mimozaのつぶやき kuu-^-^

ネット星人 mimozaのつぶやき

お見舞い申し上げます

2011-03-12 22:49:29 | mimozaのつぶやきkuu-^-^
今回の災害で亡くなられた方々のご冥福を
心から お祈り申し上げます。

また、今夜も寒い中で過ごされてる方々が たくさんいらっしゃると思います。

少しずつ 皆さんの安否が伝えられていますが、まだまだ心配です。

ネット経由でも 『私は無事です』その一言で安心する人がたくさんいます。
災害時は情報がお互いに取れない状況の中
不安な思いで過ごされている方も多いと思います。

是非 発信できる方は 何らかの手段で伝えてほしいと思います。


以下・・・・長くなりますが・・・


阪神大震災当時 私は神戸在住でした。
毎年 正月の繁忙期を過ぎてからの休暇が恒例で
その年も1月16日からの1週間を予定していました。

ところが、シフト制のため急遽
「1日前にずらしてくれる?」
と上司から打診があり
特に何も思わずに「はい」と従ったまででした。

通常の休暇と同様 1週間分程度の衣服をつめ
いつもと変わらぬ 神戸の美しい夜景を車窓に
高速バスで帰省したのでした。

翌朝1月17日 震度1の揺れを感じて おぼろげに目を覚ますと
NHKの朝のニュースで『関西で地震発生速報』

神戸だけがポッカリ震度が表示されていません。
「ええ・・・?神戸だけ揺れなかったの??」

一瞬 そう思いました

ところが 時間が経つにつれ
神戸は震度も測定できないほどの大災害になっていることを知ることになります。

TVに流れる映像は まさに自宅付近
高速道路は横倒し(前日までジョギングしていたところ・・・)

はっきりわかる近所の見慣れた看板が映ります。
あたりには 次々と煙が立ちのぼり まさか!?の映像ばかりです。

起こっている現実に程遠い距離に居る自分に混乱していました。

次々と被害状況を知るにつれ 自分の生存の有難さよりも
被災地にいて苦しんでいる同僚や知人 多くの方々のことを思うと
無力な自分が情けなく その場に居れなかったことへのやり場のない気持ちだけが高まっていきました。

実家へは、帰省をしているとは思っていなかった人たちからの安否をたずねる電話が続々と入電されました。

あの時ほど 生きていることを複雑に感じたことはありませんでした。

当時 鉄道も道路も寸断され 直ちに関西の宅へ戻ることはできませんでした。

職場からは「今 帰宅しても電気もガスも水道もでない 
職場も壊滅休業 実家に避難待機しているように 
再開できるようになったら追ってまた連絡する」
との達しがあり 
その場に居られることの感謝よりも
自分はこんなに元気なのに ますます 自ら何も救援できないことをはがゆく思うのでした。

数日後、関西行きのバスが再開され
大阪まで乗車して神戸まで電車で戻りました。

大阪駅は普段とまったく変わらない状況で 人の笑顔で溢れていました。

神戸行きの電車へ乗り自宅へ向かいました。

神戸に近づくにつれ TVで観てはいましたが 目の当たりにして言葉を失いました。

自宅付近は家屋が倒壊していましたが 自宅は火災を免れていました。
部屋の中は 食器類が散乱しTVも吹っ飛んでいて
きっと その場に居たら・・・・・

何から手をつけたらよいかわからないまま 少しずつ片付けていきました。
水も出ないし 日が暮れると真っ暗です。
日中の作業しかできませんでした。

まだ 携帯電話を持たない頃でした。

そのうち電気がまず復旧

水は自衛隊の給水に助けられトイレ用の水を汲みに行きました。
当時はみんな お金があっても食料もなければ水もない
お店も何もかも付近のものはなくなってしまっているのです。
そんな状況だったように思います。

付近では家も家族も失ってしまった方がいらっしゃると思うと
その場にいても なお 身の置き所のない 恐縮な思いだけが 
私の心を大きく占めていました。  

食糧配給のお知らせがあっても その列に並ぶのは申し訳なく
自力でなんとかなる自分は何とかせねば・・・と列からそっと外れました。
(自宅に食料はありませんでしたが・・・)

当時の神戸は『がんばろー神戸!』のスローガンのもと
人々の心は前を向いていました

しばらくして神戸の職場の復旧は不明のため 
被害のない元気な社員は全国各地 
どこかへそれぞれ勤務することになり
私は北海道か名古屋の店舗に空きが出るとの知らせを受け
名古屋への転勤が決まったのでした。

また家探しからはじめ 名古屋での生活が始まりました。

状況は被災者でも 揺れを体感していない自分をはじ
そして また復旧に携わることなく神戸を後にすることに
胸が締め付けられる思いでした。

あの時に『おまけの生』を思い生きていくことを心に決めました。

その後、半年間名古屋に勤務して
神戸の1店舗が再開する知らせを受け 戻ることになりました
また家探しからです。

しかし その場でも 前述の身の置き所のない恐縮な思いに変わりはありませんでした。

第1回目 はじめてのルミナリエ
その年は 母も初めて神戸入り
もちろん 人々が通り過ぎた ほとんど人気のない明かりだけがついているアーチを通りました。
また あかりがこの街に戻ってきた。。

昔の街並みは変わってしまったけれど
また人々が戻ってきた。

それは 感動的でした。


私は その数年後、大阪へ転勤



どうして こんなことを今になって言っているのかというと
実は これまで 意図的に このことは書けずにいました。
今でも一生消えることはない 心の重荷だからです。

今回以前の各地での震災情報を拝見しても みんなの無事を祈り復旧を願っても
自分の体験を語ることは避けてきました。

しかし、今回の大災害の様子

きっと ご自分は被災を免れながらも ご家族や縁者になす術もなく
同じように やり場のない気持ちで過ごしている方がいらっしゃるかもしれません。

あの時に何もできないことを悩んでいると
「自分のこと(自宅や身近な難)をさておき 人助けに向かうことは人助けではない」
そう 言ってくれた人がいました。

その通りだと思います。

個人レベルのボランティアや救助といえば聞こえがいいですが
目の前の人の救助が ひいては公の救助になるのです。

「今度何かあったときこそは お役に立てる人になりたい・・・」
そう 思いつつも

ニューヨークの同時多発テロの時だって、
先日のニュージーランドの時だって、


私は祈るほか 何もできませんでした。

今も 悲しみの中にいる人々に希望の光がみえますように・・・
そう 祈るばかりです。 

日本に多くの国からの援助の手が差し伸べられています。
国レベルでは 是非 援助を受け入れてほしい。
自治体も 政権云々ではなく
自分の家族がいても 同じように思うのか?
人間レベルでの判断を願っています。

支援依頼は
「何を 何処に いつまでに」


今 私たちにできることは なんでしょうか・・・・・

「もしも 自分の家族があの場にいるならば・・・・」
そう思い想像してみることから はじめてみる

一瞬にして 家族や家や縁者を失われた方々
幼いお子さんの姿を観てると
この先 どんなに寂しい思いや 困難なことがあるのだろう
せめて 暖かい場所で暮らしてほしいと願っています。

「先日神戸へ旅行してきた」という仲間からお土産をいただきました。

今回被害が甚大な地域も きっと 復興します!

これからでも できることはたくさんあります。
むしろ これからの長いスパンで援助・応援していくことができるようにいたいと思います。 

一日も早く 日常が復旧しますように・・・・
私達も応援します。一人ぼっちじゃないですよ^-^!
コメント
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