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三神工房

2006年1月11日から約8年、OcnBlogで綴った日記・旅日記・作品発表は、2014年10月gooへ移動しました。

NHK「キミたちの未来、僕たちの選択」

2012-05-01 | 日記・エッセイ・コラム

4月30日08:20~09:05am「時任三郎世界エネルギーの旅」
を見た。起きぬけだったが、見終わったあと、救いようのない、
暗澹たる気持ちにさせられたのは、私だけなのであろうか。

仕事の関係でデンマークへは、十数度訪ねている。デンマーク家具
CUBEの代理店として、会社を設立したのが2004年。遡って、
初めて欧州へ入ったのは1982年あるいは83年のことだった。

西海岸のサンフランシスコを皮切りにニューヨーク・ロンドン・ロッテルダムから、
ベルゲンとまわり、デンマークのコペンハーゲンに辿りついたのは、日本
を出てから1ヶ月後のこと。空港で朝日新聞を見て、涙が出た。

今と違って携帯などはなく、PCもなく、FAX全盛のころだった。
欧州へPCを持っていき、電話回線を使った同僚が、NTTから
30万円を請求されたのは、もうすこしあとのことだと記憶する。

番組によると、当時から欧州では原発に対する是非を議論し、
その後デンマークは風力中心の自然エネルギー志向に動き、あと
数年で、100%の電力を非原発で確保することになるという。

かたやフィンランドは真逆の選択を行い、地下400mの岩盤をくり
抜き、数年後から放射能廃棄物収納を開始するという。ただ、
彼らの選択は長期の議論を経て、国民のコンセンサスを得ている。

また責任の取り方も徹底している。電力会社は本社を原発の
真横に置き、社長自ら、現場で経営を行っている。また地域の
合意も得て、国民自体が廃棄物を自国で処理する責を負う。

だが深いトンネルの中で、案内役の若い女性が、時任の問いに
答える姿を見て、その淡々とした表情から、とてつもない覚悟
を見た。もし事務的なものならば、彼女は相当な役者であろう。

しかし地下400mの岩盤に廃棄物を閉じ込め、人畜無害まで
至るのは、25万年後だという。ネアンデルタール人が50万年、ホモ・
サピエンス登場が20万年前である。そんな設計があり得るのか。

30年前、初めての訪米で乗ったジャンボが、サンフランシスコ空港に
着陸した際、日本人観光客から拍手が起こった。私も手を叩
きたいほどの感動だった。人間の文明と未来に希望を持った。

だがその後30年、ここまで来るとは思わなかった。25万年先に
まで禍根を残すのは、やはり冒涜ではないのか。どこまで汚染
を広げ、この地球を食いつくしていくのか。まるで蟻地獄である。

原発事故を起こした日本がするべきことは、被災地の早期復旧
と共に、放射能除去とフリーの技術開発に着手すべきではないか。
冗談抜きに、いまノーチラス号と鉄腕アトムに代わる、夢が待たれる。

三神工房


土曜日の朝

2012-04-28 | 日記・エッセイ・コラム

今日は所用で隣の明石へ行った。この街には、免許の更新か、
新幹線に乗るときか、はたまた三<wbr></wbr>宮で飲んで乗りすごした後、
お世話になる街である。(快速で寝過ごし、起きれば明石!)

言い方は失礼(明石の人に叱られる?)だが、冷蔵庫で見つけた
板かまぼこ<wbr></wbr>の残り(半分使ったあと、板にへばり付いた残り)の
の<wbr></wbr>如く、誠に質素な魅力の漂う、良い街なのである。

主のいない城と天守閣もな<wbr></wbr>い石垣、そして広大な庭園が、街の
中心部に鎮座まします。この城跡は、どんな有名な建<wbr></wbr>築家も成
しえない、絶品の都市を形成している。

例えば、乳飲み子を<wbr></wbr>抱いた母親が、弁当を持って日がな一日、
新緑の中で憩える。それが自宅<wbr></wbr>から歩いていける場所、そして、
無料なのである。明石に
は、なにものにも代えがたい城である。

一方、震災のあとのやっつけ仕事、とはいわないが、何百億も
掛けて造った新都市が、いま窒息しようとしている。忙<wbr></wbr>しく走る
のは、独居老人
を運ぶ救急車と、あとは霊柩車という始末。

街を造るということは、難しい。私が心配しても、せんないこと
だが、
新緑の中の噴水を見ながら、そ<wbr></wbr>んなことを想う朝だった。

 

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漁夫生涯竹一竿 (ぎょふのしょうがい さおいっかん)

2012-04-26 | 日記・エッセイ・コラム

いにしえの話である。もう45年ほど前か、まだ私が15歳前後。
初めてバイトをしたときのことである。某運送会社(日本中、どの
駅にもあった、いやあります)の、今でいう宅急便の配送をした。
冬休み、年末のお歳暮の配送で、けっこう毎日忙しかった。

当時たしか中学の3年生だったと思うが、免許もなく体力だけの
私を見た某社の担当は、まずはベテランの助手にしようとして、
年配の人に紹介してくれた。歳のころは、もう老人といっても良い
ほど。牛乳瓶の底レンズを掛けて、背は150センチ位だったか。

私は、黄色い三輪(当時のトラックは三輪が主)に乗って、荷物を
配送するするものだと信じていた。しかし老人は(敢えていう)
立ち並ぶ社車を見向きもせず、倉庫に向かった。そこで、なんと
荷車を引きだしたのである。老人も免許なし。荷車専門であった。

それから毎日、私は荷車を曳いて街を歩いた。一応、三重県の
県庁所在地である。歩道があって信号があった。(そんな時代)
老人も荷車に掛けた綱を肩に掛け、車を私と二頭立てで引いた。
正直嫌だった。当時、まだ私は、紅顔の美少年!?だったのだ。

それでも私は、大晦日の昼まで、荷車を引いた。長さ3mほどの
荷台には、ミカン箱や鮭の塩漬けなど、50個位を乗せて歩いた。
県庁の坂を下って、国道を渡れば、まだ田んぼの畦道だった。
そこを轍を踏みながら、二人で引いた。年末、寒い日が続いた。

たしか母が驚いて止めた。「なんで大晦日まで!」と、詰った。
でも私は、老人について歩いた。重いミカン箱の持ち方、轍の道
での荷車の引き方などなど、なにかにつけて老人は話をした。
お昼は路肩で、二人しておにぎりを頬張りながら、話を続けた。

それは至福の時だった。45年近く経っても覚えている、それが
証であろう。老人は、そうやって戦後を潜り抜け、家族を養って
きたのである。恐らく復員者だった。どんな青春を送ったのか、
知る由もない。だが「息子は東大へ入った」とさり気なく言った。

翌年の年末、私は同じバイトをした。だが老人は他界していた。
私はひとりで荷車を引いた。だがそれは無理だった。荷が重く
独りで引くことは無理だった。老人の力を知った。でも続けた。
荷車に積んだ荷を、一個一個自転車に積み替えて、運んだ。

 

漁夫生涯竹一竿、山僧活計茶三畝のあとに続く「禅語」である。
人間、生計を立てるものがあれば何もいらない、という境地だ。
だが、それが難しい。今、私はきっとかの老人と同じ年まわり。
私に、あの胆力があるかと問われれば、正直、甚だ心許ない。

でも、これだけは言える。老人、あなたの生きざまは、45年経
ったいまも、私の心の中にあります。きっと死ぬまで忘れない。
そして、どうやったら上手く荷車が引けるのか、どうやったら、
人生の轍を克服出来るのか、心して後塵を拝して参りますと。

三神工房


李花白桃花紅(りかはしろく とうかはくれない)

2012-04-24 | 日記・エッセイ・コラム

学生の頃、けっこう映画をよく見ました。もちろん若気の至りで、
通う高校の学区外(確か伊勢)で、友と二人して、日活ロマンポルノ
を見に行きました。あのときの”ドキドキ”、いまだ忘れません。

まあそれはともかく、けっこうやくざ映画の全盛時代で、高倉健・
菅原文太・鶴田浩二と、目白押しでした。1982年だったでしょう、
まだ賑わっていた神戸の東門で、鶴田浩二を見たときは、彼の
カッコよさよりも、取り巻きの女性群の綺麗なことに驚きました。

映画を見たあと、たいてい連れと二人でしたが、映画館を出て、
気がつくと横で歩く友人が、肩で風を切っていました。私がそう
言って笑うと、「じゃあお前はなんや、両手をポケットに入れて」
と言われ、大笑いをすること度々。まあ没頭して見たのでしょう。

昨日、また京都で痛ましい事故がありました。幼女と身重の若
いお母さん、お腹の子も助からなかった由。ご冥福を祈ります。
これは事故ではなく、事件です。怪我をした、他のお子さんの
回復を祈ります。心にの残る傷は、一生を経ても残るでしょう。

事故を起こした三人は、無免許だとか。いまだ未成年とはいえ、
彼らには、これから地獄が待っています。その親も同様でしょう。
共に一生掛っても消せないものを、背負って生きねばなりません。
ただ若い彼らの心には、まだ遥か遠い出来ごとかも知れません。

なぜ未成年の三人が、とめどなく京都の深夜をドライブしたのか、
その点だけは想像がつきます。きっと生活に倦み、なにかいい
ことを探して、彷徨ったのでしょう。どこか、どこにもいいことは
ないと分かっていても、徘徊をせずにいられない時があります。

私もそんな時期を通りすぎてきました。長い長いトンネルもあり、
スピンアウトしたいと思った時もありました。でも、人生十の内の、
八つか九つは、たいへんなんだと知って、まだ幾ばくも時間が
経っていません。自分では「十中八苦」と、心に言っています。

やくざ映画を見て、憧れました。2時間ほどの間、自分自身が、
高倉健の一の子分だと思い込んでいたのでしょう。そして映画
館の外へ出ても、肩で風を切りながら「つもり」でいたのです。

この世の中、憧れても、望んでも、けっして出来ないことだらけ、
とは、若い頃は思わないものです。でも18にもなれば、自分は
自分、人は人、和して群れずと思うことが、生きる術ではないか、
と思います。もう事故を起こした三人には、届かないでしょうが。

李(すもも)の花は白く、桃の花は紅。だから美しいという禅語、
それが「李花白桃花紅」だそうです。まあ、自分は花ではない!
というのも正解ですが、できれば「ありのまま」でありたい、そう
思う、齢60にして罪大き男の述懐です。きっと、言い続けます。

三神工房


「武士の家計簿」

2012-04-23 | 日記・エッセイ・コラム

日曜、NHKの大河を見てからビデオ「武士の家計簿」を見た。

しかし某県知事ではないが、やはり「清盛」はドラマとして、見
辛いものがある。確かに平安時代を映しだしたい、との製作
者の意図も分かる。だが所詮TVというものは、家庭にいて
普段着で見る者の感情に訴える道具であり、映画とは違う。

清盛は竜馬と同じく、時代の佳境で死を遂げる、ヒーローである。
だがどう見ても「竜馬が行く」とは違う。それが、福山竜馬との
違いによるものか分からない。まあ、それも大きいのであろう。
だけどあの白っぽいのは、どうにかならないものか。見にくい。

それはともかく武士の家計簿、身につまされた。まだ見ぬ方
に概要をお知らせする。原作は磯田道史氏という歴史学者。
2001年東京は神田界隈にて加賀藩御算用者、猪山直行の
古文書発見。2003年にノンフィクション発刊で、なんと20万部!

これを森田芳光氏が2010年に映画化したという。馴初めが、
面白い。「事実は小説よりも奇なり」とは、良くいったもの。
磯田氏も、まさか映画になるとは!?であろうが、物語という
ものは事実も小説も、その底流に流れるもの次第であろう。

物語は猪山直之を主に、その父の信之と息子の成之の三代
に渡る算用係と、その家族がくり広げる、悲喜こもごもの話。
三代の生きざまを知るにつけ、なぜ日本が明治維新後世界
の列強に負けぬ国を造ることができたか、分かるのである。

だが1945年を境にすべてが変わってしまった、今、国が貧
乏であるなら、恥も外聞も捨てて債務を無くすべきであろう。
それなくして平成維新は成り立たない。己の志を残すため、
せめて己の債務は処理をして、この世から消えていきたい。

そんなことを思わずにはいられなかった。だが、せっかくの
映画鑑賞も、そのあとに見たニュースで報じられる、某国の
政治ニュースで興醒めになった。それもまあ自分の所為だ
と、寝床で読む「禅語」の一文で達観!?し、熟睡した次第。

三神工房