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我的三国演義~第八巻『三顧茅廬』

2008年10月15日 | 我的三国演義
我的三国演義~第八巻『三顧茅廬』
この巻の主な出来事です。

202年(建安7年) 『袁紹』病死。
207年(建安12年) 『曹操』河北を平定する。
             『劉備』“三顧の礼”で『諸葛亮』を得る。

 袁紹本初(生年不詳 - 202年)
さて『官渡の戦い』に破れた『袁紹』が「202年」に病死し、その後『曹操』によって「袁」一族は滅ぼされました。
「江東」では『孫策』が“呉郡太守”「許貢」の食客に襲われたた傷がもとで「200年」に亡くなりました。
「覇権」の行方は「河北」を平定した『曹操』、「江東」を継いだ『孫策』の弟『孫権』、“荊州”の「劉表」、“益州”の「劉璋」、“漢中”の「張魯」、“涼州”の「馬騰」「韓遂」といったところに絞られてきました。


 孫権仲謀(182年 - 252年)
三国史跡紹介・其之三十~龍門古鎮(詳しくは2008年8月2日のブログを参照してね)
『孫策』の弟『孫権』の故里である「龍門古鎮」は、現在は『孫権』の末裔が暮らす村として観光地化されています。

所在地は「浙江省杭州市富陽市龍門」です。
アクセスは「富陽」の「汽車西站」から「龍門」行きの「バス」に乗り、2~30分で着きます。
入場料は破格の「68元」です。
「富陽市」内には「東呉文化公園(入場無料)」もあり、ここの「三孫堂」の方が『孫堅』『孫策』『孫権』の像などがあり“三国志”色が出ています。
「龍門古鎮」への到達難易度は「C」ですね。
「史跡アタッカーさん(仮)」のサイトでは、この付近にまだ『孫権』関連の廟などがあるようだったんですが…

三国史跡紹介・其之三十(追加)~孫氏宗祠(詳しくは2011年7月24日のブログを参照してね)
所在地は「浙江省杭州市富陽市」で同じく「富陽」の「汽車西站」から「大田」行きの「バス」に乗り、30分で着きます。

管理人のジイさんに鍵を開けてもらって見学できました。
ジイさんの話じゃ、こっちが「孫権」の故里で、「龍門」は「孫策」の故里だと。
到達難易度は「B」かな…凄い田舎まで行くのでミニバスの運転手に目的地を伝えておかないと降りれないかも。
   …以上

三国史跡紹介・其之三十一~袁紹墓(詳しくは2007年9月23日のブログを参照してね)
「202年」に“鄴”で病死した『袁紹』の墓なんですが…
一般的に『袁紹』墓と伝えられているのが「河北省滄州市滄県高川郷前高龍華村」にあります。(未到達)
…が、山東省の電子地図を見ていたら「山東省濰坊市高密市」にも『袁紹』墓が記されており、行ってみました。

『鄭玄』墓と同じく「双羊鎮」にありますが、地元人民に連れて行ってもらいました。
ただの丘で墓石も何もありません…それは「河北省滄州市」も同じなんだけどね。
でも「山東省高密市」よりは「河北省滄州市」の方が信憑性はありますが…
到達難易度「A」ですね…地元人民に聞かなきゃ分かりませんから。
   …以上



 劉備玄徳(161年 - 223年)
さて『劉備』はと言うと「201年」に「劉表(142年 - 208年)」を頼り“荊州”へ逃れました。
「劉表」は『劉備』らを歓迎しました。
『劉備』は「劉表」に、『関羽』に“漢中”の「張魯」及び『曹操』、『張飛』に“南越(ベトナム)”、『趙雲』に「江東」の『孫権』…と国境を守らせようと提案しました。
しかし「劉表」の妻「蔡氏(正室)」の弟「蔡瑁」が動き、「蔡氏」の進言により『劉備』らは「新野」に駐屯することになります。
あるとき「劉表」は『劉備』に後継問題を相談しました。
「劉表」には「劉」と「劉」という2人の子がいましたが、前妻の子「劉」は病気持ちで体も弱く、「劉表」や後妻「蔡氏」は「劉」を可愛がっていました。(劉は蔡氏の実子)
しかし『劉備』は長子(劉)に跡を継がせるのが筋と進言し、「劉表」も納得していました。
…が、それに納得しないのが「劉」を跡継ぎにさせたい「蔡氏」と弟「蔡瑁」です。
「蔡瑁」は『劉備』を暗殺しようと宴会に呼び出しました。
「劉表」の配下「伊籍」から「蔡瑁」に企みがあることを知らされると、『劉備』は厠に行くフリをして愛馬「的盧」で逃げます。
しかし急流に阻まれピンチに陥りますが、「的盧」は一気に河を飛び越え、『劉備』の危機を救いました。
その前にも「蔡瑁」は『劉備』が“荊州”を奪おうとしていると「劉表」に思わせる策を失敗しています。

三国史跡紹介・其之三十二~馬躍檀渓遺址(詳しくは2008年2月3日のブログを参照してね)
愛馬「的盧」で飛び越えたという「馬躍檀渓遺址」は「湖北省襄樊市襄城区環山路」にあります。

到達難易度は「C」ってことに。
「襄樊市」の地図があれば「路線バス」などで近くまで行かれると思います。
   …以上

『劉備』が「新野」駐屯中には、こんなエピソードもあります。
あるとき「劉表」の酒宴から席を立ったとき、自分の太ももについた贅肉を嘆き、涙をこぼしたといいます。
これは今も“髀肉の嘆”という言葉として残っています。
『劉備』は「劉表」のもとに身を寄せてから、馬に乗って戦地を駆け巡ることもなくなり、太ももにはすっかり贅肉がついてしまったことを嘆いたのです。
時は「207年」…“荊州”に身を寄せてから7年の月日が経とうとしていたのです。
ちなみに、この年に「劉禅(阿斗)」が生まれていますが、「劉封」という養子も取っています。
『劉備』は「蔡瑁」の暗殺から逃れた後「新野」へ向かう途中で童子に道を尋ねると、童子は「劉備玄徳様ではありませんか?」と。
「何故私の名前を知っているのだ?」と『劉備』が尋ねると「私の先生がいつも貴方様のお話をなさるのです」と言います。
『劉備』は「是非とも、その先生に会ってみたい」と言い、童子に案内してもらいました。

三国史跡紹介・其之三十三~水鏡庄(詳しくは2008年2月3日のブログを参照してね)
「水鏡先生」こと「司馬徽(?-208?)」が隠居していたのは「湖北省襄樊市南漳県城関鎮洞坪村」です。

ここには「水鏡庄」があります。
「南漳」の汽車站から歩けますね…入場料は30元です。
到達難易度「D」にしとこうか…俺は地図持ってなかったから「輪タク」使ったけどさ。
   …以上

「司馬徽」は『劉備』に会うと、「貴方には関羽・張飛・趙雲といった豪の者は臣下にいますが、激動する時代の流れを読み、臨機応変に対応出来る人物がいない…だから機を逃しているのです」と言いました。
『劉備』は「そのような人物がまだ野にいるのですか?」と問うと「“臥龍”か“鳳雛”か…そのどちらかでも得れば天下も獲れるでしょう…」と「司馬徽」は言いました。
そして、ある日「新野」の『劉備』のもとに『単福(徐庶)』という男が訪ねて来ました。
『劉備』は『単福』を優れた人材と見抜き、“軍師”として用いました。

三国史跡紹介・其之三十四~徐庶故里(詳しくは2008年2月3日のブログを参照してね)
「徐庶廟」は「湖北省襄樊市南漳県城関鎮徐庶路」にあります。

隣りの博物館にいる管理人に鍵を開けてもらわなければならないようなのですが、博物館も閉まってました…
…って言うか、この博物館は閉館してるんじゃないか?という気もしました。
…という事で入れませんでした。
到達難易度は「D」かな…「水鏡庄」と同じで「南漳」の汽車站から歩いて行けます。
   …以上

 曹操孟徳(155年 - 220年)
その頃『曹操』は南方侵攻の準備を進めていました。
まず“荊州”国境近くの「樊城」に「曹仁」を大将に「李典」「呂曠」「呂翔」の三将を置き、“荊州”をうかがわせていました。
“三国演義”では、ここで『徐庶(単福)』の活躍を描いています。
「曹仁」は「呂曠」「呂翔」に5,000の兵を与え、「新野」を攻撃させました。
『劉備』軍は2,000の兵で立ち向かいました。
『徐庶』の指示のもと、「呂曠」は『趙雲』に、「呂翔」は『張飛』に討ち取られ、「曹仁」軍は「樊城」に逃げ帰りました。
この敗戦の報せに激怒した「曹仁」は全戦力を「新野」に向かわせました。
『徐庶』は「曹仁」の陣形を“八門金鎖の陣”と見破り、『趙雲』の騎兵隊を突入させて粉砕しました。
その夜、夜襲に出た「曹仁」軍ですが、それも見破られ、逆に「樊城」を『関羽』に奪われ、やむなく「許都」に軍を引き揚げたのでした。

三国史跡紹介・其之三十五~新野(未到達)
『劉備』が約7年間駐屯した「新野」にも史跡が残っています。
「漢桑城」「漢議事台」「掛剣樹」「新野文化広場」「漢文化街」などがあります。
どれも「新野」の中心から近いと思うので、市内地図さえあれば楽に行けると思いますよ。
   …以上

『劉備』軍に『徐庶』ありと知った『曹操』は、『徐庶』を自身の陣営に迎えたいと考えました。
『徐庶』の弱点は母親思いという点です。
『曹操』の幕僚「程」は『徐庶』の母親を人質にとり、「そなたが来てくれなければ殺される」というニセ手紙を『徐庶』に出します。
驚いた『徐庶』は『劉備』のもとを去り、「許都」へ向かいました。
去り際に『徐庶』は『諸葛亮』を『劉備』に推薦し、『劉備』が『徐庶』に呼びに行かせようとすると『徐庶』は、「あの人は、こちらから行けば会えますけれども、無理に連れて来ることは出来ません」と言い残して去りました。
「許都」で『徐庶』は母と再会しますが、母は『徐庶』の顔を見るなり、「良い主君(劉備)を得たと思っていたのに、主君を捨てるとは何ごとですか」と叱りつけ、自ら命を絶ちました。
その後も『徐庶』は「許都」に留まりますが、ほとんど『曹操』には献策せず「234年?(生年不詳)」に「彭城」で病死したと記されているようです。

三国史跡紹介・其之三十六~徐母墓(詳しくは2008年4月29日のブログを参照してね)
その『徐庶』の母の墓が「河南省許昌市許昌県蒋李集鎮劉庄村」にあります。

この近くには「歇馬殿」もあります。(中には「徐母殿」もあります)

その「徐母殿」の中の『徐庶』の母の塑像です。
アクセスは「許昌汽車南站」から「301路バス」の「繁城」行きに乗り「劉庄」の入口で下車します。
でも俺は道路工事で「301路バス」が運行してなかったため、「3路バス」で「蒋李集鎮」で降り、「輪タク」を拾い「歇馬殿」に行きました。
到達難易度は「C」かな…一応「輪タク」とかも拾えるし、「301路バス」があればもっと楽に行けただろうし。
   …以上

『徐庶』が去り、『劉備』『関羽』『張飛』は『諸葛亮』を得るために「隆中」に向かいます。
しかし2度までも『諸葛亮』は不在で、3度目にようやく在宅していたものの、『諸葛亮』は昼寝の最中でした。
『劉備』は長い時間外で立ったまま待ち、ようやく面会が叶いました。
『張飛』は外で待っている『劉備』を見かね、「俺が叩き起こしてやる」と息巻きますが、『劉備』が制止したのです。
そして『劉備』と面会した『諸葛亮』は「今、この国は『曹操』と『孫権』が強大になっていますが、『曹操』は対等に戦える相手ではなく、『孫権』は敵対してはならない相手です。貴殿は『孫権』と手を結び、“荊州”と“益州”を手に入れなさい。さすれば『曹操』『孫権』と将軍とによる天下三分もかないましょう」と語りました。
これが“天下三分之計(隆中対)”と呼ばれる策でした。

(写真は山東省臨沂市沂南県にある「諸葛亮文化旅遊区」内の「諸葛茅廬」にある塑像です)
しかし『諸葛亮』は『劉備』に“天下三分之計”を説いたものの、“晴耕雨読”の生活を続け、仕える気は無い…と。
涙ながらに国の乱れを憂う『劉備』に打たれた『諸葛亮』は『劉備』の力になることを決意したのでした。

三国史跡紹介・其之三十七~古隆中(詳しくは2008年2月3日のブログを参照してね)
“三顧の礼”の舞台となった『諸葛亮孔明』が隠居していた「古隆中」は「湖北省襄樊市襄城区隆中路」にあります。

「襄樊站」前から「512路バス」に乗り「終点」まで行きます。
およそ45分で着きますが、バス下車後は門まで10分くらい歩きます。
入場料は40元です。
到達難易度は「C」かな…市内じゃないからね。

三国史跡紹介・其之三十八~南陽武侯祠(詳しくは2008年2月2日のブログを参照してね)
「古隆中」の他に“三顧の礼”の舞台と言い伝えられているのが「南陽武侯祠」です。
所在地は「河南省南陽市臥龍区臥龍路」です。

入場料は40元です。
俺はタクシーで行ったけど「南陽武侯祠」は市内にあるので、地図があれば「路線バス」で行けるでしょう。
到達難易度は「D」ですね。
『諸葛亮』の隠居地って考えると、やっぱ「南陽武侯祠」より「古隆中」の方が「それっぽい」感じがします。
しかも「河南省南陽市」は当時『曹操』の勢力下でしたしね…。
   …以上

次回「第九巻」では、“三顧の礼”で『諸葛亮』を得た『劉備』ですが、「新野」に『曹操』軍が迫って来ます 

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