美しき言尽くしてよ

寒川神社相模塾 第五回


昨日の東京はお昼ごろは強風が吹き、そのおかげか、昨晩のふたご座流星群は我が家からもたくさん見ることができました。



ずっとオリオン座方向を眺めていると、9時過ぎから10時くらいの間に、10個ほどは見られたでしょうか。
お隣もベランダから見ていたようで、同じタイミングで「うわー!」と声を上げるのが面白かったです。
火球かと思うくらいのかなり大きいものもあり、エメラルドグリーンに光りながら流れていく姿は本当に感動しました。(やはり見えたいくつかは火球だったみたい)
皆さんの地域はもっと見えたでしょうか。

さて、12月11日は寒川神社相模塾の第五回目がありました。
今回は寒川神社の権禰宜の中西様の講義でした。
後から知ったのですが、お偉い方がお見えになっていたみたい。宮司さんなのかな。

お題目は「神社と神道の歴史②」です。
中西様は伊勢のご出身で、多分おうちも神社のようです。

少し時間が経っているだけなのに、もう忘れかけてる😅 ここに記録していくのもいい復習になっています。
ポイントのみ、自分のために書いておきます。

神道、神社という言葉は、用明天皇の時代「天皇仏法を信じ、神道を尊びたまふ」というのが初めて出てくるそうです。仏教に対して神道という区分けを作ったのですね。それまでは多分、自然崇拝から始まった神道に呼び名はなかったと思われます。

神代から歴代天皇の人代という時間軸の流れは古事記や日本書紀の神話により、国の成り立ちから綿々と続いてきた皇室の系譜を伝えられています。



ご存じのとおり、以前は神仏習合であり、別当をはじめとする社僧が神社内に神宮寺を建て、神前読経を行っていました。
御朱印も昔は別当の書くものでありました。
寒川神社でも明治以前は5つの神宮寺が建てられ、別当、社僧が常駐しており、寒川神社の昔の御朱印には別当のお名前が記載してあるのを見せてもらいました。

そして、はしょりますが、時を経て、復古神道の思想が起きてくるわけですね。
国学四大人(荷田晴満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤)をはじめとする国学者により神道思想として体系化され、仏教、儒教が中心であった江戸時代に、日本古来の神道の姿を追求し、その精神に立ち返ることを提唱しました。

平田篤胤は檀家制度により、仏教が有していた葬儀を神道にも導入しようとし、新たに神道の死生観を提唱しました。
「その冥府というは、この顕国の内いづこにも有なれども、幽冥(かくり)にしめ現世とは隔たり見えず」と『霊の真柱』の中で書いています。人は死んだら冥府に行き、子孫を守る。あちらの世界にいるそうで、あちらの世界は見えない。そして、仏教にある輪廻転生ではないとの見解ですね。
ざっくり書いてますので、興味のある方は調べてみてください笑

そしてその後、新政府より神仏分離令が出されて、神社から仏教色が消されます。

そして、近代社格制度がつくられ



神社運営も変化していきました。
現在の神社の由緒を読むと書いてある感じですね。




だんだんと欧米化が進み、教派神道の神道から分離されていき、明治15年には教導職の廃止により教派神道として順次独立、吉田神道の廃止と相成り、神社における神道の非宗教化が進みます。




それで加持祈祷のできる神職さんはほとんどいなくなってしまったのですね。

その後は戦後の神道について講義があり、
現在の信教の自由のもとで大らかな日本人の宗教観を生かし異文化、他宗教に寛容な社会をを築きながらも、先人から伝えられてきた大切な神道、神社を一人一人が理解して守り、次の世代に繋げていってほしいとまとめられました。


講義後は、またいつものように、本殿と宮山神社にお参りをして、家に帰りました。



七五三のお参りの方もいらっしゃいましたが、今やいつも七五三のお参りされているのを見るような気がしますが、どうなんだねと質問したいです😅






次回は4月。

早いもので一学期を終えました。





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