Mac miniのある生活

勝ち負け

「ゲーム(試合)は、勝たなければ意味がない」
そう断言して憚らない人を見ると、自分は少し寂しい気分になる。

いや、誤解しないで欲しいのだけど。
決して、勝負にこだわることを、悪いことだと言ってるわけではないんです。

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何のためにゲームをするのか。
その問いは、何のために生きるのか、という問いに近いけれど、等しくはない。

いっぱいお金を手に入れるため?
日々の小さい幸せのため?
地位や名誉のため?
自分自身の世界を大切にするため?
自己満足のため?
誰かに愛を与えるため?

結局、「答えなんてよく分からない」ということになる。
そのどれでもあるし、そのどれでもないのだ。

一つ言えるとすれば。
何か目的を持つとき、まず最初にあるのは、欲望。
その次にあるのは、剥き出しの欲望に対する「表向きの」理由付け。

自分の欲望をさらけ出すのは、恥ずかしいことだ。
子供と同じだと言ってるのに等しい。
だから、表向きの理由付けをする。

結局は、何かしらの「自分自身の欲望」と一致するところがあるから、ゲームの世界に身を投じるのだ。
つまり、勝負に勝たないと、自分が勝負する目的たる欲望を満たすことができない。
そういうことだろう。

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自分は、テニスが好きなんだけど。
どちらかというと「試合をする」ことは積極的に好きじゃない。

自分がしたいのは。
コートの上をより速く奔り、ラケットをより鋭く振り、ボールをより強く打つこと。
その一連の動作のスキルを上げること。
ひとつひとつの動作の集合体としてのテニス。
どのような球種も、どのようなフットワークも、自己完結的な「いい姿」でありたいということ。

自分自身のスキルを磨くということは、実力も上がっていくということなので、そのレベルを測るために試合に出ることもするんだけど。

結果として勝てば、優越感を得ることはできる。
負ければ、劣等感。
でも、欲しいのは結果じゃない。

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敗者の論理と言う人がいるかもしれない。
「負けた時の言い訳に過ぎない」という判断は正しいのかもしれない。
自分が、勝利という「結果」を全く求めていないと言えば、それは真っ赤な嘘でもある。
もし、自分にもっと運動センスがあり、身体能力が高かったとしたら、きっとそのアドバンテージに酔いしれていたことだろう。
そのこと自体を否定する気はない。

しかし。
どちらが正しいわけでも、どちらが間違っているわけでもない。
結果を重視する者も、過程を重視する者も。

真剣に、自分自身に対峙して、自分のできる全てを出し切る。
それをすることには差がない。
結果がどうであれ。

自分は、結果を求めて苦しむのはヤメにしていいと思う。
苦しみは、自分自身の求めるスキルアップのために。
自分自身のために。

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自分にとってゲームとは、勝とうとして「もがく」ことにおいて、その真の意味を発揮するように思える。
その結果がどうであったか、なんて大して意味のあることじゃない。
たまたま相手の調子が良かったとか、逆にこっちの調子が良かったとか、天候の影響があったとか、不確定要素に左右される「結果」は、自分の実力を測るための目安に過ぎない。

どうしても自分を飾りたいなら、そうすればいい。
悪いことじゃない。
どうせ理不尽な人生だ。
ゲームの世界だって、理不尽が当たり前と考えるのは自然なことだ。
それも、アリだ。

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ただ。
自分は、ゲームをする時だけは、理不尽を忘れていたい。
それだけ。

「自分自身の中にある向上心を満たす」ということと、「欲望を満たす」ということを混同したくないだけ。
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