古寺を巡る 智積院
真言宗智山派の総本山で名勝庭園と国宝の障壁画など見所のある寺院。
智積院(ちしゃくいん)は真言宗智山派の総本山であり、京都市東山七条にある。この寺には京都駅から1600mほどの距離にあり歩いても行けるが、バスも頻繁に出ているのでバスを利用するのが良い。この周辺には三十三間堂、京都国立博物館、京都女子大学など周辺にある。東海道新幹線DE席の窓には、京都駅の少し手前のトンネルを出たところに智積院の境内が見える。
智積院は、長谷川等伯の障壁画や庭園が有名であるが、清水寺のように観光客が大勢押し掛ける寺ではなく団体客も少ない。寺は、成田山、川崎大師、髙尾山藥王院の大本山を始め、東京都の高幡不動尊、名古屋市の大須観音を別格本山として全国に3000余りの寺院教会を擁し、総本山智積院として全国約30万人の檀信徒の信仰のよりどころとして総菩提所、総祈願所と位置付けられている。
智積院の歴史。 智積院の起源は、紀州(和歌山)の根来山にあった塔頭・大伝法院となる。大伝法院は興教大師覚鑁(こうぎょうだいし・かくばん)という真言宗の僧が高野山に建てたもので、後に根来山に移り、真言宗の根本道場となった。最盛期には、約6000人もの学僧たちが学んでいたという。しかし、巨大勢力を持っていたことが災いし、豊臣秀吉と対立することになり、天正13年(1585)に兵火によって炎上。当時の智積院の住職だった玄宥(げんゆう)は、何とか根来攻めの始まる前に弟子たちとともに京都へ逃たが、寺院は灰燼に帰してしまう。玄宥はなんとか寺院を復興させようとするものの、秀吉の妨害などのために行き場のないまま十数年が過ぎる。その後秀吉が亡くなり世は徳川のものとなり、慶長6年(1601)に、玄宥に京都東山の豊国神社に附属する寺院の土地と建物を与え、ようやく智積院は復興を果たす。
ちなみに、智積院の寺号は「根来寺」、山号は「五百仏山」(いおぶさん/根来にある山の名前)という。
その後大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと、智積院は隣接する別の寺院の土地を与えられ、さらに規模を拡大することになる。その寺院は、天正19年(1591)、秀吉がたった3歳で亡くなった息子・鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲寺(祥雲禅寺)であった。愛息を弔うために秀吉が贅を尽くして建てさせたこの寺は、当時から桃山らしい絢爛豪華さで知られ、「都一番の華やかさ」と評判だった。祥雲寺を譲られた時の智積院の代表者は第三世・日誉能化で、その報せが二条城で伝えられた際に同席していた金地院崇伝(以心崇伝)は、日誉に対し「誠に羨ましい。あなたは果報者だ。」と語った、という逸話もあるという。
それにしても、秀吉が燃やしてしまった寺と、秀吉が建てた寺―奇しくもまったく逆の境遇にあった二つの寺院がひとつになって生まれた智積院。なんとも不思議な、運命の悪戯のようなものを感じてしまう。智積院はその後、何度か火災に遭いつつも、江戸時代前期には弘法大師(空海)以来伝わる真言密教の正当な教えを伝えている寺院として隆盛し、「学山智山」として数多くの僧侶たちが集まる大規模な寺院として発展した。この頃の智積院はいわば、今で言う「大学」のような存在。仏教は勿論、天文学や地学など理系の学問を含め、幅広い分野を学ぶことができたという。そのため他の宗派や一般の人々も集まるようになり、一時は800から1000人以上の僧侶がこの寺で学んでいた。なんでも、「朝食の粥をすする音が七条大橋まで聞こえてきた」とか…。現在も「学山智山」はしっかりと受け継がれており、真言宗智山派・3000寺を束ねる総本山として、毎年多くの僧侶が全国から集まり、修行に励んでいるとのこと。また、朝のお勤めも京都では最大の規模になっている。(HP・京都宝物館探訪記から引用)
参拝日 令和7年(2025) 2月26日(水) 天候晴れ
所在地 京都府京都市東山区東大路通七条下ル東瓦町964 山 号 五百佛山(いおぶさん) 院 号 智積院 宗 派 真言宗智山派 寺 格 総本山 本 尊 金剛界大日如来 創建年 慶長6年(1601) 開 山 玄宥 正式名 五百佛山根来寺智積院 別 称 総本山智積院 札所等 真言宗十八本山第七番 ほか 文化財 【国宝】大書院障壁画25面、松に草花図屏風、金剛経
【重要文化財】絹本著色童子経曼荼羅図、絹本著色孔雀明王像、絹本著色阿弥陀浄土図
境内図。
総門。 東山七条交差点の前にある。
門は、東福門院の旧殿の門を移築したもの。 総本山智積院の大きな石柱。
総門前から見た東山七条交差点、正面は七条通りの京都駅方面。右手に京都国立博物館、左手はハイアットリージェンシー京都と三十三間堂。
土塀の石垣。
境内への入り口は本堂の正面にあり、境内へは自由に立ち入ることができる。
二月末の境内の咲いた紅梅が見事。
金堂。 受付案内所の前をまっすぐ進み石畳の参道を行くと正面に建つ堂宇。弘法大師空海の生誕1200年の記念事業として正和50年(1975)に再建された。本尊の大日如来像もこれにあわせて造立されている。もとの金堂は江戸時代の宝永2年(1705)に建立されたが、明治15年(1882)に放火と思われる火災で焼失している。
正面の向拝。 屋根は入母屋、瓦葺きだが4本の柱からわかるように鉄筋コンクリートの建物である。
正面に掲げられた扁額「智積院」は、智積院第59化主・秋山祐雅による。智積院では僧侶のことを化主という。
外陣から内陣を見る。鎌倉時代の釈迦如来像を安置する。
向拝から境内を見る。
向拝を横から。
金堂の前から明王殿方向を見る。正面の3階建ての建物は、真言宗智山派宗務庁の建物。
明王殿。 昭和22年(1947)の火災により仮本堂であった方丈殿が焼失した際に、明治15年(1882)に焼失した本堂の再建のため、京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本堂の譲渡を受け、現在の講堂のある場所に移築した建物。平成4年(1992)に、講堂再建にともなって現在の場所に移築された。
本尊は不動明王で、明王殿は不動堂とも呼ばれる。
金堂の全景。 建物の軒下から白、赤、黄、緑、青色の仏旗が巡らせてある。
玄宥僧正像。 豊臣秀吉の根来寺攻めから逃れ、秀吉の没後に京都東山に智積院を復興した僧侶。
鐘楼堂。「智専の鐘」といい、平成10年(1998)に旧宗立智山専門学校同窓生の集まりである智専会によって鐘とともに建立、寄進されたもの。
唐門。 名勝庭園、講堂、大書院への入り口。こちらから拝観料が必要。
唐門の正面に講堂。
講堂の扁額は、「講堂」と書かれた、第65世化主・藤井龍心の揮毫。
高浜虚子の句碑。 ーーひらひらとつくもをぬひて落花哉ーー
講堂から名勝庭園へ。
講堂から名勝庭園を見る。
講堂から見た庭園。
左手に講堂、右手に大書院の間をとおり大書院側から建物に上がる。
外側から庭園を見る。大書院と正面に宸殿。
講堂の広縁。講堂は平成4年(1992)の興教大師850年御遠忌記念事業として計画し、平成7年(1995)10月に完成したもの。玄宥僧正が現在の京都東山の地に智積院を再興した折りに、徳川家康公より寄贈された祥雲寺の客殿(方丈)が基になっている。この祥雲寺ゆかりの建物自体は、天和2年(1682)7月に焼失。その後幕府から与えられた東福門院の旧殿・対屋を基に、貞亨元年(1684)に再建されたが、その建物も昭和22年に焼失。現在の講堂は、各種研修の道場として使用している。
講堂の西側の庭園。
集会室(東)講堂には、5つの部屋があり公開されているのは不二の間、金剛の間、胎蔵の間の3部屋であり、日本画家・田渕俊夫画伯より奉納された四季を現した襖絵があるが、当日は非公開だった。また東と西の2つの部屋が集会所となっている。
集会所(東)の襖には、京都生まれの日本画家・後藤順一の百雀図として99羽の雀が描かれている。
集会所(西)。 襖絵は後藤順一の「浄」で枝垂れ桜や蓮の花などが描かれている。
大書院へ。
大書院。 慶長6年(1601)に玄侑僧正が徳川家康から寺地をもらい建立したが、天和2年(1682)の火災で焼失。その後、総門と同じく東福門院の旧殿を移築した。昭和22年(1947)に火災で焼失。昭和23年(1943)に残った古材などを集めて再建された。
正面に8畳の上段の間に18畳の楓の間と桜の間、2間がぶち抜きであり、庭園側に畳一枚分の入側を設け、その外側に濡れ縁のある間取り構成。
壁面には、国宝の障壁画で昭和43年(1968)までは現物が見られたが、現在のモノはレプリカである。国宝の現物は、宝物館に展示されている。
【国宝】旧祥雲寺障壁画「楓図」。 (複製画)日本障壁画の最高傑作とされ、紙本金地著色の襖4面。文禄4年(1593)に安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した絵師の長谷川等伯の息子・久蔵が手掛けたが途中に早死にし、等伯が完成させた。天和2年(1682)に祥雲寺客殿が火災に遭うが、無事に持ち出されて大事に至らなかった経緯があった。
【国宝】旧祥雲寺障壁画「桜図」。(複製画)紙本金地著色の襖4面。長谷川等伯の息子・久蔵の作で、久蔵の遺作となった。
上段の間。
正面の台床の間、左手に天袋付きの違い棚。障壁画は旧祥雲寺障壁画の複製画で「松に立葵図」。
正面。 右の襖絵は、国宝「楓図」の左端部分。
上段の間から室内を見渡す。
楓の間と桜の間間の欄間。
名勝庭園を見る。
一文字手水鉢。 池に浮かぶ船に見たてている。・・・・そのように撮ればよかった。
庭園は豊臣秀吉が建立した祥雲寺時代に原形が造られた。その後、智積院になってからは、第七世運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山第一の庭と言われるようになる。築山・泉水庭の先駆をなした貴重な遺産といわれ、中国の盧山をかたどって土地の高低を利用して築山を造り、その前面に池を掘るとともに、山の中腹や山裾に石組みを配して変化を付けている。
祥雲寺遺構とされる紀州の青石二枚をつないだ石橋。
平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいる造りが特徴。
庭園の奥行きはさほどないが横長に広がっているため、空間を広く感じる。池を常に濁らせているのは、庭の緑が池に綺麗に写りこむようにという工夫。ほかに、僧侶らしい形をした羅漢石があったり、三味線や琵琶を弾くときに使う撥の形の刈り込みなど仕掛けもあるのだが、よくわからなかった。
大書院と宸殿の間にある中庭。奥に法務所の建物。
宸殿。 第44世佐伯隆基能化が賓客を迎える建物として明治28年(1895)に造営されたが、昭和22年(1947)の火災により一旦焼失。その後昭和33年(1958)に再建され、京都画壇の巨匠堂本印象が内部の障壁画を手掛けた。洋装と和装の女性を描いた「婦女喫茶図」や「松桜栁の図」など金色に豊かな色彩で描いた襖絵と対照的に水墨で描かれた「朝顔に鶏の図」「茄子に鶏の図」「流水に鳶の図」などで飾られている。年1度の特別公開はあるが、通常非公開。
大書院の大玄関。 入母屋に唐破風の付いた品格のある玄関。
使者の間。 玄関正面の10畳ほどの部屋。
障壁画。 明治〜大正期の画家・月樵(げっしょう)上人(田村宗立)の南画作品で、「布袋唐子嬉戯の図」。
天井は折り上げ格天井で、鏡板にも細かい格子を施した。
大玄関から法務所(本坊)を見る。
大玄関からつながる講堂を見る。
法務所の屋根の上に煙り抜け小屋が載せられている。
総務所(本坊)。
大玄関から総門を見る。勅使門だったので、この門を使えたのは天皇が勅旨を伝えるために遣わした使者だけだったようだ。
境内の一部。松や杉の間は苔が覆っている。
講堂の裏側の塀。 塀のコーナーに石柱を使用。正面は大玄関と総務所の入口へ。
案内図。
智積院 終了
(参考文献) 智積院HP フリー百科事典Wikipedia HP・京都宝物館探訪記 ほか