百寺巡礼第80番 明王院
東洋のボンベイと隣り合った古寺
倉敷を中心とした三泊四日の岡山旅行の初日の夜は福山に宿泊した。大きなビルが立ち並び、思っていたより都会に見えた福山の市街。駅前のバスターミナルから朝早い便に乗り約10分程度で最寄りのバス停で降りる。ここから明王院の入り口まで歩いて10分強である。8時過ぎであったが、8時から入口の扉が開いているのでちょうどよかった。階段を上り境内はこじんまりした広さである。本堂は内に入ることもできないため参拝をし、堂宇と境内の写真を撮ればすぐ終わる。1時間後が帰りのバス時間で、ちょうどよいスケジュールを組めた。
明王院(みょうおういん)は、広島県の東端の都市・福山市の西側、芦田川に面した愛宕山の麓にある。寺伝によると大同2年(807)に空海が四国を草戸山(愛宕山)の中腹に観世音を安置したのが開基と伝わる。元は西光山理智院常福寺と称した律宗の寺院だったと伝わり、江戸時代に近隣にあった明王院と合併し、中道山円光寺明王院と改称し現在に至る。しかし開基から貞和4年(1348)の五重塔建立に至るまでの約500年間の寺史を示す記録は発見されておらず全く不明である。大同2年の草創期についての記録は江戸時代初期の元和7年(1621)の本堂の棟札に記されているが、空海開基の記録は江戸時代中期の元禄3年(1690)の本堂棟札に記されているのが初見である。だが、本堂に安置されている国の重要文化財の十一面観音立像は平安時代の作であり、開基が平安時代と推測させる貴重な資料となっている。また昭和27年(1962)から行われた本堂解体修理において、現・本堂地下の発掘調査が行われ、現・本堂が建立された元応3年(1321)よりも以前の掘立柱穴が点在する建築遺構が発見され、それは開基時期が現・本堂建立時期よりも前の時代であるとの確実な証拠になっている。
境内前を芦田川が流れるが、平安時代から江戸初期頃まで、この川一帯の地域に門前町として栄えた集落跡が発見され、草戸千軒とよばれた大きな街並が存在していた。この街は、他の地方との物流の交流拠点として繁栄しており、数多くの商工業者がいたと見られ、遠くは朝鮮半島や中国大陸とも交易していたとみられている。また近くには明王院とその隣の草戸稲荷神社の門前町としても繁栄していたとみられる。
参拝日 令和7年(2025)4月18日(木) 天候晴れ
所在地 広島県福山市草戸町1473 山 号 中道山 宗 派 真言大覚寺派 本 尊 十一面観音菩薩 創建年 大同2年(807) 開 基 空海 札所等 中国三十三観音8番 文化財 本堂、五重塔(国宝) 十一面観音菩薩像(国重要文化財)
拝観時間 9:00~16:00 拝観料 無料 アクセス 福山駅前から鞆港行きバス 7分 草戸大橋下車 徒歩(約1100m)14分
草戸千軒があった史跡の案内図。
明王院門前付近。
境内地図。
明王院の寺名を刻んだ石碑。
門前から見た境内。
閻魔堂。 入口門を入ってすぐの堂宇。享保11年(1726)に再建されたもの。閻魔大王ほか十王が祀られている。
閻魔堂と言っているが、実際は扁額のとおり十王堂である。閻魔王をはじめ秦広王、初江王など仏教や道教において地獄で亡くなった人を裁く10人の裁判官のことだという。
入口から本堂に向かう約30数段の石段。
階段の途中に見つけた地蔵。
階段から見る石垣の擁壁と木々が植えられた公園。
階段を上がり下を振り返る。
手水場。 自然石を積み重ねた手水鉢(石)に無造作にも細竹(塩ビ製)から水が滴る。
山門。 切妻屋根の門は慶長19年(1614)に再建されたもの。室町時代の木割(部材の寸法や組み合わせ)が見られるという。全体には雄大で豪壮な門の造り。
中道山の扁額が掛かっている。
山門越しに本堂を見る。
山門を振り返る。
庫裏。 山門を入り境内の右手の建物。 入母屋に本瓦葺きの初期書院形式を残している。初代福井藩主・水野勝成によって再建され、昭和38年(1963)に解体修理され現在に至っている。
朝早く参拝したため窓口は閉まっていた。御朱印ももらえなかった。
庫裏の玄関。 玄関は小屋組みが露出している。部屋には江戸時代に狩野派の絵師によって描かれた障壁画が見られる。
書院。 庫裡とともに、元7年(1621)に福山城初代藩主・水野勝成が、福山城の一部と同様に、神辺城から移築再建したものと伝えられている。昭和37年(1962)に共に県重文に指定された。
内部は非公開であるが、書院の平面は田の字型に四つの部屋に分けてあり、四周を広縁と廊下で取り囲んでいる。北東側の8畳は貴賓の間で床、棚、付書院を備えている。明暦2年(1656) に徳川家光の位牌堂に転用されたが、昭和38年(1963)の解体修理時に元の姿に復元された。鴨居には、江戸時代の俳人 野々口立圃が描いた「三十六歌仙絵」の扁額があり、当時の状態で保存された扁額は、全国でも非常に珍しいもの。
境内を見る国宝の本堂と五重塔。
本堂【国宝】 元応3年(1321)に建立された。外観は禅宗様式が色濃い大きく反った屋根が特徴。昭和39年(1964)に国宝に指定された。全体的に和洋の姿をとり、細部において唐様、大仏様を組合わせた瀬戸内海沿岸では最も古く、全国でも最古級の折衷様式の建物。
向拝を見る。
向拝虹梁に取り付けられた蟇股。唐獅子の彫刻だが、色彩が薄れその姿が捉え難い。
堂内部は、密教本堂の特徴である格子戸で厳格に仕切ってあり、格子戸の奥側が内陣でとなっている。内陣には、厨子に納められた国の重要文化財指定の十一面観音立像(秘仏 で33年毎のご開扉)や福山市の重要文化財の仏像が安置されており、外陣の天井には、日本で最初に寺院に用いられた輪垂木天井となっている。外陣にも入室はできない。
十一面観音菩薩立像【国重要文化財】 本堂の本尊・秘仏として、須弥壇上厨子に安置。 一木造で、本体と蓮華座の蓮肉部と共木で彫出し、下地は錆漆(砥粉(とのこ)と漆を混ぜたもの)を施し、古色塗りとしている。なお、背面腰部辺りに嵌)め板があり、一部に内刳(うちぐ)りが施されている。左手は胸前に挙げて華瓶(けびょう)を持ち、右手は垂下して掌を開いて前に向け、右脚をわずかに踏み出し、蓮華座の上に立つ。頭上には単髻(たんけい)を結い、頂上に阿弥陀仏面、天冠台上の地髪に菩薩面三、忿怒(ふんぬ)面三、狗牙上出(くげじょうしゅつ)面三、背面に大笑(だいしょう)面、以上十面を一列に並べている。また、正面中央には化仏(けぶつ)(阿弥陀如来立像)を配し、眼は彫眼(彫刻して彩色を施す)で半眼開きとし、薄めの唇を緩く閉じ、端麗な面相を示している。着衣は条帛(じょうはく)・天衣(てんね)・裙(くん)・腰布・腰帯を着けている。なお、左足第一指先をわずかに上げているのは、衆生を救いに行く微妙な一瞬を示すものとされている。
観音菩薩像の、顔はやや面長で明快な目鼻立ちを刻み、肩を強く張り、胸回りは豊かで、両肘内側から胴をわずかに絞り、腰以下の肉付きも豊満に表し、どっしりとした姿態となっている。衣の皺に見られる翻波式衣文(ほんぱしきえもん)(大小の襞を交互に繰り返すもので平安時代前期に多く見られる)や茶杓形衣文(ちゃしゃくがたえもん)(抹茶をすくう匙(さじ)の先端の形に似る)の彫り口はやや深めであるなど、全体的に平安時代前期の作風が見られる。しかし、腰高の均整のとれたプロポーションになるのは平安時代後期になってからの特色であり、仏像彫刻史における平安時代の前期と後期の端境期とされる10世紀前半に位置付けられる興味深い遺例。 (画像はネットより)
屋根には反りのある本瓦葺き。軒丸瓦の文様は新しいと巴文。軒は二重の平行垂木を組み物で支える。
隅柱の組み物を見ると禅宗様式の木鼻、柱の頂部に乗る雲形の大斗は禅宗の特徴を表す。柱は上下の部分がすぼんだ粽柱。
南西側の五重塔前から見た本堂。入母屋造りの妻は、二重虹梁を大瓶束で受けた妻飾は禅宗様のもので、中央には連子窓が設けられた。堂宇の前面に1間の向拝を持つ。 四方に濡れ縁の回廊を廻らす。解放ができる唐桟戸は全面と両側2間。
鐘楼。 正保4年(1657)福山藩主・水野宗久の寄贈。面取りした角柱を方形の礎石上で内側に傾斜をつけて建てたいわゆる四方転びの建て方で、特に角柱を内湾させているのが特徴で、江戸時代初期の雄健な手法を示す建造物。
宗休とは福山藩主初代水野勝成の隠居後の号です。
仏様への参拝のご挨拶として、突くことができますが、心おだやかに一度だけ優しくお突きください。
梵鐘は明暦3年(1657)福山藩三代目藩主・水野勝貞の寄贈によるもの。
五重塔【国宝】 南北朝時代の明和4年(1348)に建立。純和様の姿をとり、その全景は極めて美しい。全国の五重塔のうち5番目の古さで中世密教寺院における現存唯一の遺例といわれる。また、民衆が主になって建てた塔としては日本最古となる。本塔の心柱が初重の天井で止まって浮いていて、全国的にも珍しい例。。浮いているのは地震対策で、心柱制振と言われ、東京スカイツリーにも採用されている。
正面から見た五重塔。 高さ24.19m。初重内部には広島県指定重要文化財の弥勒菩薩と不動明王、愛染明王の坐像が安置されている。これを囲む四天柱には金剛界の諸仏諸菩薩などの密教世界が広がっている。
相輪。 九輪のごく一般的な形。相輪の根元となる伏鉢(台座の上)には「この塔は草戸千軒の人々が少しずつお金を持ち寄って作られた民衆の塔である」という趣旨の文が刻まれているという。
初層部分。 初層内部は絢燗豪華な密教世界が広がり、四方の壁面に描かれた真言八祖行状図、仏壇上の中尊と四天柱三十六尊を合わせた金剛界三十七尊、長押・天井などには唐草文・花鳥・飛天などが極彩色で描かれ、さながら浄土の世界を表している。内部は非公開。
五重塔の仏像。 左から木造弥勒菩薩坐像、不動明王座像、愛染明王坐像。いずれも南北朝(1348)ごろの作で広島県指定重要文化財。
五重塔の西側から見た境内全景。
地蔵堂。 六体の地蔵が鎮座する。
愛宕神社入口の石鳥居。
樹齢900年の楠。 樹周りは約7m。
弁天池と七福神。 境内の南端に小さな池があり畔に七福神の七体の像がある。
弁天様は、弁天池の中央に鎮座している。
弁天池の高台から東側一帯に福山市街が広がる。
ズームで見た福山のビル群。
少し離れて五重塔。
明王院境内全景。
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー弥勒菩薩への信仰というものは、、死後に兜率天浄土へ生まれ変わり、同時に五十六億七千万年後に弥勒菩薩が如来となるときには、その力に頼ってこの世に生き返りたい、というものだった。じつは、この明王院の五重塔は、そうした弥勒菩薩の兜率天浄土に憧れる人びとの「一文勧進」によって建ったものとされる。一文勧進とは、一人一文ずつ寄付を募ることだ。この塔は、たくさんの人びとがわずかなお金を出し合って建立したものである。その話を聞いたとき、人びとの小さな願いや祈りを集めてこの塔が建ったということが、とても尊いように感じられた。つまり、ここに塔として立っているものは、たんに建築技術が結集したものではない。そこに使われている材木でもない。その時代を生きた人びとの願い、喜び、悲しみ、祈り、そうしたものすべてが、塔のかたちになってそびえているのだ。時代が古いということよりも、建築学的にすぐれているということよりも、そのことのほうがずっと大事ではなかろうか。そう思ってあらためて眺めると、青空のなかで五重塔が光り輝いているような感じがしてくる。
案内図。
明王院 終了
参考資料 五木寛之著「百寺巡礼」第八巻山陰・山陽(講談社刊) 明王院を愛する会HP Wikipedia
死ぬまでにすべての国宝を肉眼で見る(ブログ) 閑古鳥旅行社(ブログ)ほか