時々機会がある小学生への本読みの時間。
先日は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を読みました。
日本人のほとんどが知っているお話ですよ、と説明して。
そこにお釈迦様が出てきますが、お釈迦様は、(私から見ると)気まぐれのようにカンダタを助けようとして、じーっと一部始終を見ていますが、カンダタが他の者を蹴散らしているうちに、結局カンダタも地獄にもう一度落ちてしまう、その様子を眺めているお釈迦様の姿を昨日思い出しました。
なんだかこの地球の意思のような気がして。
地球の上では、人間がさまざまな活動を展開し、地球目線で見ればいいことはあまりしていないでしょう。
先日の最貧国ハイチでの地震、一昨日のチリの巨大地震(全貌不明)、15年前の阪神淡路や他の大きな地震で被災した大勢の人は、神様や地球の気まぐれ?を恨めしく思ったはずです。
でも、全知全能であろうお釈迦様は、カンダタと多くの者たちが再度地獄に舞い戻っても、淡々としているだけなのです。
以下「三」に出てくるお釈迦様の姿、これこそが自然のあり様なのかも、と思ったり。
遠藤周作の『沈黙』の読後感にも近い。
オリンピック、東京マラソンと平和でなければできない営みのそばで、想像を絶する苦しみや悲しみを味わっている人がいるとは。
人間のもつ可能性や素晴らしさに励まされる一方で、なんと自分とは、人間とは、無力なことかとも思います。
~『蜘蛛の糸』終盤の終わりのところを抜粋~
(前半省略・ネット上に全文出ています)
そこでカン陀多(カンダタ・カンの字体無し)は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚(わめ)きました。
その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカン陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断(き)れました。ですからカン陀多もたまりません。あっと云う間(ま)もなく風を切って、独楽(こま)のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。
三
御釈迦様(おしゃかさま)は極楽の蓮池(はすいけ)のふちに立って、この一部始終(しじゅう)をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてカン陀多(かんだた)が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カン陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着(とんじゃく)致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足(おみあし)のまわりに、ゆらゆら萼(うてな)を動かして、そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云えない好(よ)い匂が、絶間(たえま)なくあたりへ溢(あふ)れて居ります。極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう。
(大正七年四月十六日)
3月は、一年の中で自殺者が最も多いのだそうです。
誰かSOSを発信している人がいるなら、せめて、キャッチできる人でいたいものだと思います。
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