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『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

92 善通寺

2025-08-02 | 香川県

百寺巡礼第93番 善通寺

空海の生地に根を張る原日本のすがた   

 

 

 

 

 今回は夫婦旅である。高松の栗林公園、披雲閣、坂出の香風園、宇多津の三角邸、最後に金毘羅山に参拝する二泊三日のなか、香川の生んだスーパースターである空海の生まれた地の善通寺に参拝をすることになった。百寺巡礼第93番の善通寺は、弘法大師三大霊跡の一つ(ほかに和歌山・高野山、京都・東寺)で、総面積45000㎡の広大な境内は、創建の地とされる東院(伽藍)と、空海生誕の地とされる西院(誕生院)の二院に分かれている。金堂、五重塔などが建ち並ぶ「伽藍」は、創建時以来の寺域であり、御影堂を中心とする「誕生院」は、大師さまが誕生された佐伯家の邸宅跡にあたり、ともに弘法大師御誕生所としての由縁を今に伝えている。

真言宗の開祖・空海(弘法大師)は讃岐国、現在の善通寺市の出身である。『多度郡屏風浦善通寺之記』によれば、善通寺は空海の父で地元の豪族であった佐伯田公(いみなは善通)から土地の寄進を受け、大同2年(807)に寺の建立工事に着手し、弘和4年(813)に落成したという。空海の入唐中の師であった恵果が住していた長安の青龍寺を模して建立したといわれ、創建当初は、金堂・大塔・講堂など15の堂宇であったという。寺号の善通寺は、父の名前である佐伯善通から採られ、山号の五岳山は、香色山(こうじきざん)・筆山(ひつざん)・我拝師山(がはいしざん)・中山(ちゅうざん)・火上山(かじょうざん)の5つの山の麓にあることから命名された。江戸時代までは、善通寺と誕生院のそれぞれに住職をおく別々の寺だった。

本格的に興隆をむかえるのは鎌倉時代に入って、天皇や上皇からの庇護や荘園の寄進を受けてからである。この保護の背景には、平安後期に広まった弘法大師信仰があり、誕生の地に伝わり空海の自筆とされる「瞬目(めひき)大師像への崇敬がある。県庁元年(1249)道範のとき誕生院が建立され、東の伽藍、西の誕生院という現在の形式が出来上がった。室町時代以降は足利氏の庇護を受けつつ自律的経営を目指した。 元徳3年(1331年)より中興の祖と云われた宥範が居住し、五重塔などの諸堂を再興し、暦応4年(1341)には初代誕生院住職となる。永禄元年(1558)の兵火に遭い伽藍を焼失するが、天正16年(1588)に織田信長のいとこ生駒親正らの寄進によって立ち直る。近世には、高松松平家や丸亀京極家の庇護を受けて大いに栄えた。明治に入ると付近に陸軍基地が置かれ、軍都として発展した。明治初年に二つの寺院はまとまり善通寺として一の寺院となった。現在は真言宗善通寺派の総本山となっている。また四国八十八ヶ所霊場の75番札所でもある。

 

参拝日      令和7年(2025) 5月29日(木) 天候曇り

 

所在地      香川県善通寺市善通寺町3-3-1                                  山 号      屏風浦五岳山                                           院 号      誕生院                                              宗 派      真言宗善通寺派                                              寺 格      総本山                                              本 尊      薬師如来                                             創建年      大同2年(802)(伝)                                        開 基      佐伯善通                                             正式名      屏風浦五岳山善通寺                                        札所等      四国八十八箇所75番 ほか                                     文化財      金銅錫杖頭、一字一仏法華経所品(国宝)  金堂、五重塔(国十四文化財)

参拝時間     全日可能                                             拝観料      なし                                                               アクセス     JR土讃線善通寺駅下車 1300m 徒歩16分 高速高松道善通寺IC 3300m

 

 

 

 

 

善通寺境内図。

 

 

 

 

東院(伽藍)境内図。

 

 

 

 

南大門【国登録文化財】   東院(伽藍)の南に位置する善通寺の正門。現在の建物は日露戦争戦勝を記念して明治41年(1908)に再建されたもの。高麗門と呼ばれる形式で造られており、高さは9.7m。

 

 

 

 

正面上方には善通寺の山号である「五岳山」の扁額。弘法大師空海の生涯とその奇跡・霊瑞をあらわした「高野大師行状図画」には善通寺の門に掲げられていたとされる弘法大師自筆の額に関する話が載せられている。門頂部の棟積の水板部分には、龍・迦陵頻伽(かりょうびんか)・鳳凰が立体的にあらわされている。

 

 

 

軒先の四隅には四天王像(南東:持国天、南西:増長天、北西:広目天、北東:多聞天)が鎮座。写真は南西側であるの増長天。

 

 

「高野大師行状図画」の一部から。~その昔、善通寺には弘法大師筆の扁額が掲げられた門があった。陰陽師・安倍晴明は縁あって讃岐国を訪れる機会があり、この門の前にさしかかると配下の鬼神がもつ松明の火が消え、門を通り過ぎると再び火がともったという。これを見て晴明は、この門には四天王がおり、寺を火災から守護していることを感じ取ったという。~南大門に掲げられた四天王はこの霊瑞に基づいている。正面に金堂。

 

 

 

 

 

南大門を境内側から見る。

 

 

 

 

 

正面に金堂(国宝)、右手に五重塔(国宝)、左手に大楠。

 

 

 

 

大楠。  南大門北と五社明神社のかたわらにある2株の楠は、いずれも樹齢千数百年と伝え、大師さまの幼少の頃、そして善通寺の創建当時を偲ばせる大木。「善通寺境内の大グス」として香川県の天然記念物に指定。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

釈迦堂を中心に左金堂(国宝)、右五重塔(国宝)。

 

 

 

 

五重塔【国宝】。     基壇から相輪までの高さが約43m。国内の木造塔として3番目の高さとなる。創建以来いくたびかの倒壊、焼失により再建を繰り返し、現在のものは明治35年(1902)に完成し4代目の塔となる。

 

 

この五重塔には、一般的な木造多層塔とは異なるふたつの特徴がある。ひとつは五層、すべての階の天井が高くつくられ、人が立って歩けるようになっている点。こうした構造はめずらしく、以前は5階まで上がって眺望を楽しめたようだ。もうひとつの特徴は、「懸垂工法」で塔の中心に心柱が通っているが、こちらの心柱は、地面(基礎の礎石)から浮いている。心柱は5層目屋根裏で鎖を使って吊り下げられ、それ以外の周りの部材とは構造的につながっていない。この心柱の構造上の役割は未だ解明されていないという。

 

 

この五重塔には、一般的な木造多層塔とは異なるふたつの特徴がある。ひとつは五層、すべての階の天井が高くつくられ、人が立って歩けるようになっている点で、このような構造はめずらしく、以前は5階まで上がって眺望を楽しめたようだ。もうひとつの特徴は、「懸垂工法」である。塔の中心の心柱は塔全体を支える重要な部材となるが、善通寺の五重塔の心柱は、地面(基礎の礎石)から浮いており、5層目屋根裏で鎖を使って吊り下げられ、それ以外の周りの部材とは構造的につながっていない。この心柱の構造上の役割は未だ解明されていないという。

 

 

 

 

1層目の正面。

 

 

塔の中には、密教思想の中心的存在である五智如来(五仏)が安置されている。そのうち4体は、1階の壇上、心柱を囲むように安置。東は白象にのる阿閦(あしゅく)如来、南は馬にのる宝生(ほうしょう)如来、西は孔雀にのる阿弥陀如来、北は金翅鳥(迦楼羅)にのる不空成就(ふくうじょうじゅ)如来。そして、五智如来の中尊大日如来(非公開)は5階の厨子内に安置されている。                    (写真は善通寺HPより)

 

 

 

 

金堂【国宝】    善通寺の本堂となり、伽藍(東院)の中央に建つ。創建期の建物は、永禄元年(1558)の兵火によって焼失し、元禄12年(1699)に再建されたもの。

 

 

 

手水舎。 巨大な自然石を刳り貫いた手水鉢。

 

 

 

一重裳階付入母屋造の本瓦葺で、床は平瓦を敷き詰めた土間。正面と両側面には火灯窓が配され、その上部には四面すべてに「ゆらぎ」の連子欄間が施されている。床の構造も含めこれらの意匠上の特徴は、禅宗様という建築様式にもとづくもので、装飾は極めて簡素。

 

 

 

 

正面の裳階の上の扁額「大宝楼閣陀羅尼」は有栖川宮熾仁親王のそ揮毫。裳階の下の扁額は「本尊薬師如来」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂内の中央須弥壇上に座すのが、善通寺の本尊・薬師如来坐像。御室大仏師・北川運長の製作で、元禄13年(1700)に完成。像高は3m。ヒノキ材による寄木造で、表面は漆地に金箔を押している。眼には水晶を嵌め込んで生気に満ちた表情をつくりだしている。この仏像の中には空海が自ら彫ったという仏像が収められているらしいという。

 

 

 

鐘楼。  江戸時代末期に再建されたもの。袴腰という広がりのある腰が特徴。鐘は昭和33年(1958)に鋳造されたもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

中門。  江戸末期に再建されたもの。平成30年(2018)に改修された。一間一戸楼門、入母屋造本瓦葺。下層では左右に袴腰状の板壁を設け、虹梁には雲龍や鶴を彫る。上層は桁行三間梁間二間とし、吹き放つ。軒は総反りで垂木を扇に配り、優美な意匠とする。特異な外観をもつ門である。

 

 

 

 

扁額は「善通寺」。

 

 

 

 

東院(伽藍)と西院(誕生院)の通路。

 

 

 

 

華蔵院。  善通寺の塔頭。以前は49の塔頭があったそうだが、現在は5寺だけ。

 

 

 

 

勧智院。   善通寺の塔頭の一つ。唐破風屋根がひときわ目立った。

 

 

 

 

西院境内図。                                 (画像はネットから)

 

 

 

 

仁王門。    西院(誕生院)の正門。この仁王門前の石橋は、昔は毎月20日にのみ通行できたということから「廿日橋(はつかばし)」と呼ばれている。

 

 

 

 

西院の東側の門で、正面左右には金剛力士像(仁王)が立ち、西側には大草履が奉安されている。現在の建物は明治22年(1889)の再建。金剛力士像は南北朝時代・応安3年(1370)の製作。

 

 

 

三間一戸の八脚門。

 

 

 

正面には「遍照金剛閣」の扁額がかかる。遍照金剛は空海(弘法大師)の灌頂名であり、空海の生家への入り口という意味と思われる。

 

 

仁王像。      寄せ木造りで、高さは左の吽形像が1・89m。制作した仏師は不詳。文献や修理の際の記録等を検証した結果、14世紀ごろの南北朝時代の応安3年(1370)の作品ではないかと推測されている。

 

 

 

阿形像。      右側に安置され高さが1・94m。

 

 

 

 

大わらじ。     仁王門をくぐって金剛力士像の裏側に奉納された「大わらじ 」が掲げられている。金剛力士の履物だという。

 

 

 

 

「五色幕」が懸けられ、門の向こうは屋根の廊下を通り御影堂へ。

 

 

 

 

御影堂前回廊。    大正4年(1915)の建築。全長9間梁間1間。十二支の動物と鳳凰の彫物が上部に掲げられている。両側には17枚の空海の生涯を表した絵が掲げられている。礎石上に几帳面取方柱を建て、柱上に三斗を組み、虹梁形頭貫で固め、大瓶束が棟木を支持する

 

 

 

 

妻は唐破風造とする。破風部には鳳凰の彫り物。

 

 

 

梁間中備の龍彫刻や、柱の貘鼻、獅子鼻が重畳し、御影堂の参道を飾る。

 

 

 

 

前回廊を振り返り見る。

 

 

 

 

鐘楼。  昭和53年(1978)に創建されたもの。

 

 

 

 

手水舎。

 

 

 

 

御影堂【国重要文化財】     西院に御影堂があり、弘法大師空海が生まれた佐伯家の邸宅跡に建てられた寺院。江戸時代まで独立した寺院として善通寺全体を監督、管理していた。御影堂はその中心となる。拝殿と奥殿からなり、現在の建物は天保2年(1831)の建立で、昭和12年(1937)に大規模な改修を行っている。建物は前寄りで十字形に入母屋が交差し、正面に三間の向拝をつけた。

 

 

 

「御影」とは、一般的には祖師そしてそのお姿をいい、真言宗では弘法大師空海のお姿を指し、御影堂奥殿の厨子内には秘仏・瞬目大師(めひきだいし)像がまつられている。

 

 

 

正面の扁額「弘法大師誕生之場」は江戸中期から後期の関白・一条忠良(明治天皇の皇后・昭憲皇太后の祖父)によるもの。

 

 

 

外陣から内陣を拝む。 外陣は桁行七間梁間4間となり、その奥に内陣として桁行六間梁間五間が付設された。組み物は平三斗。天井は内陣、外陣とも格天井を張り、平明で広い礼拝空間になっている。

 

 

 

内陣。     寺伝では、空海が唐にわたる際、寂しがり心配する母上のために、池に映る我が身を写した画像だと伝えられている。そしてその厨子前には木造の弘法大師像と四天王像を安置し、幼少時のお大師さまの姿をあらわした稚児大師像やご両親の佐伯善通、玉寄御前の像もあわせて奉安されていまる。                (写真は善通寺HPより)

 

 

 

戒壇めぐり。  御影堂の地下には約100mの通路をめぐる「戒壇めぐり」があり、真っ暗な中を進み自己を見つめなおす精神修養の道場となっている。中心は、弘法大師の母・玉寄御前のお部屋があったとされる場所に大日如来像を安置し、大師とのご縁を結ぶことができる。

 

 

 

御影堂を横から。御影堂の奥に、奥殿があり玉寄御前のお部屋があった場所と伝えられている。

 

 

 

 

 

 

 

御影堂から渡り廊下でつながる聖霊殿、護摩堂、親鸞堂と並ぶ。

 

 

 

 

御影堂から聖霊殿につながる渡り廊下。

 

 

 

 

御影堂と聖霊殿の渡り廊下付近から見る西院境内。

 

 

 

 

聖霊殿。 昭和15年(1940)に建立されたもの。

 

 

 

護摩堂。不動明王をまつる堂で、現在の建物は昭和15年(1940)の落慶。堂内中央壇上に、不動明王坐像を安置し、その正面に護摩壇を設けており、諸願を祈祷する「護摩」の修法が行われる。護摩とは密教の秘法で、不動明王を奉じて供養し、壇上の炉に火を起こして「護摩木」を焼べて祈祷する。護摩木に込められた諸々の願いは炎によって清められ、煙となって諸仏に届けられるという。

 

 

親鸞堂。  浄土真宗の開祖、見真大師親鸞をまつる堂。親鸞聖人の師である法然上人が参詣した善通寺に自らも訪れたいという願いを果たせず、その願いを込めこの木像を送られたと伝わっている。この他、善通寺には法然上人が建立したと伝える逆修塔があり、鎌倉時代に参詣したと伝わっている。法然上人の弘法大師空海に対する敬意の念はおそらく親鸞にも受け継がれ、浄土真宗の門徒による堂宇の建立へとつながったようだ。

 

 

 

内陣の黒漆塗り厨子内には、木造の親鸞坐像が安置されている。木彫の親鸞像は珍しく、別名を「鎌田の御影」という。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぼやけ地蔵堂【国登録文化財】。    昭和14年(1940)に創建。ある人が子供の頬やけ(あざ・やけどの痕)の治癒をこの地蔵菩薩に3年間お願いしたところきれいにとれたといい、あざや病気の平癒に功徳のある「ほやけ地蔵」として信仰を集めることとなった。

 

 

 

ほほにあざがある地蔵。

 

 

 

ぼやけ地蔵堂の周りには無数の石地蔵が立っている。その顔の表情はひとつひとつ異なるので、見るのも面白い。

 

 

 

 

光明殿。 納骨永代供養施設として平成21年(2009)建立された。基壇部の八角形の十三層塔は追善供養のご本尊「十三仏」をあらわし、その上に立つ五輪塔は大宇宙そして胎蔵界大日如来を象徴するもの。

 

 

 

 

 

聖天堂。 「聖天さん」として親しまれる大聖歓喜自在天は歓喜天とも呼ばれる。あらゆる罪障を取り除き、富貴財福をも受けるとともに縁結び・夫婦和合・子授け等、その功徳は広大無辺。現在の建物は、平成16年(2004)に再建されたもの。

 

 

 

 

聖天堂の外陣。

 

 

 

 

聖天堂付近から境内を見る。

 

四国八十八ヶ所お砂踏み。    四国八十八ヶ所各霊場寺院の御本尊をお祀りし、各寺院より頂戴した境内のお砂をそれぞれの正面に敷き、それらを踏みながら礼拝していくことにより、四国八十八ヶ所霊場を巡拝されると同じような功徳を積めるというもの。

 

 

 

 

パゴダ供養塔。    太平洋戦争中にビルマ戦線で亡くなられた全国18万有余の方々、また、ビルマ国独立のために戦死した人々、イギリス・インド軍の戦士の霊を合祀している。昭和45年(1970)8月15日建立。     

 

 

 

正覚門。  昭和53年(1978)に建立された西院の西側の門。

 

 

 

正覚門から済世橋を見る。

 

 

 

正覚門を済世橋から見る。

 

 

 

済世橋。  参拝者用駐車場から西院(誕生院)にかかる石造りの橋。昭和53年(1978)に、西門にあたる「正覚門」と共に建設された。橋の欄干には、真言八祖の名号をあらわす種子が刻まれている。

 

 

 

 

案内図。

 

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー私たちはどうしても、天皇家の歴史をはじめとして、中央政権が編纂した正史が”歴史”だと思ってしまっている。だが、各地の寺々を訪ねてみると、そこには中央政権と関係ない独自の豊かな文化があり、独自の歴史があることが多かった。つまり、この日本列島の北から南までの日本人の生活の全歴史が、正史としての日本史の底流に存在しているのである。四国へ来てさまざまな文物を眺め、善通寺を訪れて強く感じたのはそのことだった。そして、空海は少年期をここで過ごし、中国へ留学し、帰国して新しく真言密教の世界をつくりあげた。後世の人びとに天才と謳われる空海という人を育んだのは、この讃岐の土地だったのである。海に向かって開けているこの土地には、正式に仏教が日本に伝来する以前に、仏教がすでに流れ着いて存在していたのではないか。表通りの歴史だけでなく、目に見えないところで息づいてきた歴史を見直すことが大事だ。とつくづく感じさせられる。

 

 

御朱印

 

 

 

善通寺 終了

 

参考資料   五木寛之著「百寺巡礼」第八巻山陰・山陽(講談社)  善通寺HP  Wikipedia  ほか 

 

 

*五木寛之著「百寺巡礼」参拝済一覧

第1巻  奈良    10寺

第2巻  北陸     1寺

第3巻  京都Ⅰ   10寺

第4巻  滋賀・東海  9寺

第5巻  関東・信州  9寺

第6巻  関西     4寺

第7巻  東北     7寺

第8巻  山陰・山陽  3寺

第9巻  京都Ⅱ    9寺

第10巻 四国・九州  5寺

         計 67寺

        

 

  

 

 

 

 

 

 

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91 明王院

2025-07-26 | 愛知県

百寺巡礼第80番 明王院

東洋のボンベイと隣り合った古寺

 

倉敷を中心とした三泊四日の岡山旅行の初日の夜は福山に宿泊した。大きなビルが立ち並び、思っていたより都会に見えた福山の市街。駅前のバスターミナルから朝早い便に乗り約10分程度で最寄りのバス停で降りる。ここから明王院の入り口まで歩いて10分強である。8時過ぎであったが、8時から入口の扉が開いているのでちょうどよかった。階段を上り境内はこじんまりした広さである。本堂は内に入ることもできないため参拝をし、堂宇と境内の写真を撮ればすぐ終わる。1時間後が帰りのバス時間で、ちょうどよいスケジュールを組めた。

明王院(みょうおういん)は、広島県の東端の都市・福山市の西側、芦田川に面した愛宕山の麓にある。寺伝によると大同2年(807)に空海が四国を草戸山(愛宕山)の中腹に観世音を安置したのが開基と伝わる。元は西光山理智院常福寺と称した律宗の寺院だったと伝わり、江戸時代に近隣にあった明王院と合併し、中道山円光寺明王院と改称し現在に至る。しかし開基から貞和4年(1348)の五重塔建立に至るまでの約500年間の寺史を示す記録は発見されておらず全く不明である。大同2年の草創期についての記録は江戸時代初期の元和7年(1621)の本堂の棟札に記されているが、空海開基の記録は江戸時代中期の元禄3年(1690)の本堂棟札に記されているのが初見である。だが、本堂に安置されている国の重要文化財の十一面観音立像は平安時代の作であり、開基が平安時代と推測させる貴重な資料となっている。また昭和27年(1962)から行われた本堂解体修理において、現・本堂地下の発掘調査が行われ、現・本堂が建立された元応3年(1321)よりも以前の掘立柱穴が点在する建築遺構が発見され、それは開基時期が現・本堂建立時期よりも前の時代であるとの確実な証拠になっている。

境内前を芦田川が流れるが、平安時代から江戸初期頃まで、この川一帯の地域に門前町として栄えた集落跡が発見され、草戸千軒とよばれた大きな街並が存在していた。この街は、他の地方との物流の交流拠点として繁栄しており、数多くの商工業者がいたと見られ、遠くは朝鮮半島や中国大陸とも交易していたとみられている。また近くには明王院とその隣の草戸稲荷神社の門前町としても繁栄していたとみられる。

 

参拝日     令和7年(2025)4月18日(木) 天候晴れ

 

所在地     広島県福山市草戸町1473                                       山 号     中道山                                               宗 派     真言大覚寺派                                            本 尊     十一面観音菩薩                                           創建年     大同2年(807)                                            開 基     空海                                                札所等     中国三十三観音8番                                          文化財     本堂、五重塔(国宝)  十一面観音菩薩像(国重要文化財)

拝観時間    9:00~16:00                                                      拝観料     無料                                                   アクセス    福山駅前から鞆港行きバス 7分 草戸大橋下車 徒歩(約1100m)14分 

      

 

 

 

 

草戸千軒があった史跡の案内図。

 

 

 

 

明王院門前付近。

 

 

 

境内地図。

 

 

 

 

明王院の寺名を刻んだ石碑。

 

 

 

 

門前から見た境内。

 

 

 

閻魔堂。   入口門を入ってすぐの堂宇。享保11年(1726)に再建されたもの。閻魔大王ほか十王が祀られている。

 

 

 

閻魔堂と言っているが、実際は扁額のとおり十王堂である。閻魔王をはじめ秦広王、初江王など仏教や道教において地獄で亡くなった人を裁く10人の裁判官のことだという。

 

 

 

 

入口から本堂に向かう約30数段の石段。

 

 

 

 

階段の途中に見つけた地蔵。

 

 

 

 

階段から見る石垣の擁壁と木々が植えられた公園。

 

 

 

 

階段を上がり下を振り返る。

 

 

 

 

手水場。  自然石を積み重ねた手水鉢(石)に無造作にも細竹(塩ビ製)から水が滴る。

 

 

 

 

山門。  切妻屋根の門は慶長19年(1614)に再建されたもの。室町時代の木割(部材の寸法や組み合わせ)が見られるという。全体には雄大で豪壮な門の造り。

 

 

 

 

中道山の扁額が掛かっている。

 

 

 

 

山門越しに本堂を見る。

 

 

 

 

山門を振り返る。

 

 

 

 

庫裏。  山門を入り境内の右手の建物。 入母屋に本瓦葺きの初期書院形式を残している。初代福井藩主・水野勝成によって再建され、昭和38年(1963)に解体修理され現在に至っている。

 

 

 

 

朝早く参拝したため窓口は閉まっていた。御朱印ももらえなかった。

 

 

 

庫裏の玄関。 玄関は小屋組みが露出している。部屋には江戸時代に狩野派の絵師によって描かれた障壁画が見られる。

 

 

 

書院。   庫裡とともに、元7年(1621)に福山城初代藩主・水野勝成が、福山城の一部と同様に、神辺城から移築再建したものと伝えられている。昭和37年(1962)に共に県重文に指定された。

 

 

内部は非公開であるが、書院の平面は田の字型に四つの部屋に分けてあり、四周を広縁と廊下で取り囲んでいる。北東側の8畳は貴賓の間で床、棚、付書院を備えている。明暦2年(1656) に徳川家光の位牌堂に転用されたが、昭和38年(1963)の解体修理時に元の姿に復元された。鴨居には、江戸時代の俳人 野々口立圃が描いた「三十六歌仙絵」の扁額があり、当時の状態で保存された扁額は、全国でも非常に珍しいもの。

 

 

 

 

境内を見る国宝の本堂と五重塔。

 

 

 

本堂【国宝】    元応3年(1321)に建立された。外観は禅宗様式が色濃い大きく反った屋根が特徴。昭和39年(1964)に国宝に指定された。全体的に和洋の姿をとり、細部において唐様、大仏様を組合わせた瀬戸内海沿岸では最も古く、全国でも最古級の折衷様式の建物。

 

 

 

向拝を見る。

 

 

 

 

向拝虹梁に取り付けられた蟇股。唐獅子の彫刻だが、色彩が薄れその姿が捉え難い。

 

 

 

堂内部は、密教本堂の特徴である格子戸で厳格に仕切ってあり、格子戸の奥側が内陣でとなっている。内陣には、厨子に納められた国の重要文化財指定の十一面観音立像(秘仏 で33年毎のご開扉)や福山市の重要文化財の仏像が安置されており、外陣の天井には、日本で最初に寺院に用いられた輪垂木天井となっている。外陣にも入室はできない。

 

 

 

十一面観音菩薩立像【国重要文化財】  本堂の本尊・秘仏として、須弥壇上厨子に安置。 一木造で、本体と蓮華座の蓮肉部と共木で彫出し、下地は錆漆(砥粉(とのこ)と漆を混ぜたもの)を施し、古色塗りとしている。なお、背面腰部辺りに嵌)め板があり、一部に内刳(うちぐ)りが施されている。左手は胸前に挙げて華瓶(けびょう)を持ち、右手は垂下して掌を開いて前に向け、右脚をわずかに踏み出し、蓮華座の上に立つ。頭上には単髻(たんけい)を結い、頂上に阿弥陀仏面、天冠台上の地髪に菩薩面三、忿怒(ふんぬ)面三、狗牙上出(くげじょうしゅつ)面三、背面に大笑(だいしょう)面、以上十面を一列に並べている。また、正面中央には化仏(けぶつ)(阿弥陀如来立像)を配し、眼は彫眼(彫刻して彩色を施す)で半眼開きとし、薄めの唇を緩く閉じ、端麗な面相を示している。着衣は条帛(じょうはく)・天衣(てんね)・裙(くん)・腰布・腰帯を着けている。なお、左足第一指先をわずかに上げているのは、衆生を救いに行く微妙な一瞬を示すものとされている。

観音菩薩像の、顔はやや面長で明快な目鼻立ちを刻み、肩を強く張り、胸回りは豊かで、両肘内側から胴をわずかに絞り、腰以下の肉付きも豊満に表し、どっしりとした姿態となっている。衣の皺に見られる翻波式衣文(ほんぱしきえもん)(大小の襞を交互に繰り返すもので平安時代前期に多く見られる)や茶杓形衣文(ちゃしゃくがたえもん)(抹茶をすくう匙(さじ)の先端の形に似る)の彫り口はやや深めであるなど、全体的に平安時代前期の作風が見られる。しかし、腰高の均整のとれたプロポーションになるのは平安時代後期になってからの特色であり、仏像彫刻史における平安時代の前期と後期の端境期とされる10世紀前半に位置付けられる興味深い遺例。                                         (画像はネットより)

 

 

 

 

屋根には反りのある本瓦葺き。軒丸瓦の文様は新しいと巴文。軒は二重の平行垂木を組み物で支える。

 

 

 

 

隅柱の組み物を見ると禅宗様式の木鼻、柱の頂部に乗る雲形の大斗は禅宗の特徴を表す。柱は上下の部分がすぼんだ粽柱。

 

 

 

 

 

 

南西側の五重塔前から見た本堂。入母屋造りの妻は、二重虹梁を大瓶束で受けた妻飾は禅宗様のもので、中央には連子窓が設けられた。堂宇の前面に1間の向拝を持つ。 四方に濡れ縁の回廊を廻らす。解放ができる唐桟戸は全面と両側2間。

 

 

 

 

鐘楼。   正保4年(1657)福山藩主・水野宗久の寄贈。面取りした角柱を方形の礎石上で内側に傾斜をつけて建てたいわゆる四方転びの建て方で、特に角柱を内湾させているのが特徴で、江戸時代初期の雄健な手法を示す建造物。

宗休とは福山藩主初代水野勝成の隠居後の号です。

仏様への参拝のご挨拶として、突くことができますが、心おだやかに一度だけ優しくお突きください。

 

 

 

 

梵鐘は明暦3年(1657)福山藩三代目藩主・水野勝貞の寄贈によるもの。

 

 

五重塔【国宝】   南北朝時代の明和4年(1348)に建立。純和様の姿をとり、その全景は極めて美しい。全国の五重塔のうち5番目の古さで中世密教寺院における現存唯一の遺例といわれる。また、民衆が主になって建てた塔としては日本最古となる。本塔の心柱が初重の天井で止まって浮いていて、全国的にも珍しい例。。浮いているのは地震対策で、心柱制振と言われ、東京スカイツリーにも採用されている。

 

 

 

 

正面から見た五重塔。      高さ24.19m。初重内部には広島県指定重要文化財の弥勒菩薩と不動明王、愛染明王の坐像が安置されている。これを囲む四天柱には金剛界の諸仏諸菩薩などの密教世界が広がっている。

 

 

相輪。  九輪のごく一般的な形。相輪の根元となる伏鉢(台座の上)には「この塔は草戸千軒の人々が少しずつお金を持ち寄って作られた民衆の塔である」という趣旨の文が刻まれているという。

 

 

 

 

 

 

 

初層部分。     初層内部は絢燗豪華な密教世界が広がり、四方の壁面に描かれた真言八祖行状図、仏壇上の中尊と四天柱三十六尊を合わせた金剛界三十七尊、長押・天井などには唐草文・花鳥・飛天などが極彩色で描かれ、さながら浄土の世界を表している。内部は非公開。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五重塔の仏像。 左から木造弥勒菩薩坐像、不動明王座像、愛染明王坐像。いずれも南北朝(1348)ごろの作で広島県指定重要文化財。

 

 

 

五重塔の西側から見た境内全景。

 

 

 

 

 

地蔵堂。 六体の地蔵が鎮座する。

 

 

 

 

愛宕神社入口の石鳥居。

 

 

 

 

樹齢900年の楠。 樹周りは約7m。

 

 

 

 

弁天池と七福神。 境内の南端に小さな池があり畔に七福神の七体の像がある。

 

 

 

弁天様は、弁天池の中央に鎮座している。

 

 

 

 

弁天池の高台から東側一帯に福山市街が広がる。

 

 

 

 

ズームで見た福山のビル群。

 

 

 

 

少し離れて五重塔。

 

 

 

 

明王院境内全景。

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー弥勒菩薩への信仰というものは、、死後に兜率天浄土へ生まれ変わり、同時に五十六億七千万年後に弥勒菩薩が如来となるときには、その力に頼ってこの世に生き返りたい、というものだった。じつは、この明王院の五重塔は、そうした弥勒菩薩の兜率天浄土に憧れる人びとの「一文勧進」によって建ったものとされる。一文勧進とは、一人一文ずつ寄付を募ることだ。この塔は、たくさんの人びとがわずかなお金を出し合って建立したものである。その話を聞いたとき、人びとの小さな願いや祈りを集めてこの塔が建ったということが、とても尊いように感じられた。つまり、ここに塔として立っているものは、たんに建築技術が結集したものではない。そこに使われている材木でもない。その時代を生きた人びとの願い、喜び、悲しみ、祈り、そうしたものすべてが、塔のかたちになってそびえているのだ。時代が古いということよりも、建築学的にすぐれているということよりも、そのことのほうがずっと大事ではなかろうか。そう思ってあらためて眺めると、青空のなかで五重塔が光り輝いているような感じがしてくる。

 

 

 

案内図。

 

 

 

明王院 終了

 

参考資料  五木寛之著「百寺巡礼」第八巻山陰・山陽(講談社刊)  明王院を愛する会HP  Wikipedia                  

      死ぬまでにすべての国宝を肉眼で見る(ブログ)  閑古鳥旅行社(ブログ)ほか

 

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90 二尊院

2025-07-11 | 京都府

百寺巡礼第83番 二尊院

 

送る仏と迎える仏がならぶ寺

 

 

 

 愛宕山、小倉山、嵐山と連なる山々に囲まれた嵯峨野は、古典文学の舞台としても知られる。源氏物語や平家物語、そして藤原定家が選んだ小倉百人一首の小倉もこの嵯峨野の小倉山のことである。小倉山といえばもみじ・・・百人一首のおなじみ「小倉山峰のもみじ葉・・・」は藤原忠平の歌である。その小倉山の麓に二尊院がある。このあたりに藤原定家の山荘があったといわれている静かなところで、いまも景色や街並みが美しく地域には数々の名刹があって、京都でも指折りの観光地となっている。

 二尊院は釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀ることから二尊院という。総門をくぐり参道の両側は紅葉が美しく、京都でもトップクラスの紅葉の名所。またこの参道は、映画やテレビの時代劇のロケ場所としても使用されている。

 二尊院は、平安時代初期の承和年間(834~847)に嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したことにはじまる。円仁は山形の立石寺や松島の瑞巌寺も建立された。以後一時荒廃に陥ったが、鎌倉時代の初期に法然の高弟だった3世の甚空らにより再興され、天台宗、真言宗、律宗、浄土宗の四宗を兼ねる道場となった。なかでも関白九条兼実公を筆頭に多くの信望を集めて栄華を迎えた。また甚空は土御門天皇と後嵯峨天皇の戒師を務め、4世の叡空も後深草天皇の戒師を務めるなど、二尊院はますます栄えた。南北朝時代から御黒戸四箇院の一つとして、御所内の仏事を明治維新まで司っている。そのため、鷹司家や二条家などの多くの公家の墓がある。室町時代になると応仁の乱による延焼で同伽藍が全焼してしまった。それから30年後の永正18年(1521)に後奈良天皇の戒師を務めた第16世恵教上人の代に三条西実隆が寄付金を集め本堂と唐門を再建した。江戸時代後期より天台宗に属するようになり、「嵯峨三名跡」の1か寺に数えられる。平成28年(2016)に平成の大改修を行い、本堂はその時に再建された。

 

参拝日    令和7年(2025) 2月27日(水) 天候晴れ

 

所在地    京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27                                        山 号    小倉山                                                院 号    二尊教院                                               宗 派    天台宗                                                                    本 尊    釈迦如来 阿弥陀如来                                         創建年    承和年間(834~847)                                           開 山    円仁                                                 開 基    嵯峨天皇                                               正式名    小倉山二尊教院華台寺                                         別 称    二尊院                                                札所等    法然上人二十五霊場第17番 ほか                                    文化財    【重要文化財】絹本著色法然上人像 ほか 【重要美術品】 絹本著色二十五菩薩来迎図17幅

拝観料    500円                                                                   拝観時間   9:00~16:30                                              アクセス   JR嵯峨野線嵯峨嵐山駅下車 1360m 約18分~20分

 

 

 

境内案内図。

 

 

 

 

 

 

総門。   二尊院の入り口、慶長18年(1613)に京の豪商・門倉了以が伏見城の薬医門を移築したもの。本瓦葺きは桃山風。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

総門から紅葉の馬場を見る。正面には柵があり右手の参拝受付で手続きを済ませて進む。

 

 

 

 

紅葉の馬場。      参道になる総門から本堂に向かう約200mほどの幅広い道の先に緩やかな石段になる。道の両側にイロハモミジとソメイヨシノが交互に植えられ、秋になると赤く染まり見事な景色を見せてくれる。美しさは嵯峨野で一、二を争う。

 

 

 

 

 

紅葉の馬場の先にある階段も絵になる場所だ。真正面に小倉山の稜線が見える。

 

 

 

 

青紅葉のころ。                                       (ネットから引用)

 

 

 

 

紅葉の季節。                                        (ネットから引用)

 

 

 

 

土塀。

 

 

 

 

勅使門の前から土塀(筋塀)に沿った参道を見る。

 

 

 

 

紅葉の馬場を振り返り見る。春は桜の名所にもなる。

 

 

 

 

 

最高格式を示す5本の筋が入った筋塀。

 

 

 

 

勅使門。   天皇の言葉を伝えるために派遣される勅使が出入りする際に使用された唐門。門の造りは四脚向唐門といい桃山時代後期から流行ったといわれる。

 

 

 

 

 

 

.勅使門といえば、ほとんどが閉じ切って威厳を見せているが、当門は解放され誰でも出入り可能。正面に本堂を見る。

 

 

 

 

門は室町時代中期に起こった応仁の乱(1467~1477)で焼失し、永正18年(1521)に三条西実隆によって本堂とともに再建された。扁額「小倉山」は後柏原天皇の筆による勅額という。扁額だけ焼け残ったのか?それとも復元されたものなのか?     本柱に支えられた中央の桁に設けられた蟇股は、ヤブ椿文様で採食されている。

 

 

 

 

 

境内から見た勅使門。

 

 

 

 

紅葉の季節の勅使門。                             (写真はネットより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

黒門。  黒塗りした木造の冠木門で参拝者の通用門となっている。塀の繋がりから考えると、もともと立派な門があったと思われる。板塀のある冠木門はどうやら近年に造られたものではないだろうか?

 

 

 

 

 

境内の東側。  左手に本堂、正面に弁天堂。 

 

 

 

 

 

軒端の松。   円庭の中の枝縁の良い松が一本。松のそばに「しのばれぬ ものともなしに小倉山 軒端の松に なれて久しき」と書いてある立て札は、藤原定家の句。

 

 

 

 

 

天皇皇后両陛下行幸啓記念樹。  平成3年(1991)5月29日に平成天皇皇后が参拝した記念。

 

 

 

 

 

本堂。  銅板葺き入母屋屋根の神殿造りは、6間取り方丈形式の間口の広い堂宇には本尊の二尊を安置してある。室町時代の応仁の乱(1467~1477)の兵火で諸堂が全焼する。永正18年(1521)に三条西実隆が諸国に寄付を求めて再建された。平成28年(2016)には、約350年ぶりとなる平成の大改修が完了。

 

 

 

 

正面。

 

 

 

 

 

掲げられている後奈良天皇の自筆による「二尊院」は、再建時に与えられたもの。

 

 

 

 

本堂正面の回廊を見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂内部を見る。 内陣および須弥壇側は撮影禁止のため、両側の部屋を見る。

 

 

 

本尊。    本堂に安置された木造釈迦如来像立像と阿弥陀如来立像。どちらも鎌倉時代の作。像高は両像とも78.8Cm 。向かって右に発遣( はっけん・現世から来世へと送り出す)の釈迦如来、左に来迎(らいごう・西方極楽浄土へ迎え入れる)の阿弥陀如来が並び立つ。像表面は現状では黒ずんでいるが、全体は金泥塗りとし金箔で文様を表している。両像はよく似ているが、下半身の衣文の形式などに変化をつけている。釈迦如来像が右手を上げ、左手を下げる一般的な印相を示すのに対し、阿弥陀如来像は右手を下げ、左手を上げる通常とは逆の形に造り、両像は左右対称形となっている。また、通常の阿弥陀如来像は親指と人差し指、親指と中指、親指と薬指のいずれかで輪をつくる印相を示すが、二尊院の阿弥陀如来像は下げた右手の指を5本とも真っ直ぐ伸ばしている点が珍しい。                                      (写真はネットより)

 

 

 

内陣の右側の部屋。

 

 

 

駕篭。        江戸時代末期に住職が京都御所にお勤めに行く際に使用した。菊の御門がついているので御所には無条件で入れた。

 

 

 

 

襖の絵は故事来歴があるのだろうが作者ともわからないまま。こちらは内陣の左側の部屋。

 

 

 

内陣の右側の部屋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

六道六地蔵の庭。   本堂裏側の斜面に造られた庭園。 廊下と庇には新しさがあるので、近年に造られたものと思われる。

 

 

 

 

庭園には6体の地蔵が配置されている(よく映っていない)

 

 

 

 

本堂の南側の庭園。

 

 

 

御園亭。   元禄10年(1697)に御所から移築したもので、後水尾天皇と東福門院の第5皇女賀子内親王の化粧室として使われていた。

 

 

 

 

御霊屋。  本堂のすぐそばに建つ。

 

 

 

 

弁天堂。   弁財天の化身である九頭龍大神・宇賀神を祀る堂宇。ほかに大日如来、不動明王、毘沙門天なども安置してある。

 

 

 

 

甚空廟への参道階段。   ほかに三條西家や二条家、門倉家などの墓がある。風邪気味で体調不良のため階段を上るのを断念。

 

 

 

しあわせの鐘。  慶長年間(1596~1615)に建立された。梵鐘は慶長9年(1604)に鋳造し、平成4年(1992)に再鋳造した。

 

 

 

 

門倉了以像。  門倉了以は、戦国時代から江戸初期にかけて活躍した豪商。伏見城の薬医門をこの寺に移築させた。ほかに慶長年間に保津峡を荷舟が安全に航行できるように開削し、丹後丹波と京間の経済的を活発化させた。嵐山嵯峨野の発展に大きく貢献した。角倉家の墓も境内墓地にある。

 

 

 

 

二尊院の道すがらの落柿舎。

 

 

 

 

 

落柿舎。    松尾芭蕉の門下人であった俳人向井去来の草庵跡。元禄4年(1691)から、松尾芭蕉は三度も訪れ嵯峨日記を記したといわれる。

 

 

 

 

落柿舎の扁額は新しさが感じられるので近年になって掲げられたもののようだ。

 

 

 

この庵は京の豪商が建てたものを貞享2年~3年(1685~6)ごろに向井去来が入手したという。現在の庵は明和7年(1770)に去来の親族である俳人 井上重厚によって再建されたものである。現在は公益財団法人落柿舎保存会の手によって管理・運営されている。平成21年(2009)に大規模な修復工事が行われた。

 

 

 

 

落柿舎の前の道の垣根と田園風景。

 

 

 

 

御朱印

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー現在の嵐山や嵯峨野は、渡月橋から二尊院あたりまで、たいへんな人混みの大観光地になっている。それでも、ここを訪れる人たちのこころの片隅に、もしかしたら、人間の帰るべき場所、帰るべき故郷という思いが、かすかに息づいているのではないか。あたりにはもう観光客のすがたはほとんど見えない。当初のささやかな望みをかなえて、境内の茶店で休憩することにした。早速、お茶と最中を注文する。その最中の皮のなかにつまっているのは、もちろん、小倉山ゆかりの小倉あんである。私は甘いものが好物で、小倉あんとか小倉アイスが大好きだ。空腹を刺激されたので、さらに小倉ぜんざいも頼んで食べた。どちらも素朴な味で美味しかった。その小倉ぜんざいを食べ終わってお椀を置いた瞬間、あたりの静けさをやぶって、鐘の音がゴーンと鳴り響いた。あまりのタイミングに、思わず一句。「小倉食えば鐘が鳴るなり二尊院」 秋の嵯峨野はこれからがもみじの本番だろう。次回は、真っ赤に燃える紅葉の馬場をのんびり歩いてみたいと、思った。

 

 

 

 

案内図。

 

 

 

二尊院 終了                   

 

(参考文献)  五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱ  二尊院案内書  Wikipedia                    

         ブログ・游心六中記  ブログ・土曜日は古寺を歩こう ほか

 

 

 

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89 智積院

2025-06-29 | 京都府

古寺を巡る 智積院

真言宗智山派の総本山で名勝庭園と国宝の障壁画など見所のある寺院。

 

 

 

 智積院(ちしゃくいん)は真言宗智山派の総本山であり、京都市東山七条にある。この寺には京都駅から1600mほどの距離にあり歩いても行けるが、バスも頻繁に出ているのでバスを利用するのが良い。この周辺には三十三間堂、京都国立博物館、京都女子大学など周辺にある。東海道新幹線DE席の窓には、京都駅の少し手前のトンネルを出たところに智積院の境内が見える。
 智積院は、長谷川等伯の障壁画や庭園が有名であるが、清水寺のように観光客が大勢押し掛ける寺ではなく団体客も少ない。寺は、成田山、川崎大師、髙尾山藥王院の大本山を始め、東京都の高幡不動尊、名古屋市の大須観音を別格本山として全国に3000余りの寺院教会を擁し、総本山智積院として全国約30万人の檀信徒の信仰のよりどころとして総菩提所、総祈願所と位置付けられている。

智積院の歴史。  智積院の起源は、紀州(和歌山)の根来山にあった塔頭・大伝法院となる。大伝法院は興教大師覚鑁(こうぎょうだいし・かくばん)という真言宗の僧が高野山に建てたもので、後に根来山に移り、真言宗の根本道場となった。最盛期には、約6000人もの学僧たちが学んでいたという。しかし、巨大勢力を持っていたことが災いし、豊臣秀吉と対立することになり、天正13年(1585)に兵火によって炎上。当時の智積院の住職だった玄宥(げんゆう)は、何とか根来攻めの始まる前に弟子たちとともに京都へ逃たが、寺院は灰燼に帰してしまう。玄宥はなんとか寺院を復興させようとするものの、秀吉の妨害などのために行き場のないまま十数年が過ぎる。その後秀吉が亡くなり世は徳川のものとなり、慶長6年(1601)に、玄宥に京都東山の豊国神社に附属する寺院の土地と建物を与え、ようやく智積院は復興を果たす。
ちなみに、智積院の寺号は「根来寺」、山号は「五百仏山」(いおぶさん/根来にある山の名前)という。

その後大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと、智積院は隣接する別の寺院の土地を与えられ、さらに規模を拡大することになる。その寺院は、天正19年(1591)、秀吉がたった3歳で亡くなった息子・鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲寺(祥雲禅寺)であった。愛息を弔うために秀吉が贅を尽くして建てさせたこの寺は、当時から桃山らしい絢爛豪華さで知られ、「都一番の華やかさ」と評判だった。祥雲寺を譲られた時の智積院の代表者は第三世・日誉能化で、その報せが二条城で伝えられた際に同席していた金地院崇伝(以心崇伝)は、日誉に対し「誠に羨ましい。あなたは果報者だ。」と語った、という逸話もあるという。

それにしても、秀吉が燃やしてしまった寺と、秀吉が建てた寺―奇しくもまったく逆の境遇にあった二つの寺院がひとつになって生まれた智積院。なんとも不思議な、運命の悪戯のようなものを感じてしまう。智積院はその後、何度か火災に遭いつつも、江戸時代前期には弘法大師(空海)以来伝わる真言密教の正当な教えを伝えている寺院として隆盛し、「学山智山」として数多くの僧侶たちが集まる大規模な寺院として発展した。この頃の智積院はいわば、今で言う「大学」のような存在。仏教は勿論、天文学や地学など理系の学問を含め、幅広い分野を学ぶことができたという。そのため他の宗派や一般の人々も集まるようになり、一時は800から1000人以上の僧侶がこの寺で学んでいた。なんでも、「朝食の粥をすする音が七条大橋まで聞こえてきた」とか…。現在も「学山智山」はしっかりと受け継がれており、真言宗智山派・3000寺を束ねる総本山として、毎年多くの僧侶が全国から集まり、修行に励んでいるとのこと。また、朝のお勤めも京都では最大の規模になっている。(HP・京都宝物館探訪記から引用)

 

参拝日    令和7年(2025) 2月26日(水) 天候晴れ

 

所在地    京都府京都市東山区東大路通七条下ル東瓦町964                  山 号    五百佛山(いおぶさん)                            院 号    智積院                                    宗 派    真言宗智山派                                  寺 格    総本山                                    本 尊    金剛界大日如来                                創建年    慶長6年(1601)                                 開 山    玄宥                                     正式名    五百佛山根来寺智積院                             別 称    総本山智積院                                 札所等    真言宗十八本山第七番 ほか                                文化財    【国宝】大書院障壁画25面、松に草花図屏風、金剛経  
       【重要文化財】絹本著色童子経曼荼羅図、絹本著色孔雀明王像、絹本著色阿弥陀浄土図

 

 

境内図。

 

 

 

 

総門。  東山七条交差点の前にある。

 

 

 

門は、東福門院の旧殿の門を移築したもの。 総本山智積院の大きな石柱。

 

 

総門前から見た東山七条交差点、正面は七条通りの京都駅方面。右手に京都国立博物館、左手はハイアットリージェンシー京都と三十三間堂。

 

 

 

土塀の石垣。

 

 

 

境内への入り口は本堂の正面にあり、境内へは自由に立ち入ることができる。

 

 

 

二月末の境内の咲いた紅梅が見事。

 

金堂。    受付案内所の前をまっすぐ進み石畳の参道を行くと正面に建つ堂宇。弘法大師空海の生誕1200年の記念事業として正和50年(1975)に再建された。本尊の大日如来像もこれにあわせて造立されている。もとの金堂は江戸時代の宝永2年(1705)に建立されたが、明治15年(1882)に放火と思われる火災で焼失している。   

 

 

 

正面の向拝。  屋根は入母屋、瓦葺きだが4本の柱からわかるように鉄筋コンクリートの建物である。

 

 

 

 

 

 

 

正面に掲げられた扁額「智積院」は、智積院第59化主・秋山祐雅による。智積院では僧侶のことを化主という。

 

 

 

 

 

 

 

外陣から内陣を見る。鎌倉時代の釈迦如来像を安置する。

 

 

 

向拝から境内を見る。

 

 

 

向拝を横から。

 

 

 

金堂の前から明王殿方向を見る。正面の3階建ての建物は、真言宗智山派宗務庁の建物。

 

 

明王殿。 昭和22年(1947)の火災により仮本堂であった方丈殿が焼失した際に、明治15年(1882)に焼失した本堂の再建のため、京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本堂の譲渡を受け、現在の講堂のある場所に移築した建物。平成4年(1992)に、講堂再建にともなって現在の場所に移築された。 

 

 

 

本尊は不動明王で、明王殿は不動堂とも呼ばれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂の全景。  建物の軒下から白、赤、黄、緑、青色の仏旗が巡らせてある。

 

 

 

玄宥僧正像。  豊臣秀吉の根来寺攻めから逃れ、秀吉の没後に京都東山に智積院を復興した僧侶。

 

 

 

鐘楼堂。「智専の鐘」といい、平成10年(1998)に旧宗立智山専門学校同窓生の集まりである智専会によって鐘とともに建立、寄進されたもの。

 

 

 

唐門。  名勝庭園、講堂、大書院への入り口。こちらから拝観料が必要。

 

 

 

唐門の正面に講堂。

 

 

 

講堂の扁額は、「講堂」と書かれた、第65世化主・藤井龍心の揮毫。

 

 

 

 

 

 

 

高浜虚子の句碑。  ーーひらひらとつくもをぬひて落花哉ーー

 

 

 

講堂から名勝庭園へ。

 

 

 

講堂から名勝庭園を見る。

 

 

講堂から見た庭園。

 

 

 

 

 

 

 

 

左手に講堂、右手に大書院の間をとおり大書院側から建物に上がる。

 

 

 

外側から庭園を見る。大書院と正面に宸殿。

 

講堂の広縁。講堂は平成4年(1992)の興教大師850年御遠忌記念事業として計画し、平成7年(1995)10月に完成したもの。玄宥僧正が現在の京都東山の地に智積院を再興した折りに、徳川家康公より寄贈された祥雲寺の客殿(方丈)が基になっている。この祥雲寺ゆかりの建物自体は、天和2年(1682)7月に焼失。その後幕府から与えられた東福門院の旧殿・対屋を基に、貞亨元年(1684)に再建されたが、その建物も昭和22年に焼失。現在の講堂は、各種研修の道場として使用している。

 

 

 

講堂の西側の庭園。

 

 

集会室(東)講堂には、5つの部屋があり公開されているのは不二の間、金剛の間、胎蔵の間の3部屋であり、日本画家・田渕俊夫画伯より奉納された四季を現した襖絵があるが、当日は非公開だった。また東と西の2つの部屋が集会所となっている。

 

 

 

集会所(東)の襖には、京都生まれの日本画家・後藤順一の百雀図として99羽の雀が描かれている。

 

 

 

集会所(西)。   襖絵は後藤順一の「浄」で枝垂れ桜や蓮の花などが描かれている。

 

 

 

 

 

 

 

大書院へ。

 

 

大書院。  慶長6年(1601)に玄侑僧正が徳川家康から寺地をもらい建立したが、天和2年(1682)の火災で焼失。その後、総門と同じく東福門院の旧殿を移築した。昭和22年(1947)に火災で焼失。昭和23年(1943)に残った古材などを集めて再建された。

 

 

正面に8畳の上段の間に18畳の楓の間と桜の間、2間がぶち抜きであり、庭園側に畳一枚分の入側を設け、その外側に濡れ縁のある間取り構成。

 

 

 

 

壁面には、国宝の障壁画で昭和43年(1968)までは現物が見られたが、現在のモノはレプリカである。国宝の現物は、宝物館に展示されている。

 

 

国宝】旧祥雲寺障壁画「楓図」。 (複製画)日本障壁画の最高傑作とされ、紙本金地著色の襖4面。文禄4年(1593)に安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した絵師の長谷川等伯の息子・久蔵が手掛けたが途中に早死にし、等伯が完成させた。天和2年(1682)に祥雲寺客殿が火災に遭うが、無事に持ち出されて大事に至らなかった経緯があった。

 

 

 

 

 

 

 

国宝旧祥雲寺障壁画「桜図」。(複製画)紙本金地著色の襖4面。長谷川等伯の息子・久蔵の作で、久蔵の遺作となった。

 

 

 

 

 

 

 

上段の間。

 

 

 

正面の台床の間、左手に天袋付きの違い棚。障壁画は旧祥雲寺障壁画の複製画で「松に立葵図」。

 

 

 

正面。   右の襖絵は、国宝「楓図」の左端部分。

 

 

 

上段の間から室内を見渡す。

 

 

 

楓の間と桜の間間の欄間。

 

 

 

名勝庭園を見る。

 

 

 

一文字手水鉢。  池に浮かぶ船に見たてている。・・・・そのように撮ればよかった。

 

庭園は豊臣秀吉が建立した祥雲寺時代に原形が造られた。その後、智積院になってからは、第七世運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山第一の庭と言われるようになる。築山・泉水庭の先駆をなした貴重な遺産といわれ、中国の盧山をかたどって土地の高低を利用して築山を造り、その前面に池を掘るとともに、山の中腹や山裾に石組みを配して変化を付けている。

 

 

 

祥雲寺遺構とされる紀州の青石二枚をつないだ石橋。

 

 

 

平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいる造りが特徴。

 

 

庭園の奥行きはさほどないが横長に広がっているため、空間を広く感じる。池を常に濁らせているのは、庭の緑が池に綺麗に写りこむようにという工夫。ほかに、僧侶らしい形をした羅漢石があったり、三味線や琵琶を弾くときに使う撥の形の刈り込みなど仕掛けもあるのだが、よくわからなかった。

 

 

 

大書院と宸殿の間にある中庭。奥に法務所の建物。

 

宸殿。  第44世佐伯隆基能化が賓客を迎える建物として明治28年(1895)に造営されたが、昭和22年(1947)の火災により一旦焼失。その後昭和33年(1958)に再建され、京都画壇の巨匠堂本印象が内部の障壁画を手掛けた。洋装と和装の女性を描いた「婦女喫茶図」や「松桜栁の図」など金色に豊かな色彩で描いた襖絵と対照的に水墨で描かれた「朝顔に鶏の図」「茄子に鶏の図」「流水に鳶の図」などで飾られている。年1度の特別公開はあるが、通常非公開。

 

 

 

大書院の大玄関。  入母屋に唐破風の付いた品格のある玄関。

 

 

 

使者の間。  玄関正面の10畳ほどの部屋。

 

 

障壁画。 明治〜大正期の画家・月樵(げっしょう)上人(田村宗立)の南画作品で、「布袋唐子嬉戯の図」。

 

 

 

天井は折り上げ格天井で、鏡板にも細かい格子を施した。

 

 

 

大玄関から法務所(本坊)を見る。

 

 

 

大玄関からつながる講堂を見る。

 

 

 

法務所の屋根の上に煙り抜け小屋が載せられている。

 

 

 

総務所(本坊)。

 

 

 

大玄関から総門を見る。勅使門だったので、この門を使えたのは天皇が勅旨を伝えるために遣わした使者だけだったようだ。

 

 

 

境内の一部。松や杉の間は苔が覆っている。

 

 

 

 

 

 

 

講堂の裏側の塀。 塀のコーナーに石柱を使用。正面は大玄関と総務所の入口へ。

 

 

 

案内図。

 

 

 

 

智積院 終了

 

  

(参考文献) 智積院HP  フリー百科事典Wikipedia  HP・京都宝物館探訪記    ほか

                     

        

 

 

 

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88 勝常寺

2024-12-05 | 福島県

百寺巡礼 第66番 勝常寺

庶民が慕った最澄の好敵手

 

 

 

 

東北道の郡山JCから磐越道に入り、しばらくして車中の左手に見えないが猪苗代湖があり、右手に磐梯山が見える。会津若松ICで高速を降り、田園地帯を走り左手にテキサスインスツルメンツの大きな工場が見えてきたら、その先が勝常寺である。会津盆地のほぼ中央にある湯川村の集落にある小さな寺は、ICから7.5kmほどの道のりである。

勝常寺は平安時代初期の弘仁年間(810〜824)に法相宗の学僧・徳一(760?年 - 835?年)によって開かれたといわれている。徳一は中央(畿内)の出身で、藤原仲麻呂の子とも言われるが確証はない。20歳代で関東に下り、会津地方を拠点に宗教活動を行った。日本天台宗の宗祖である最澄と三一権実論争と呼ばれる、天台宗と奈良の旧仏教の優劣に関わる論争を行ったことでも知られる。徳一の開創が確実視される寺院としては恵日寺(福島県磐梯町)と筑波山の中禅寺(茨城県つくば市)があり、その他にも多くの寺院を建立したと伝えられる。勝常寺については、徳一の創建を伝える文献等の直接的史料はないが、当寺には本尊薬師三尊像をはじめ、9世紀にさかのぼる仏像が多く残り、これらは徳一が関係した造仏であると考えられている。創建当時は、薬師堂、三重塔など七堂伽藍とその附属建造物が多数立ち並んでいたと伝えている。木造薬師如来像が本尊とされ、会津五薬師の中心として会津中央薬師と称されるようになる。鎌倉時代後期からは真言宗に属するようになり、近世まで仁和時の末寺であった。応永5年(1398)に火災があり、その後室町時代初期には講堂(現・薬師堂)が再建された。現在残されている建物はその薬師堂以外は近世以降の建物である。

 

 

 

参拝日   令和6年(2024)9月26日(木) 天候晴れ

 

所在地   福島県河沼郡湯川村勝常代舞1764                               山 号   瑠璃光山                                       宗 派   真言宗豊山派                                       本 尊   薬師如来                                      創建年   伝・弘仁年間(810〜824)                                 開 基   伝・徳一                                                                         別 称   会津中央薬師堂                                     札所等   会津三十三観音第10番                                文化財   木造薬師如来坐像(国宝)、および両脇侍立像(国宝)                 

      木造四天王立像、木造十一面観音菩薩立像、木造聖観音菩薩立像ほか2件(国重要文化財)

                        

                                      

 

かっての勝常寺は、金堂や三重塔、それに南大門などが建ち並ぶ大伽藍だったというが、いまやその面影は全くない。先ずは、仁王門から境内に進む。

 

 

 

 

寺の概要が記された立て看板。

 

 

 

国宝に指定された記念の石碑。

 

 

 

仁王門。 ちょっとかしいでひじょうに素朴な建物である。室町時代に建立された堂宇の廃材を利用して、近世に建てられたという。

 

 

 

柱は室町時代の材で、上下につなぎ合わせた柱と分かる。屋根はもともと茅葺だったようで下から見るとその様子がわかる。大きな草履が、なんとなくだらしなさそうにかかっているが、経年変化の結果かもしれない。

 

 

 

扁額は、全く読めない。

 

 

 

仁王門なので、仁王様かと思われるがその面影は・・・

 

 

門を潜ると、正面に薬師堂。薬師堂は、扉が閉じてあり勝手に見ることはできない。拝観をするには、事前に参拝の予約申し込みをしなければならない。当日も11時ごろに予約をし、副住職の方が待っててくれて堂の中を案内してくれた。

 

 

 

 

 

 

 

薬師堂【国重要文化財】     方形の屋根はそのラインがとても美しい建物である。創建当時のものではないが、室町時代に建てられたものである。以前は茅葺であったが、昭和38年(1963)の大雪で屋根が大破してしまったため、現在は銅板葺き。

 

薬師堂は、もともと講堂として建立されたため向拝はない。内部は内外の両陣にわかれ、内陣は方三間で中央に須弥壇を設け、壇上に厨子をおく。堂はその構造や細部の手法等からみて、室町時代初期の再建といわれる。須弥壇、厨子もまた当時の優作である。内陣には、薬師如来を守るように十二神将像が立ち、さらに徳一像と伝えられる座像がある。徳一像顔面には、無残にも大きな刀傷のようなものが縦一文字にいた。

 

 

正面の掲げられた「瑠璃光山」の扁額。

 

 

薬師如来坐像【国宝】 薬師堂の本尊で、平安時代前期の作。大材から像形を彫り出したあと、前後に割って内刳りを施し再び矧ぎ合わせる、「一木割矧ぎ造り」の技法で作られている。本像は「割矧造」と呼ばれる技法を用いた古い作例として知られている。また、宝相華葡萄唐草を浮彫りにした、光背と宣字座も当初の作とみられている。像容は、狭い額に彫りの深い目鼻立ち、厳しい表情、厚い胸板から両腿にかけて圧倒的な量感、その上に流れる飜波衣文など、平安初期特有の彫刻様式が如実に現れている。用材から当地における製作と考えられるが、その造形技術は東北地方にある他の平安初期作例と比べてきわだって優れている。両脇立像の日光・月光菩薩立像とともに平成8年(1996)国宝に指定された。   (写真・説明文とも湯川村役場HPより) 

 

 

 

 

 

薬師堂を角度を変えて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薬師堂から仁王門までの境内を見る。

 

 

 

境内の小川と池。

 

 

観音堂(収蔵庫)。  鉄筋コンクリート造の堂宇。中には、平安時代に創られた国宝の仏像二体(下記)と国の重要文化財仏像七体などが安置されている。

 

 

日光菩薩【国宝】      

 

 

月光菩薩【国宝】

 

 

御詠歌の石碑。  「幾たびも歩みを運ぶ勝常寺 生まれ会津の中の御仏」と刻まれている。

 

 

 

本坊。  薬師堂から少し離れた場所にある。近年に建てられたので堂宇は新しい。こちらの左奥に庫裡。

 

 

 

 

 

本坊から仁王門の方向を見る。

 

 

 

 

御朱印。

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー創建以来、勝常寺は会津の仏教文化の中心として大いに栄えていた。だが、徳一が亡くなってからは寺勢が衰え、十三世紀ごろには廃寺同然になってしまう。それを再興したのが、京都にある真言宗の寺、仁和寺の僧だった玄海僧都である。玄海は勝常寺の伽藍を再建し、中興の祖となった。勝常寺の宗派が真言宗に変わるのは、このときからだ。真言寺院としてよみがえった勝常寺だったが、天正年間の度重なる兵火で、現在の薬師堂をのぞく伽藍のすべてを焼失した。しかも、その最中に数多く数多くの寺宝を略奪されてしまう。幕末になると、会津を戊辰戦争の悲劇が見舞い、当時の城下町の大半は戦火で焼けてしまった。しかし、勝常寺の薬師寺はそのときも戦禍から奇跡的に免れることができた。こうした悲惨な状況をかいくぐりながら、本尊の薬師如来坐像を含む十二体の仏像と、徳一座像と伝えられる木像一体の計十三体の像は無事だったという。そのすべてが平安時代の作であり、東北では他に例を見ない貴重なものだ。勝常寺が廃寺同然になりながらも、これらの像が大切に守られてきた背景には、寺の関係者だけではなく、地元の住民たちの献身や努力があったにも違いない。住民たちを動かしたのは、薬師如来への篤い信仰と、勝常寺を開いた徳一その人への敬慕の情だったのではではないか、そうした想像が頭のなかをよぎる。

 

 

 

 

案内図。

 

 

 

 

 

勝常寺 終了

 

 

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