goo blog サービス終了のお知らせ 

『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

23 知恩院

2023-08-18 | 京都府

第八十二番 知恩院

 

壮大な伽藍に念仏の水脈が流れる

 

 

 

 

境内案内図

 

参拝日    平成30年(2018)3月2日(金)天候晴れ 令和5年(2023)3月25日(土)天候曇り

 

所在地    京都府京都市東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町400              山 号    華頂山                                     院 号    知恩教院   知恩院                              宗 派    浄土宗                                     寺 格    総本山                                     本 尊    法然上人像(御影堂) 阿弥陀如来(阿弥陀堂)                  創建年    承安5年(1175)                                開 山    法然                                      正式名    華頂山知恩教院大谷寺                              別 称    ちょういんさん 知恩院 吉水御坊 吉水草庵 大谷禅房              札所等    法然上人二十五霊場第25番                            文化財    本堂、三門、(国宝) 大方丈(国指定重要文化財) 方丈庭園(国指定名勝)   

 

知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年(1175)、43歳の時に東山の吉水に吉水草庵を建てると、そこに入った。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に阿弥陀仏の名を唱えれば極楽往生できるとする思想である。この思想はいわゆる旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となり、建永2年(1207)の承元の法難(後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然及び親鸞ら門弟7人が流罪とされた事件)で流罪となったが、4年後の建暦元年(1211)には許されて都に戻る。その際、吉水草庵に入ろうとしたが荒れ果てていたため、近くにある大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入っている。しかし、翌建暦2年(1212)に80歳で没した。 法然の死後、大谷禅房の隣に法然の廟が造られ弟子が守っていたが、15年後に延暦寺の衆徒によって破壊されてしまった。しかし、文暦元年(1234)に法然の弟子の勢観房源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されるなどすると、次第に紫野門徒の拠点となっていった。それからの長い時代に宗徒の権力争いや幾度かの火災にも遭いながらも、現在の形に建設されるのは江戸時代に入ってからである。

江戸時代に入ると、現存の三門、御影堂(本堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設された。浄土宗徒であった徳川家康は、慶長8年(1603)に知恩院を永代菩提所と定めて寺領703石余を寄進した。翌慶長9年(1604)からは、北に隣接する青蓮院の地を割いて知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行っている。造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621)に建設された。寛永10年(1633)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍家光のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641)までに現在の姿がほぼ完成している。

徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛が松平氏第5代松平長親の弟であること、二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったといわれている。江戸時代の代々の門主は、皇族から任命された。さらにその皇子は徳川将軍家の猶子となった。

 

境内図 東山連峰の華頂山の麓に7万3千坪の広大な寺地は、下段、中段、上段の3段に整地されていて、そこに百以上の堂宇が並ぶ大伽藍である。

 

 

 

 

 

三門【国宝】 元和7年(1621)、徳川2代将軍秀忠公の命を受け建立された。 構造は五間三戸・二階二重門・入母屋造本瓦葺で、高さ24m、横幅50m、屋根瓦約7万枚。その構造・規模において、わが国最大級の木造の門である。

 

 

複雑な木組みが整然として圧倒される重みが感じる。「華頂山」の額は畳2畳以上の大きさ。

 

楼上内部は仏堂で、中央に宝冠釈迦牟尼仏像【国重要文化財】、脇壇には十六羅漢像【国重要文化財】が安置され、天井や柱、壁などには迦陵頻伽や天女、飛龍が極彩色で描かれている。(写真は知恩院HPから)

 

 

一般には寺院の門を称して「山門」と書くのに対し、知恩院の門は、「三門」と書く。これは、「空門」「無相門」「無願門」という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わし、三解脱門ともいう。

 

 

三門から京都市街を見る。

 

 

三門の先には堂々たる石段は、男坂と呼ばれる勾配の急な石段。

 

 

 

 

 

石段を上り切ると本堂となる御影堂を中心に

 

 

 

 

御影堂【国宝】  本堂、大殿とも呼ぶ。寛永10年(1633)の焼失により、3年後に徳川家光によって再建された。宗祖法然の像を本尊として安置することから御影堂と呼ぶ。知恩院で最大の堂宇であることから、大殿とも呼ばれる。

 

入母屋造本瓦葺き、間口44.8m、奥行34.5mの壮大な建築で、徳川幕府造営の仏堂としての偉容を示している。

 

 

 

 

内陣の奥には四天柱(4本の柱)を立てて内々陣とし、宮殿形厨子を置き、宗祖法然の木像を安置する。(写真は知恩院HPから) 

 

(左)人天蓋 導師が座る頭上にかざされる傘。 (右)須弥壇 宮殿を載せる台で、朱漆が塗られ中段には7対14頭の極彩色の唐獅子彫刻が取り付けられている。  

 

 

宮殿の軒の部分の彫刻  (左)軒先の下から象、獏、龍の彫刻。(中)鳳凰 (右)極彩色の牡丹

 

 

御影堂の堂を周る廊下。

 

 

 

軒周りの木組みを見る。

 

 

妻の懸魚。

 

 

四周を巡る廊下。

 

 

堂宇を結ぶ渡り廊下。

 

 

廊下の床板。

 

大方丈は御影堂の右手後方に建つ。寛永18年(1641)に建立された檜皮葺き・入母屋造りの華麗な書院建築。唐破風の玄関が特徴。 知恩院には、大方丈と小方丈の2つの方丈があり、どちらも寛永18年(1641)の建築、洛中随一の名書院として知られている。通常は非公開。

 

大方丈【国重要文化財】 書院造りの形式を備え、54畳敷きの鶴の間を中心に、上・中・下段の間、松の間、梅の間、柳の間、鷺の間、菊の間、竹の間があり、狩野派の襖絵(金碧障壁画)で飾られている。狩野派の筆になる豪華な襖絵に彩られた多くの部屋が続く。洛中随一の名書院とされる。(いずれの写真も知恩院HPより)

 

 

 

 

 

 

 

 

大方丈の外観。 今回は、3月の特別公開の時期に内部に拝観をすることができた。

 

 

小方丈【国重要文化財】 内部の障壁画

 

 

唐門【国重要文化財】  勅使門とも呼ばれ 寛永18年(1641)建立。

 

 

 

 

 

 

牡丹唐草、鯉に乗る老人(北側蟇股)、巻物を持ち鶴に乗る老人(南側蟇股)、松を配した細かな彫刻が見れる。桃山時代に流行した故事伝説に基づくもの。

 

 

仏足石

 

 

方丈庭園入り口  庭園は国指定の名勝庭園となっている。

 

 

方丈庭園 略図(知恩院HPより)

 

 

庭園から大方丈を見る

 

 

左側は大方丈で正面が小方丈。右手に庭園が広がる。

 

方丈庭園は江戸時代初期に小堀遠州と縁のある僧玉淵によって作庭されたと伝えられる。池泉庭園で、方丈の華麗な建築と背後に迫る東山の風光とともに、情緒あふれる美しい風景を醸しだしている。

 

 

正面に慈鎮石  平安時代末期の慈鎮和尚が座禅をしたという石。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徳川三代将軍家光公の御手植えの松という。

 

 

心字池

 

 

二十五菩薩の庭。 知恩院所有の「阿弥陀如来二十五菩薩來迎図」をもとに造られた庭で、配された石は阿弥陀如来と二十五菩薩を表し、植え込みは来迎雲を表す。

 

 

方丈庭園の先には権現堂があり、権現堂の門。

 

 

権現堂  昭和49年(1974)に再建された堂宇で、家康、秀忠、家光の肖像画が掲げてある。

 

 

徳川家と深い関係がある知恩院の御紋は三つ葉葵。

 

 

阿弥陀堂 御影堂の向かって左に東面して建ち、阿弥陀如来坐像を安置する。明治43年(1910)再建。宝永7年(1710)に現在地に移されるまでは勢至堂の前に建てられていた。

 

明治にはいって荒廃が進み、いったん取り壊され、明治43年(1910)に再建された。堂正面には後奈良天皇の宸筆で、知恩院の寺号をあらわして「大谷寺」という勅額が掲げられている。

 

 

本尊の阿弥陀如来坐像 本尊は阿弥陀如来座像で高さ2.7mある。(写真は知恩院HPより)

 

 

経堂【国重要文化財】 御影堂の東側に建つ経蔵は、三門と同じ元和7年(1621)に建てられた。

 

 

内部は、天井や柱、壁面は狩野派の絵師の手によって荘厳にされている。また、徳川2代将軍秀忠公の寄附によって納められた『宋版一切経』約6千帖を安置する八角輪蔵が備えられており、その輪蔵を一回転させれば、『一切経』を読誦するのと同じ功徳を積むことができるといわれる。(写真は知恩院HPより)

 

 

多宝塔 昭和33年(1958)に建立された。

 

納骨堂前の香炉台。

 

 

納骨堂。

 

 

大鐘楼のある上の段に行く道筋

 

 

大鐘楼【国重要文化財】 延宝6年(1678)に知恩院第38世玄誉万無上人のときに造営された。

釣鐘【国重要文化財】 高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70t。寛永13年(1636)、知恩院第32世雄誉霊巌上人の鋳造。釣鐘は、京都方広寺、奈良東大寺と並ぶ大鐘として知られている。この大鐘が鳴らされるのは法然上人の御忌大会(4月)と大晦日の除夜の鐘だけで、とりわけ除夜の鐘は親綱1人・子綱16人の17人で撞き、京都の冬の風物詩となっている。

 

上段の境内にはさらに、いくつかの堂宇が並ぶ。

 

勢至堂【国重要文化財】 勢至堂の地は、法然上人がお念仏のみ教えを広められた大谷の禅房の故地であり、知恩院発祥の地でもある。堂内正面に掲げられている額「知恩教院」は後奈良天皇の宸翰であり、知恩院の名の起源がここにある。現在の勢至堂は享禄3年(1530)に再建されたもので、現存する知恩院最古の建造物。

 

 

御廟の拝殿。

 

 

 

御廟【京都市指定重要文化財】 法然上人のご遺骨をご奉安する廟堂。方三間の宝形造本瓦葺で、周囲には唐門のある玉垣がめぐらされている。現在の御廟は、慶長18年(1613)常陸国土浦藩主 松平伊豆守信一の寄進を得て改築された。

 

 

御廟の拝殿から見た京都市街。

 

 

黒門側から新玄関は庫裡にあたる寺務の一角の入り口。

 

 

黒門側からの参道。

 

元祖法然上人800年大遠忌の記念事業として、平成23年(2011)に御影堂の屋根瓦などの大修理を8年間にわたって行い令和2年(2020)に工事が完了し、落慶法要を行った。平成30年(2018)年3月に参拝した際にはまさに工事の真っ最中であった。令和5年3月に京都寺廻りをした際に、再度参拝、修理後の御影堂を無事に拝むことができた。

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー朝に夕に念仏を称えて阿弥陀如来を思い浮かべていれば、極楽浄土のすがたが見えるようになり、臨終のときには阿弥陀如来の来迎が見える、というのである。だが、これはある意味ではむずかしいもので、誰にでも簡単にできることではない。また、比叡山でも古くから慈覚大師円仁がもたらした念仏三昧や、常行三昧という念仏のきびしい修行がおこなわれていた。これも、ふつうの人にとっては、非常にむずかしい念仏だったといえるだろう。そんなときに、法然が革命的な宣言をした。易行念仏といって「ナミアムダブツ」という言葉を称えるだけで人間は救われる。誰にとっても簡単な行で、極楽往生できると説いたのである。易行とは難行や苦行の反対の意味の言葉だ。この法然の念仏の教えは、当時の社会に一大衝撃をあたえた。その衝撃というものを、まざまざと思い起こすたびに、私はふしぎな感動をおぼえずにいられない。法然によれば、どんない無知な者でも、悪事をなした者でも、賤民として差別されている人びとであっても、「ナミアムダブツ」と称えれば、それだけで救われる、というものである。既存の宗教界にとっても世間の人びとにとっても、それは大事件だったにきがいない。

 

 

御朱印

 

 

(参考にした資料) 知恩院HP Wikipedia

 

知恩院 終了

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント

22 高台寺

2023-08-15 | 京都府

第八十八番 高台寺

戦国女性の思い出を包む堂宇

 

 

清水寺の参拝を終えて、清水坂のみやげ屋から産寧坂、二寧坂の路は観光客でごった返し、縫うように高台寺に向かう。高台寺は、参拝客も観光客も少なく清水寺やその通路などの賑わいとは異なり別世界のよう。大きな山門はなく、なんとなく佇まいがひっそりしていて、女性的な繊細さを感じ寺である。

 

参拝日    平成30年(2018)2月28日(水) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市東山区下河原通八坂鳥居前下る下河原町526             山 号    鷲峰山                                    宗 派    臨済宗建仁寺派                                本 尊    釈迦如来  創建年 慶長11年(1606)                    開 山    弓箴善彊                                       開 基    高台院                                    正式名    鷲峰山 高台寿聖禅寺  別称 蒔絵の寺                    札所等    洛陽天満宮二十五社順拝第18番                         文化財    霊屋、傘亭、時雨亭(国指定重要文化財) 庭園(国指定名勝) 

 

高台寺の概略史  豊臣秀吉の没後、正室の北政所は慶長8年(1603)に後陽成天皇から「高台院」の号を勅賜されると、秀吉の菩提を弔おうと寺院の建立を発願し徳川家康もその建立を支援した。家康と高台院は、現在の高台寺にあった塔頭を南禅寺の塔頭として移転させ、慶長10年(1605)に高台院は実母である朝日局が眠る康徳寺(現・上京区上御霊馬場町にあった)をこの地に移転させて新たな寺院・高台寺を建立し、その境内を整えた。また、高台院は高台寺の西側に自らの屋敷と甥の屋敷を造営することとし、同年に伏見城にあった北政所化粧御殿とその前庭を移築して自らの邸宅・高台院屋敷とした。秀吉没後に権力者となった徳川家康は高台院を手厚く扱い、普請奉行に京都所司代の板倉勝重を任命し、高台寺の普請にあたらせている。

近世末期から近代に至る数度の火災で仏殿や方丈などを焼失し、創建時の建造物で現存しているのは、三江紹益を祀る開山堂、秀吉と高台院を祀る霊屋、茶室の傘亭と時雨亭だけである。

 

 

産寧坂の賑わい

 

 

二寧坂を通り

 

 

高台寺に向かう途中に八坂の塔。

 

 

高台寺境内図

 

 

高台寺山門【国指定重要文化財】 八坂の塔の北側に位置し、境内からは少し離れている。桃山時代に建立された三間の薬医門。慶長年間(1596年 - 1615年)に加藤清正により伏見城に建てられ、後に現在地に移築された。

 

 

 

正面は庫裡

 

 

庫裡の前の天満堂。

 

 

庫裡の横に拝観受付から院内に進む。

 

 

拝観入り口。

 

 

右の白い建物は辻蔵。

祇園閣 境内をすすむと西北側に見える塔は、昭和3年(1928)に建築された3階建ての建物。大倉財閥の設立者である大倉喜八郎が別邸とし建てた「真葛荘」の一部。祇園閣のデザインは祇園祭の鉾を模したもので、建築家・伊東忠太の設計による昭和初期の名建築。屋根は銅板葺きであるが、これは大倉喜八郎が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったためなのだとか。

 

 

辻蔵の左隣りは茶室の胡月庵

 

胡月庵の路地 胡月庵には鬼瓦席という名の知れた 四畳半の茶室がある。豪商灰屋紹益の旧邸跡から明治41年(1908)に移築したもので、紹益と紹益夫人になった吉野太夫を偲んで後世の人が建てたものと推定される。

 

 

遺芳庵  方丈の背後にある田舎屋風の茶室で、豪商で趣味人のであった灰屋紹益が夫人の吉野太夫を偲んで建てたものという。一畳台目の小規模な茶席で、吉野窓と称する壁一杯に開けられた丸窓が特徴。京都市上京区にあった紹益の旧邸跡から明治41年(1908)に移築したもの。

 

観月台【国指定重要文化財】 茶室を過ぎて名勝の庭園に入り、左手に偃月池(えんげつち)に浮かぶ楼舟廊と呼ばれる渡り廊下で結ぶ観月台と開山堂が見える。

 

 

楼舟廊は観月台とともに、慶長年間(1596~1615)に高台院の命により伏見城から移されたもの。

 

 

書院の中に入る。書院では襖絵を漫画家のバロン吉元氏が描いていた。

 

 

建物の内部は書院から方丈にかけて拝見ができる。方丈から前庭を見る。正面は勅使門。

 

 

勅使門

 

 

方丈廻り廊から前庭を見る。白砂を敷き詰めた庭の借景に東山連峰。

 

 

方丈の扁額

 

 

方丈廻り廊から内陣を見る。

 

 

方丈内部の襖。

 

 

方丈前庭は一面が白砂の枯山水。

 

 

廻り廊下から開山堂を見る。

 

 

開山堂および霊屋と傘亭、時雨亭への潜り門。

 

 

開山堂と霊屋

 

 

臥龍廊 開山堂から霊屋へつなぐ渡り廊下で臥龍池にかかり、龍の背に似ていることから名が付いた。

 

 

開山堂の前に建つ中門。

 

開山堂【国指定重要文化財】 慶長10年(1605)に高台院により建立。寛永2年(1625)に増築。庭園内に建つ入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂。このお堂の材には秀吉の御座舟だったものを使用しているという。

 

 

 

 

元来、高台院の持仏堂だったもの。堂内は中央奥に三江紹益像、向かって右に高台院の兄・木下家定その妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の像を安置している。天井には狩野山楽による「龍図」がある。

 

 

臥龍廊の内部

 

 

 

 

 

霊屋【国指定重要文化財】   慶長10年(1605)に高開山堂の東方、一段高くなった敷地に建つ宝形造檜皮葺きの堂。台院により建立。秀吉と高台院を祀っている。秀吉の墓がある阿弥陀ヶ峰の豊国廟に向けて建てられている。寺に所蔵される高台院所用と伝える調度品類にも同じ様式の蒔絵が施され、これらを高台寺蒔絵と称している。

 

 

内部(写真はネットから)

 

内部は中央の厨子に大随求菩薩像を安置し、向かって右の厨子には豊臣秀吉の坐像、左の厨子には正室・高台院の片膝立の木像がそれぞれ安置されている。狩野永徳よる絵のほか、厨子の扉には秋草、松竹など、須弥壇には楽器などの蒔絵が施されている。(写真はネットから)

 

 

霊屋の外観は、朱と黒漆に塗装され色鮮やかな装飾が施されている。

 

 

 

時雨亭【国指定重要文化財】 茶室である、慶長年間(1596 - 1615)に高台院により伏見城から移築されたものとされ、千利休好みと伝えられる。伏見城の「御学問所」に擬する説もある。珍しい2階建ての茶室で、2階南側の上段の間は柱間に壁や建具を設けない吹き放しとする。高台院は慶長20年(1615)の大坂夏の陣の際、2階から燃え落ちる大阪城の天守を見つめていたという。

 

 

傘亭の南隣にあり、傘亭とは土間廊下で繋がれている。

 

土間廊下【国指定重要文化財】   茶室「傘亭」と茶室「時雨亭」を繋ぐ屋根付きの廊下。時雨と傘で対になっている。土間廊下は慶長年間(1596年 - 1615年)に高台院により両茶室が現在地に移築された時付加されたもので、両茶室はもともと別々に建てられていたと考えられる。

 

傘亭【国指定重要文化財】 茶室であり時雨亭とつながっている。 正式には安閑窟という。慶長年間(1596年 - 1615年)に高台院により伏見城から移築されたものとされる。

 

 

千利休好みの茶室と伝えられる。境内東奥の小高い場所に位置し、宝形造茅葺きの素朴な建物である。

 

 

内部の天井が竹で組まれ、その形が唐傘に似ているところから傘亭の名がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

高台寺塔頭圓徳院の唐門。

 

 

 

 

 

 

 

勅使門  大正元年( 1912)に方丈とともに再建された。方丈の南正面に位置する。

 

 

 

台所坂   ねねの道から高台寺の境内へと続く道で、高台院は秀吉の菩提を弔うために高台院屋敷(現・圓徳院)から高台寺へとこの道を往き来した。

 

ねねの道 - 知恵の道、神幸道と合わせて東山参道(三つの道)といい、円山公園付近で接続して、それぞれ知恩院、八坂神社へと続く。

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーーー京都の寺は、歴史の古い寺が多いため、なかには権威主義だったり、人を威圧するような感じがする寺もないわけではない。それに比べると、高台寺は広大な寺領をもっているわりには、なんとなく楚々とした寺だ、という印象を受ける。それはねねが、この寺を太閤秀吉の正室としての権威を表現するためではなく、晩年になって、思い出をかみしめるために建てたからだろう。高台寺は権威や威光を顕示するのではなく、やや肩をすぼめるようにして、京都の一角にひっそりとたたずんでいるようだ。ねねは愛する人の思い出とともに、人生の後半の二十数年間をここで過ごし、その生涯を終えた。天下人だった夫秀吉とその妻だった自分ーーそのことを思いつつ、ねねは豊臣家の残光をなつかしむようにして、静かな最期を遂げたのだろう。そんなねねの可憐な思いが、この高台寺の一本一草にもしみこんでいるように思えてしかたがなかった。

 

 

御朱印

 

 

高台寺 終了

 

 

 

(付録)高台寺付近の観光案内図

 

 

石塀小路

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

八坂の塔  正式には霊応山法観寺で臨済宗建仁寺派の寺。

 

 

八坂庚申堂  正式には大黒山金剛寺庚申堂。

 

 

 

 

 

 

おしまい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント

21 清水寺

2023-08-13 | 京都府

第三十番 清水寺

仏教の大海をゆうゆうと泳ぐ巨鯨

 

久しぶりの京都は、妻と息子同伴の家族旅行となった。京都駅で降りてロッカーに荷物を預け、タクシーで清水寺に直行した。清水坂のみやげ屋の並ぶ手前で下車した。清水坂から清水寺の仁王門の前の広場まで大変な人出で混雑している。そのか大勢の人々は、どうやら中国や韓国からの観光客のようだ。とにかくその人の流れに交じり清水寺を参拝することにした。ところが本堂に差しかかると、あの大きなお堂の外側に、工事用の足場が掛かりお堂全体にシートで覆われて肝心の清水寺が見えない。屋根の葺き替え工事中であった。お堂の内部に立ち入れることはできるのだが、あの大舞台の上にはたてなかった。そんな清水寺の参拝となった。

 

 

清水寺縁起 奈良で修行を積んだ僧、賢心が夢で「南の地を去れ」とお告げを受けたことが清水寺の始まりとなった。賢心は霊夢に従って北へと歩き、やがて京都の音羽山で清らかな水が湧出する瀧を見つ、この瀧のほとりで草庵をむすび修行をする老仙人、行叡居士と出会った。行叡居士は賢心に観音を造立するにふさわしい霊木を授け「あなたが来るのを待ち続けていた。私は東国に修行に行く。どうかこの霊木で観音像を彫刻し、この霊地にお堂を建ててくれ」と言い残して姿を消したという。賢心はすぐに「勝妙の霊地だ」と悟り、以後、音羽山の草庵と観音霊地を守ることとなった。賢心が見つけた清泉は、その後「音羽の瀧」と呼ばれ、現在も清らかな水が湧き続けている。それから2年が経ったある日、鹿狩りに音羽山を訪れた武人、坂上田村麻呂が音羽の瀧で賢心と出会う。坂上田村麻呂は賢心に尋常ならぬ聖賢を感じ、大師と仰いで寺院建立の願いに協力を申し出た。そして、妻の三善高子とともに十一面千手観世音菩薩を御本尊として寺院を建立し、音羽の瀧の清らかさにちなんで清水寺と名付けた。

 

参拝日            平成30年(2018)2月28日(水) 天候曇り 

 

所在地    京都府京都市東山区清水1丁目294                        山 号    音羽山                                    宗 派    北法相宗                                   寺 格    大本山                                    本 尊    十一面千手観音菩薩(秘仏)                          創建年    宝亀9年(778)・伝                             開 山    延鎮・伝                                   正式名    音羽山清水寺                                 札所等    西国三十三番第16番 ほか                           文化財    本堂(国宝) 仁王門、三重塔、阿弥陀堂ほか(国重要文化財)

 

 

         

   

境内図

 

 

 

三寧坂から清水坂にかけての賑わい

 

 

 

 

2018年2月末日の平日でこの賑わい。和装姿が多いが、どうやら大半は外国人のようだ。

 

 

清水坂の商店街の扇子屋の店先から。

 

 

 

清水寺の仁王門の前の広場は人だかり。

 

仁王門【国指定重要文化財】  清水寺の正門。応仁の乱の戦火で1469年に焼失したが、1500年前後に再建され、平成15年(2003)に解体修理さた。正面約10メートル、側面約5メートル、棟高約14メートルの、再建当時の特徴を示す堂々たる楼門。

 

 

朱塗りのため赤門とも呼ばれている。清水の舞台から御所が見えないように建てられたという。

 

 

扁額は藤原行成(平安時代中期の公卿。当代の能書家として三蹟の1人)

 

 

祥雲青龍 平成27年(2015)に建立。清水寺門前会が創立30周年を記念して造られた。

 

 

仁王門を潜り石段の参道を見る。右手は西門。

西門【国指定重要文化財】 創建の確かな記録がなく、江戸初期の寛永6年(1629)の大火で消失したものを、徳川三代将軍家光により寛永8年(1631)に再建された。この門は通り抜けは出来ない。両脇には鎌倉様式の持国天と増長天が祀られている。左右の幅が約8.6m、奥行が約3.9mの三間一戸の八脚門で正面に向拝をつけ、神社の拝殿に似た屋根は単層、檜皮葺き、切妻造の構造で、背面は軒唐破風を架ける寺院建築としては大変珍しい構造である。

 

 

参道の階段を上る。 写真を見ると季節は松の内のようだが2月の末日。

 

 

石段を上り切った境内。左手が西門。

 

鐘楼【国指定重要文化財】 清水寺の鐘楼はです。江戸初期の慶長12年(1607)に再建され、6本柱で2.3トンもある鐘(国指定重要文化財)を支えている。鐘は室町後期の文明10年(1478)に改鋳されたもので、宝蔵殿で保存されている。現在は清水寺門前会により寄進された新しい鐘である。

 

鮮やかに装飾された総丹塗りの桃山様式の建築物。3本の貫を平行に3段に張り、柱を通して組み固められた頑丈な構造となっている。貫の間の蟇股には極彩色の菊の花の装飾が施されている。懸魚や破風の装飾等にも桃山様式の特徴が見られる。

 

三重塔【国指定重要文化財】 平安時代初めの承和14年(847)に桓武天皇の皇子葛井親王が建立したものと伝えられ、江戸時代の寛永9年(1632)に古様式にのっとり再建されたもの。全体が朱色に塗られた本瓦葺の建物で、3間四方で高さは約31m。

 

 

一重内部には大日如来像が祀られているが、一般公開はされていない。室内は極彩色の飛天・龍や密教仏画で飾られている。

 

 

 

 

随求堂 清水寺の塔頭 慈心院の本堂で享保3年(1718)再建された。

 

 

隋求堂の内部。

 

 

手水舎  梟の手水鉢と名がついているが、吐口は梟とは思えない。手水鉢の足元に梟の浮彫がある・・・らしい。見落としているので写真はない。 

 

轟門  この門を潜り舞台のある本堂に進む。門の前にある橋は轟橋と言われ、昔は川が流れていたらしい。

 

 

轟門から本堂への廊下。

朝倉堂【国指定重要文化財】 正式名称は法華三昧堂。永正7年(1510)に創建され、江戸初期の寛永6年(1629)の大火で消失し、寛永10年(1633)に再建されたもの。平成25年(2013)半解体修理が行われた。再建の折に多額の寄進をした越前の大名、朝倉貞景に因み「朝倉堂」と呼ばれている。正面五間、側面三間の大きさで入母屋造り、白木造りで本瓦葺きの建物です。

 

清水の舞台 本堂の前面に張り出すように広がる舞台は、寺内に数ある建造物のなかでももっとも有名。京都の街を眼下にする眺めは見事で、その美しい景色は古くから人々を魅了してきた。「平成の大修理」で張り替えられた166枚の桧板の舞台の床面積は約200平方メートル。崖下の礎石からは約13メートルの高さがある。

 

本堂内部は、巨大な丸柱によって手前から外陣(礼堂)と内陣、内々陣の3つの空間に分かれている。一番奥の内々陣には御本尊が奉祀されており清水寺にとってもっとも神聖な場所となっている。お参りには外陣南側の廊下を進む。

 

 

外陣の様子。

 

 

 

 

 

昔は、中に蠟燭をいれて火を灯していたのか銅製の照明。

 

 

 

 

 

 

 

 

厳かな感じの外陣。

 

 

 

 

 

内陣 須弥壇

 

 

 

 

屋根の葺き替えの丸太足場。鋼管足場は一切ない、昔ながらの丸太足場。この足場が日本最大級の屋根面積2030㎡の葺き替え工事を支えている。

 

 

足場の間から舞台を通して景色を見ることができる。

 

 

 

 

 

 

足場の間から見る子安の塔 聖武天皇、光明皇后の祈願所として伝えられているが創建時期は不明。現在の建物は、明応9年(1500)の再建。高さ15mの三重塔。明治までは仁王門の左手前にあったが、明治44年(1911)現在地に移築された。堂内には安産の神として子安観音が安置されている。産寧坂は子安観音への参道であった。

 

 

地主神社  清水寺の境内にあるが、独立した神社。

 

 

釈迦堂と阿弥陀堂の側から見た本堂。工事中のシートで景観が判らない。

 

本堂の全景だが、屋根の葺き替え修理工事中でシートに覆われ姿は見えない。

 

本堂から張り出した「舞台」の高さは約13mで、4階建てのビルに相当。本堂は音羽山の急峻な崖に建築された「懸造り」と呼ばれる日本古来の伝統工法。格子状に組まれた木材同士が支え合い建築が困難な崖などでも耐震性の高い構造をつくり上げることを可能にしている。

<picture><source srcset="/assets/img/history/hall_ph_01.webp" type="image/webp" /></picture>

 

本堂の屋根は檜皮葺の優美な曲線が美しい「寄棟造り」。建築様式の随所に平安時代の宮殿や貴族の邸宅の面影が残っている。本来なら三重塔を入れたベストショットなのだが・・・。

 

釈迦堂【国指定重要文化財】  寛永8年(1631年)再建。本堂の先の山腹に建つ、寄棟造、檜皮葺きの三間堂。 

 

  • 阿弥陀堂【国指定重要文化財】  寛永8年(1631年)再建された。釈迦堂の右(南)に建つ入母屋造、瓦葺きの三間堂。前面の旧外陣部分を改造して奥の院への通路としている。

 

阿弥陀堂【国指定重要文化財】 内陣正面には後柏原天皇筆の「日本最初常行念仏道場」の勅額が架かる。

 

 

 

 

 

 

 

音羽の滝  清水寺の寺名の由来となった清水の湧き出す滝。

 

祠から伸びる水流は三本に分かれており、それぞれ違ったご利益を持っているという。柄杓で清水をすくって飲み干すことで願いが叶えられる。

 

古来「金色水」「延命水」とも呼ばれ、現在では学業や恋愛成就、長寿にあやかれるパワースポットとして親しまれている。

 

 

音羽の滝からみる舞台の全景(工事中で丸太足場だけが目立つが・・・)。

 

舞台を支えているのは、床下に建てられた18本もの柱。樹齢400年余の欅を使い、大きいもので長さ約12m、周囲約2mの柱が整然と並んでいる。

 

 

断面図 

 

 

柱と柱には何本もの貫が通されて、木材同士をたくみに接合するこの構造は「継ぎ手」と呼ばれ、釘を1本も使用していない。現在の舞台は寛永10年(1633)に再建された。歴史上、幾度もあった災害にも耐え、今も日々多くの参詣者で賑わう舞台を支え続けている。

 

 

出口に向かう途中。

 

 

十一重石塔

 

 

三重塔を下から見上げる

 

 

帰り際に西門と三重塔を見上げる。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー京都の文化人は、濁をも呑み込みながら濁に汚染されずに、清を毅然と保っているようなところがあるのがすごい。清水寺は、なんとなく、この「京都文化人」を彷彿させるとはいえないだろうか。あらゆる宗派を呑み込んでしまう仏教界の巨鯨でありながら、唯識論という孤高の経典を毅然としてうちに秘め、決して汚さない。そして一方では、邪教として排撃されかねないような数々の現世ご利益の伝説をつむぎながら、千二百年にわたって人びとに夢を与えつづけてきた。清水寺は、清濁あわせ呑むたくましさで、千二百年にわたって広く庶民に夢をあたえ、生きる糧を提供してきたとは言えまいか。夢想することは、人間に残された唯一の特権である。そして夢想することの多い人ほどじつは心身ともにいきいきと生きていけるのではないかと思う。人びとが救いを求め、救われる夢を見つつ、それぞれの物語をつむぐ清水寺の大きな舞台。私は人混みのなかにまぎれてその舞台に立ち、暮れていく京の街をながめつづけた。

 

 

御朱印

 

 

 

清水寺 終了

 

コメント