1995年1月、振替休日の翌朝だった。もし休み明けでなかったら、
東門あたりで朝まで飲んでいたら(めったになかったが、たまに‥)、
どうなっていたことか。
船に乗っていると思った。二十代の半ばのころである。勤めていた
造船所で艤装を終えた船で紀伊半島を回った。瀬戸内の造船所で
クレーンを搭載する為だった。あいにくの低気圧。会社は引渡しを
焦り、出港を強行した。結果、船は傾斜計を振切り、目当ての造船
所へ着いた時は、まるで難破船だった。途中、左右40度以上の揺
れが続いた。夜が明けて、横の丸窓には青空と真っ青な海面が交
互に見えた。傾斜55度の梯子は水平になった。それは昔のこと。
天井を見ながら、布団の上で横を見た。家人が寝ていた。なんや、
と思う間もなく上からものが落ちてきた。家人をかばう際に額を切っ
た。時計が当たった。あとから家人は、男のくせに縋ったと言った。
揺れが収まり、玄関へ走った。とまた揺れた。家族の顔がボケる
ほど揺れた。外へ出ようとノブを回した。でも開かなかった。外から
助けてくれと声が聞こえた。肩から玄関のドアに体当たりした。で、
やっと外に出られた。大勢が団地の前に出てきて空を見上げた。
助かった、と思ったが、それからが長かった。とてつもなく。
我慢も、限界を超えると人間が痛む。痛むほど無理をしない方が
いいと分かっている。しかし無理をする。だから仲間がいる。ただ
黙っているだけでもいい。傍に仲間がいる。
大切なことは、忘れないこと。
なにか出来ればいいが、なにも出来ない。
台湾の人は総額で100億を越えて寄付を続けているという。そう、
仲間はいる。痛みを知った仲間がいる。現金でも、元気がでる。
私も、私の出来ることをやっていこう。
三神工房