとの「一文勧進」によって建ったものとされる。一文勧進とは、一人一文ずつ寄付を募ることだ。この塔は、たくさんの人びとがわずかなお金を出し合って建立したものである。その話を聞いたとき、人びとの小さな願いや祈りを集めてこの塔が建ったということが、とても尊いように感じられた。つまり、ここに塔として立っているものは、たんに建築技術が結集したものではない。そこに使われている材木でもない。その時代を生きた人びとの願い、喜び、悲しみ、祈り、そうしたものすべてが、塔のかたちになってそびえているのだ。時代が古いということよりも、建築学的にすぐれているということよりも、そのことのほうがずっと大事ではなかろうか。そう思ってあらためて眺めると、青空のなかで五重塔が光り輝いているような感じがしてくる。

 

 

 

案内図。

 

 

 

明王院 終了

 

参考資料  五木寛之著「百寺巡礼」第八巻山陰・山陽(講談社刊)  明王院を愛する会HP  Wikipedia                  

      死ぬまでにすべての国宝を肉眼で見る(ブログ)  閑古鳥旅行社(ブログ)ほか

 

コメント

16 永保寺

2023-07-31 | 愛知県

第四十番 永保寺

 

「座禅石」で覚えた不思議な感覚

 

 

 

 

山号は虎渓山というのは、この地が中国廬山の虎渓の景色に似ていることからつけられた。その始まりは、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した武将・土岐頼貞にある。頼貞は北条氏との縁もあり幼少期を鎌倉で過ごし、その際に禅宗の高層たちに帰依し、そのときに夢窓疎石と親交を結んだ。永和3年(1295)ごろに夢窓疎石は元翁本元とともに鎌倉において修行をしていたが、修行のために鎌倉を離れ甲斐や三河に逗留し隠遁をしていた。そのような中で、正和2年(1311)に土岐頼貞から招きを受けることとなる。頼貞の父土岐光定の33回忌を土岐氏の地元定林寺で執り行われた。その後土岐頼貞の別邸のあったと言われる長瀬山の麓に庵を結ぶ。夢窓疎石が長瀬山で道に迷った際に付近の補陀岩上に一寸八分の観世音菩薩像が出現した。夢窓疎石はその菩薩像を本尊として正和3年(1314)に観音堂を建立した。

観音堂は、禅宗様式の建物で鎌倉円覚寺の舎利殿についで、鎌倉末期の唐様建築の優れた代表的遺作であることや、唐様建築の手法に平安時代から引き継いでいる和様建築の手法を折衷させた特殊な建築であること、そして建築物の主要なところの改修後補が少なく、当時の面影を完全に保っているなど、見応えのある建物となっている。

 

参拝日     平成29年(2017)9月27日(木)天候晴れ

 

所在地     岐阜県多治見市虎渓山町1-40                                                 山 号     虎渓山                                                           宗 旨     臨済宗                                                        宗 派     南禅寺派                                                       本 尊     聖観世音菩薩                                                     創建年     正和2年(1313)                                                    開 基     無双疎石(開創) 元翁本元(開山)                                          正式名     虎渓山永保禅寺                                                       文化財     観音堂【国宝】 開山堂【国宝】 名勝庭園

 

 

 

JR多治見駅 駅前からバスで虎渓山バス停で下車  徒歩約5分

 

 

寺境内図

 

 

 

寺入口  こちらの寺は山門が無いのが特徴

 

 

 

永保寺の特徴は、山門が無く里から下がった平地に境内が広がる。

 

 

参道はだらだらの下り坂。

 

 

境内にはおおきな庭園が広がる。

 

 

境内に入るとすぐに目に着くのは観音堂の反り返りが見事な屋根。

 

本堂 平成25年(2013)9月に、本堂と大玄関、庫裡が火災に遭い焼失。平成29年(2017)に本堂と呼ばれる方丈華蔵庵と唐破風の付いた方丈大玄関が再建された。灯籠は陶器の多治見らしく陶器で造られている。

 

 

方丈大玄関  臨済宗道場の玄関は、修行志願者が入門を乞う大事な場所。

 

 

元の位置に復元された庫裡は、切り妻の大き屋根と曲座釜戸の煙りだし屋根。

 

 

庫裡の前の銀杏の大木は樹齢700年と言われ、幹回り4.5m樹高24mほど。

 

 

妻の湾曲した破風板は厚さ9㎝、幅90㎝で長さ4mの檜板を繋いだもの。

 

 

庫裡の入り口。 表札の「雲衲輻輳」は、雲水を目指す者は方々から集まれとのこと。

 

 

玄関は15畳の大きな空間。45cm もある欅の大黒柱に幅24㎝×高さ54 cmの巨大な檜の指し鴨居が頭上をまたぐ。 

 

 

瓦葺きの入母屋袴腰付の鐘楼。宝暦8年(1758)に再建された。

 

 

鐘が見えないが大みそかの鐘の音は全国的にも有名度という。

 

 

建物を支える斗栱は三手先斗栱で最高の格とされる。軒下には木が積まれている詰め組の尾垂木の先部が龍の頭になっている。

 

 

鐘楼や庫裡のある側から庭園を見る。

 

 

開創した夢窓疎石は石立僧(作庭)としても大変優れ夢窓国師として名を残している。当寺のほかに京都では苔寺の西芳寺や天龍寺、鎌倉の瑞泉寺、山梨甲州市の恵林寺などの作庭に係り、今では名園としても有名。

 

 

自然の地形、景観を巧みに利用し築造され中世禅宗寺院の庭園として高く評価されてる。

 

 

池は臥龍池とも心字池とも呼ばれ、池の上には無際橋と呼ぶ屋形のある美しいアーチ状の太鼓橋がかけられている。

 

 

亀島という中島は、上から眺めると亀頭石と亀脚石がはっきり見えるという。

 

屋形の部分は亭榭と呼ぶ。無際橋は煩悩にまみれた此岸の世界と煩悩から解放された此岸の世界を結ぶと言われている。

 

 

妻側に無際橋の扁額が掲げられている。

 

 

 

 

 

臥龍池の中島の上に建つ弁天堂。

 

 

臥龍池を通してみる観音堂。

 

 

観音堂【国宝】 別名水月堂と称され禅宗の伽藍の中で一番大切な仏殿としている。夢窓疎石がこの地に来られて一年後の正和3年(1314)に建立された。疎石が40歳の時である。

 

 

檜皮葺きののびのびとした軒反りを持った屋根。

 

上屋と裳腰の巧みにバランスがとれており、いかにもどっしりとした安定感を与える荘厳な姿は、代表的な禅宗特有の建築スタイルと言える。

 

 

近くから見ると、軒には四方に隅木があるだけで垂木を見せず軒天井は板張りの仕上げである。正面観音開きの桟唐戸の上部には精巧で美しい花狭間の組子がはめ込まれている。

 

 

柱上だけに斗栱を設けた亜麻組の斗栱。内部の写真はないが、床は座式礼拝ができるようで拭板敷とし、裳腰1間通りは吹き放し。

 

 

檜皮葺きの屋根の反りがとても印象的だ。まるでナイフが青空を切るように、両方に鋭く反り返っている。(百寺巡礼 第4巻 五木寛之の文から)

 

 

禅宗建築のさまざまな特徴があると思うが、専門家ではないためよくわからない。

 

岩山の梵音巌の頂に霊擁殿と呼ばれる六角堂が建立されている。中には行基作と言われている地蔵仏がご本尊として祀られている。

 

開山堂【国宝】 夢窓疎石の示寂された翌年の正平7年(1352)に遷壺堂が建立された。当初は祠堂だけ建てられたが、その後相の間を挟み礼堂が増築され、現在の姿になった。

 

 

禅宗の開山堂の中で、こちらの開山堂は最も古いものとされている。

 

屋根は大きく反り、軒下は扇垂木を用い、組み物は三手先斗栱。

 

 

虎渓僧房禅堂を瓦土塀が取り囲む。

 

 

 

 

 

 

 

境内の地表は苔に蔽われ古寺の雰囲気が十分伝わる。

 

 

森の中の永保寺。

 

 

大銀杏と永保寺。

 

 

すぐ近くを土岐川の清んだ水が流れている。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著の「百寺巡礼」からーー私たちは古い寺社に参拝してその場所に立てば、否応なく森林浴のようなエネルギーを浴びることになる。それが、一種の「霊気」として感じられるのだろう。私は、深い信仰心を持たない人が物見雄山で寺に行ってもいっこうにかまわないと思う。バスの乗って観光ツアーでもいい。とにかく寺に行って、どこか自分が惹かれる場所を探してみる。その場所で、ちょっと目を閉じて合掌して見ればいいと思うのだ。そうすれば、天から降りてきたかすかな気配が、頭から足の裏へと抜けていく感覚を感じることがあるだろう。逆に地面からわき上がってくる空気を、かすかに味わえるかもしれない。

寺社をめぐる楽しみというのは、じつはそういう感覚を味わうことではないか。西国三十三所を巡礼する人や四国八十八箇所のお遍路さんなどは、心身にそれは見えないエネルギーを受けることになるのだと思う。巡礼や遍路の旅を終えた人が、生まれ変わったように元気になったりするのは、そのためかもしれない。

 

 

御朱印

 

 

 

永保寺 終了

コメント