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三神工房

2006年1月11日から約8年、OcnBlogで綴った日記・旅日記・作品発表は、2014年10月gooへ移動しました。

「長崎アジサイ物語」

2012-07-29 | 日記・エッセイ・コラム

岡隆作曲・歌、三神工房作詞「長崎アジサイ物語」、先週より
Yusen-チャンネル”A-20"にて、リクエスト・配信可能になって
います。お店で聞く楽曲、また楽しからずや。

三神工房


惜別の情

2012-07-26 | 日記・エッセイ・コラム

7月22日、叔父が亡くなった。享年76歳。

子供の頃から可愛がってもらった。仕事の忙しい親父に
代わって、夏休みの思い出は、ほとんどが叔父が作って
くれた。大きくなってからも、家を移る度に、かならず引越
しの場所にいた叔父。

告別式の最後従兄が挨拶に立ち、最後遺影に向かって
ひとこと言った。「ありがとう!」張り叫ぶ声は悲しかった。

それでも時間は流れる。
冥福を祈るばかり。さあ今日も出張、長崎へ。

三神工房


夏の思い出

2012-07-17 | 日記・エッセイ・コラム

今朝の朝霧海岸です。今朝の海の色は、どう表現したらいい
のでしょう。マリンブルーには違いないのですが、どこか夏の
郷愁を誘う、それは「あお色」とでもいいましょうか。

子供の頃、夏休みの楽しさに翻弄されつつ、心のどこかで、
「こんな楽しいことはいつか終わる」と、いつも思っていたよう
に思います。結果、夏休みは当然終わったのですが、その時
の心の動きが、楽しい思い出と共に、今も残っています。

そんな子供の多感な時を、せめて大人が温かく見守ってやる
社会がいいですね。”「いじめ」ではなく、「けんか」だった”、と
言えば、苦しいことから逃れられる、とでもいうのでしょうか。

そんな言い逃れをする大人、しかも校長という立場の大人を
見て、子供がどんな気持ちになるか、知らねばなりません。
強烈な日差しの下で、飛び上がりたくなるような絶景を前に、
そんな想いに駆られた今朝でした。

三神工房

 

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いざ母港へ

2012-07-07 | 日記・エッセイ・コラム

今朝の尾道駅前。海上保安庁、巡視船「おき」の出港に出会った。
PL01,境を母港とする1000トン型。長さ85m,820トン。

すでに船齢は24年?。恐らく尾道で定検を終え、瀬戸を西へ抜け、
日本海の警備に赴くところであろう。


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(↑):タグに囲まれ、後進。

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(↑):タグに押され、沖合で右旋回。


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(↑):旋回中!

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(↑):旋回終わり、船尾から造船所艤装員がタグへ撤退。


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(↑):汽笛一声、微速前進。(ペラ回転の白波)

私も、古きを棄てて、いざ前進!

三神工房

 

 

 

 

 

 

 

 


<大津の中2自殺>生前に自殺練習強要

2012-07-04 | 日記・エッセイ・コラム

事件の記事を読めば読むほど、深い憤りを感じる。寂寥感
とでも言おうか、いつかSFで読んだ誰もいない地球を想像
してしまうような、どうしようもない、虚しさが止めどなく出る。

親のひとりとして学校を恨む。その上の教育委員会の存在
に関しても不条理を感じる。しかし加えて、私の世代も含め
昭和人の責任を痛感する。なぜこんな日本になったのかと。

私も、小学生の頃いじめにあった。逆にいじめる側に立った
こともあった、と思う。その結果、校内で番を張っていた男に
睨まれ、皆が見守る廊下の真ん中で、殴り合いになった。

2・3回拳を繰り出した私は、恐らく私より10センチ位小柄な
相手に対して、一発も当たらないことに「?」と思った瞬間、
真後ろへ飛ばされ、ひっくり返っていた。息が出来なかった。

後から聞けば、彼は小学校の低学年からボクシングジムへ
通っていたらしい。私は、手を出してはいけない相手と喧嘩
をしてしまった。医務室へ運ばれた私に、女先生が言った。

「よくやったね!」

それからなぜか彼の手下は私を避けた。そして彼は二度と
私に手を出さなかった。大人になってかなりしてから、彼か
ら電話が入り、コック長になったから来いと呼出しがあった。

私は恵まれていた。まだ明治・大正生まれの教育者がいて、
新しい先生方に交じっても、その気骨に揺るぎはなかった。
本当の「立派な先生」がいて、貧しくとも「正しい親」がいた。

私は子を持ち、彼は一方的に苛められた。後から知れたこと
だが想像を絶するものだった。今はまだ、ものかきの端くれ
である私にも書けない、彼にとって誠に過酷な人生だった。

その時期、私は私で精一杯生きていた。だが、その生き様は
先達の教えには反していたに違いない。今はただ、今後私に
なにができるのか、及ばずながら改めて考えている所である。

(未完)

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