見出し画像

おとなりカフェ

1年8か月ぶりに東松島に

11月はイベント続きで、後始末もままならないうちに12月となり、7日に、1年8か月ぶりに宮城県東松島市に行ってきました。

大震災1年後の2012年3月10日以来の東松島で、そんなに間が空いていたとは・・と、時間の経過が未だ腑に落ちません。
私にとっては、この震災のことや今もこの時の痛みを抱えながら暮らしている人たちの思いを、一日一瞬くらいは想像してしまうわけで、私の中ではまだ現在進行形です。
毎月、11日になると福島から避難している人、東北に暮らす何人かの人たちとメールで様子伺い。


先日、震災から1000日と報道があり、そうかぁ・・と思いました。

実際に取り巻く環境は、まだまだ厳しい。さらに、というべきか。現実は容赦なく差し迫ってきます。

久しぶりに、また、根古地区の仮設住宅の皆さんと顔を突き合わせて話す時間がありました。
もう、この先の問題は、9割が経済問題です。

仮設住宅であれば、住みにくさがあっても無料で住んでいられます。
今、高台の造成が進み、下水道などの整備も同時に進んでいますが、そうした復興住宅地・災害公営住宅への移転になると、一定期間の土地貸与があっても家屋は自力でなんとかしないといけません。
集合住宅であれば、当然家賃が発生します。

多くの場合、働き盛りの人たちは子どもたちの教育のこともあり、流出しています。
ここには再び戻って来ないだろうという見方が大半です。
ここは、かつて野蒜駅、東名駅があった場所。
今も仙石線分断地域です。線路は2012年に見た時のままでした。跡地があるだけ。
もちろん、高台整備と一体で復旧予定です。

現在バスがつないでいますが、当然不便で、震災以前のように三世代が力を合わせて生活していくスタイルは維持しにくく、高齢者がこの場所で老後のための蓄えを自宅再建に使ったら、今度はそれ以後の生活がままならなくなってしまいます。

結果、復興住宅地への転居を希望する人たちは、募集当初よりも減ってきているそうです。
そちらに移るにしても、あと3年ほど仮設暮らしとなりますし。
状況は常に変化しますが、どうでしょう。

多くの皆さんが、100坪とか200坪の敷地に楽々生活してきた人たちばかり。
シェアハウスのようなスタイルを提案しましたが、どなたも、いいね、とはおっしゃいませんでした。。

大きな災害が起きて3年経過した頃から、自殺者は増えていくと、地域包括支援センターの方のお話。
ゆえに、個別に丁寧に相談に応じるには、圧倒的に人材が足りないと。

「すみちゃんの家」にも行ってお話を聴きました。
被害が甚大だった野蒜地区のことが少し理解できるブログがあります。
http://blog.canpan.info/sumichan/

私たちにできることは、当初とは同じではありません。
皆さんを忘れないこと、応援すること、できればお金の回る仕組みを手伝うこと。
ちょっと大きな仮設住宅の自治会の人たちは、フィリピン・レイテ島の台風の被災者にすぐに毛布をかき集めて送ったそうです。
対岸の火事ではない、あれは自分だったかもしれない、そのような当事者意識を持ち続け、思いを寄せることが、まずは私たちにできること。


美味しいものを食べながら、気のおけない仲間や、家族とおしゃべりしているとき、
朝、美しい夜明けの景色を見ながらジョギングなんかできているとき、

この2つの場面は、私にとっては平和の象徴のようなもの。
その時間を楽しみながらも、こういう時間が持てる人は世界の中で何割くらいだろうかと頭の片隅で考えながら、過ごしてしまう。

考える、動く、語る、笑って過ごす、いい循環を意識して作り出すしかない。
メモ代わりに書いておきます。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「雑感」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
2016年
2015年
人気記事