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記憶の中の風景

忘れられない場所、忘れられない季節、忘れられない時間への旅
80%の事実と20%の創作……

Passage’84 秋(9)守矢神長官家で(1)

2012年05月10日 | 小説:Passage
 洩矢神社の撮影と対岸の藤島神社の撮影を済ませた。藤島神社は、祠と言っていいほどの規模のもので洩矢神社よりもさらにじっと小さく佇んでいた。僕の推論が正しいとは言えないが、膨大な年月が過ぎ去っているとはいえ扱いが小さすぎ、史実から遠いところにあるように感じた。捏造された歴史というものは、カタチを残しにくいものだという証しかもしれない。もちろん、出雲族が諏訪にある時期に入ったことは間違いにない歴史的事実だと思う。
 越の国の糸井川沿いを従順に南下し、白馬から飯綱山を越え、善光寺平に館を構えしばらくしてから現在の篠ノ井線に沿って諏訪に入ったという説や、安曇野まで下り、松本、塩尻を通り諏訪に入ったという説がある。問題はどのようなカタチで入ったかだ。
 そして僕は数少ない知識の集積とけして豊かではない想像力と、稚拙と思われても仕方がない思考から、洩矢一族と従う諏訪の民が、出雲の落日の王子を受入れたのではないか、という緩やかな融合を仮説としたわけで、それは必ずしも大国主神の二男である建御名方神という特定の個人である必要はなく、むしろ特定の個人であってはならない。
 古事記に記されている神話の世界は、すべて象徴だからだ。象徴から歴史的事実を探る。僕たちは今それを諏訪でやろうとしている。もちろん武居さんと高木さんの手を借りることを前提としていた。
 
 武居さんとの待ち合わせには、まだ時間があったので、岡谷のコウモリ塚古墳とスクモ塚古墳を見に行き時間調整することにした。見たい古代史跡はたくさんあるが、洩矢神に確かに関連する歴史遺産を取材する予定しか立てられず、それも洩矢神に関わる史跡は数多くあり、その中のごく一部に限られていた。だから、こうして空き時間があれば近くの史跡を訪ねることにしていた。
 「圭ちゃんの趣味は古墳巡りもそのひとつよね」と星川さんは訊いた。スクモ塚古墳は、中山道(国道20号)の街並みを少し北に入った長閑な風景の中にあり、小さな公園のように、風景の中に馴染んでいた。すでに墳丘部は削り取られ、石碑が古墳跡であることを知らせてくれるだけだ。
 「そうだね」と僕は言った。「群馬は東日本一の古墳王国で、高崎にも有名どころの古墳がたくさんあって、環境も影響していると思うよ。それに上手く言葉で言い表せない興味がある」
「でも、趣味でここに来たわけじゃないでしょ?」
「もちろん」と僕は言ってカメラを構えた星川さんを見た。「ひとつにはなるべく多く古代遺跡を見たいと思っているからだよ。そこに必ず諏訪の古代を探るヒントはあるはずだし、僕の考察を強化するためにも必要なことだからね」
「なぜ古墳なの?」と星川さんは同じアングルでシャッターを何度か切り、撮影ポイントを変えるためにさらに古墳に近づいた。
「なぜ古墳を選んだかと言えば、諏訪では前方後円墳が1基しか発掘されていないんだ。発掘が進んでいないのではなくほとんどないのが実情で、飯田・下伊那地方が前方後円墳の宝庫であるのに対し対極にある。このことは何を意味しているかと言えば、元は大陸から伝来されたものと考えられる、馬と馬具を操る技術を当時集中的に手にしていた大和王権との関係の濃度の違いだと思う。
 つまり、飯田・下伊那地方は中央の大和王権と密接な関係があるが、ここ諏訪では極めて薄い関係でしかなかった。このことは、諏訪が未開の地なら話は別だけど、早くから切り開かれた極めて文化程度の高い地であったことと、当時の支配形態である祭政一致を考えると、ミチャグチ神とその祭主である洩矢一族の力が、中央の影響力を受け入れなくても成り立っていたことを意味していると思う。というかむしろ中央の文化流入を阻めるくらいの力を持ち、中央の支配力が及ばなかったのではないかと考えているんだ。だから、こうして時間調整している時、近くに古墳があれば、見ておきたいと思っている」
 星川さんは僕の話を聞きながらシャッターを切る。僕はそんな星川さんを見ながら話を続ける。
小さな目立たない古墳だが、僕の企画にはその大きさ以上の意味を持っている。
 「関東の古墳事情を考えるとこのことはより一層明白になると思う。古墳時代は東北の南部まで大和政権の力が及んでいることは、前方後円墳の分布で解る。大和から諏訪よりも遠い古代群馬の上野、古代栃木の下野や埼玉を中心とする武蔵、さらに房総、常陸といった関東では、大きな前方後円墳も多く、大和政権との密接な関係があったことは明らかで、その関係は既に従属関係にあったと言っていいと思う。もちろん、それだけの古墳を作ることができる財力と技術と勢力を保持した、独立した豪族たちの支配が第一の支配のわけだけど、朝貢し何らかの地位を授けられていたことも明らかだよね。
 つまり大古墳時代の6世紀には、大和政権はほぼ関東以西に力が及んでいた。しかしここ諏訪では古墳の出土状況から言えばそんな気配が感じられない。なぜなのか、というわけなんだ」
「ますます、圭ちゃんの推論が強化されるわけね。小さな既に壊れてしまっている古墳を見ることで」
「そういうわけなんだ」
 僕たちは、その足でコウモリ塚古墳とまだ時間があったのでその先にある唐櫃石古墳を取材した。コウモリ塚古墳は、崩壊の危機に瀕し、墳丘に雨を避け崩壊を免れるための片手で持てるくらいの土嚢が敷き詰められるように置かれていた。痛々しくもあり、寂しさが周りに漂っていた。
 唐櫃石古墳は、ほとんど原形をとどめ、スクモ塚が公園化し、コウモリ塚が瀕死の状態にあっただけに、その姿に安堵した。もちろん造られた当時の姿ではなく、荒廃れた状態から復元したものだろう。そのことは、石室入り口側の石積みの具合や二段の墳丘に残る葺き石や、周溝の様子からも判った。残すことの重要性を考えれば、こうして復元整備することはとても大切だと思う。自然のままに風化、荒廃させてしまうことはあまりにも忍びない。
 僕は撮影を星川さんに任せ、その時気に止まったことや感じたことをフィールドノートに書いた。アシスタントの時は、部屋に戻ってから書いていたが、自分の企画では物足りなく感じたし、特にこの企画では、僕が書かなければならない。不安だらけだ。はたしてまともな文章が書けるのかどうか、不安を解消させるためには、書くための材料があった方がいい。それも質が良ければなおいいに決まっている。僕は質と量を求めながら取材の対象とそこにある光景を見つめて感じたことを書いた。
 「終わったわよ」と星川さんが微笑みを向けて言った。杉と松が混生した林に秋の午後の光が薄く湿った地面に届いていた。
 さて、時間だ。武居さんへのロングインタビューへ気持ちを切り替えた。


Stormy ~ Santana


守屋山へ向かう緩やかな裾野に数段の古い石積みで小高く盛られ、簡素な欄干を設えた場所がある。石段は擦り減り、平行を失い傾き時の流れを感じる。ミチャグチ神を祀る社は石積み以上に簡素で寂寥感を漂わせている。境内に古木が4本寡黙に佇み、いちばん大きな木はカヤの木と思われ、栗の木と諏訪では重要な意味を持つカジの木が、遠いこの地を見つめているかのように泰然とした趣を見せている。それぞれの木が作る日影が交わり大きな日影を作っている。そしてここにも凛と立つ高さ2mほどの4本の御柱がある。
僕たちは、守矢神長官家の庭のイチイの生垣の外側に守矢家で用意していただいた椅子に腰かけ武居さんのインタビューを始めている。
僕は、ふとその日影を見る。身体の内側で洩矢神の実体が次々に構成されているからだろうか、その影がまるで洩矢神の影のように見えた。
 武居さんの背景はよく手入れされた庭木が配された、守矢家の私生活の場がある。二階建ての漆喰壁の古い民家。大きな入母屋造りを覆う赤いトタン屋根。そして庭のとのコントラストに清楚な白さを施した土蔵。
 この庭に入るまでに、やはり手入れされた生垣が両端に並ぶ石畳を歩いてきた。どことなく北鎌倉の古刹を歩いているような感じがした。北鎌倉を歩いた体験が深く刻印されているからだろうか、つい重なってしまう。石畳が導いてくれた古い門の脇に『神長官家守矢』とだけ彫られた自然石の碑。
 門を入り左手には一子相伝で行われた祈祷や神長官として受け継がなければならない数々の事柄が、深夜火のない祈祷殿で口伝により伝えられたという。その中には、古代の諏訪の姿も含まれていたと思う。そうした口伝による一子相伝は実に判っているだけでも76代に及び、明治維新の国家神道化政策で、日本中の土着信仰が邪宗として排斥されたのと同じようにミチャグチ神も排斥され、建御名方神を主神とする諏訪大社もまた一神社と位置づけられ、中央から神官が派遣され、守矢神長官もその職を剥奪された。これは日本の歴史と土着信仰への最大の侮辱と排斥と不利益を与えた愚策だと思う。しかし守矢神長官家の歴史は、神代から続きていると言われる出雲大社宮司、出雲国造家である千家84代に続く。この歴史的事実は変えようもなく、このことを考えると守矢神長家もまた神代からの歴史が伝えられた一族だと推察できる。

 「竹中さんの建御名方神の諏訪への侵入の仮説は、わしの推論とほぼ同じだから、その辺りはあなたが上手くまとめてくださらんかね。この前お会いした時に話したことも含めれば、よりいっそう仮説が強化されるだえ」と武居さんは言った。武居さんは、以前よりも髪を幾分長めに整え、ブラウンのフラノのズボンを穿き、葡萄色のシャツとグリーンのカーデガンを重ね、ズボンよりも少し明るいツイードのジャケットを合わせた温かそう恰好だった。そのセンスを星川さんが褒めると「なあに、あるものを適当に重ね着しただけの着たきり雀じゃよ」と言って笑った。
 僕にはインタビューの仕事があり星川さんには撮影の仕事があった。僕とすれば、星川さんにも武居さんの話を聞いてもらいたい気持ちが強かったが、なかなか上手くいかない。
そんな僕のジレンマを察したのか、「写真を撮るポイントを教えよう」と言って武居さんは立ち上がった。「歩きながらでも話せる具合のいいマイクもあるようだし、説明を兼ねて少し歩いてみるかのう」
 武居さんは、石段に立ち御射宮司社について語り、南に見える尾根の頂の守屋山について古墳の前で語った。守屋山は諏訪大社のご神体とされている山だ。だから諏訪大社には本殿がない。星川さんは、三脚をそれぞれのポジションに決めてシャッターを押す。首に掛けたカメラでもここで感じることを光景とともにフィルムに記憶させる。撮影の中でも武居さんの話しが続く。
 「神長家裏古墳と言われているこの古墳は、守矢家の伝承によれば物部守屋の次男である武麻呂の墳墓と言われておってのう、物部守屋が蘇我馬子に敗れた際に、武麻呂は今の守屋山に逃れたそうじゃ。そして武麻呂の子孫が守矢一族ということになっている。杖突峠を下る途中に守屋神社があるが、守屋山の山頂にある祠を奥宮とすれば、拝殿ということになる。今は見る影もない小さな社殿だが、床下には竪穴式の石窟があって、昔は石棒が収められていて、ミチャグチ信仰の強い影響を受けていることが解る」
「史実としてはどうなんでしょう?」と僕は訊いた。
「おそらく物部に守矢のゆかりはない」と武居さんは古墳の石室入り口に見える天井石を見つめていった。
「全国いたるところにある平家の落人伝説と同じで、落人の素性が高貴であるほど、そこに住む人たちがそれを上手く使おうとするのが世の常だえ。ここ諏訪でもそんな話しになったんじゃろう。わしの考えでは、諏訪には洩矢神あり。縄文の自然崇拝を色濃く残すミチャグチ神を祀り、政(まつりごと)として治めた洩矢一族じゃ。やがて、滅びゆく出雲の高貴な一族を迎え入れ、その高貴性を利用して、自らは自由に生き神様を操れる神長官として実質的にこの地を治めてきたんじゃ。しかしやがて天津系の一族は、出雲を中心とする西日本の土着の豪族を従えて、大和政権が生まれ、東日本でも勢力を伸ばし始め、ここ諏訪にもその手が伸びてきた。
おそらくその頃のことじゃろう。敗れはしたが、古代最大の軍事氏族の物部氏じゃ。その名声は中央でも地方でも大きな意味を持っておる。そこで丁未の乱で死んだか行方不明になった武麻呂が諏訪に落ちたという話を作り、中央の大和政権に対抗しうる血統として創作した、というのがわしの推論じゃ。
 なぜ、武麻呂が落ちたのに守屋山なのか。守屋神社なのか。それよりも遥か以前から、諏訪では洩矢山であったと考えるのが自然だと思わんかね。諏訪湖を一望に見渡せる、自然の恵み豊かな諏訪湖の南の山々が、狩猟採取民族だった洩矢一族と諏訪の民にどれほど貴い存在であったか容易に想像できるはずだえ。
たしかに関東甲信では物部一族は広範囲に勢力を持っていたが、そのほとんどはこうした創作の上にできた歴史だとわしは思うがな」
「そうですよね」と僕は言った。「武麻呂から始まる一族だとすれば、建御名方神と戦ったという話はまず成り立たないし、神長官家の歴史も大幅に修正されることになり、諏訪の歴史自体がおかしなものになってしまいますね」
「でも6世紀から7世紀の大和朝廷は、諏訪の歴史を修正させ、血統の始まりを事実よりずっと新くさせるほどの力を持っていた、ということにもなりますね」と星川さんは、古墳に向けたファインダーから視線を僕と武居さんに向けて言った。
「そのとおりだえ。その頃大和政権から神長官家に対して正式に諏訪大社の主神を建御名方神とする通達が来た。そのことに関して守矢文書の中に“朝廷から強要された国祭を行う祭場である本宮を新設する時に、祭神を建御名方神することを受入れた”というふうに書かれている。
 それまでは前宮だけあれば神事は事足りたわけで、あらためて国の祭りをする場所を作れという強要があった。そこで祀るのは、土着神のミチャグチではならず、古事記に記した建御名方神でなければ都合が悪いわけだえ。そのくらい大和政権の力がここ諏訪にも及んだ時期で、しかし諏訪の民と洩矢一族は、実にしたたかにそれを受入れ、実際は前宮のミシャグジ神の神事を中心にしていた。という事実がある。そのことは、御柱祭と御頭祭が、今も諏訪で最も重要とされている神事であることで推察できるだえ」
「ということは、建御名方神的な出雲の一族の末裔を生き神としたのは、建御名方神が諏訪に入ったと言われる神代からずっと下がりるわけですね?」
「そういうことになるのう」と武居さんは言って西の方角に向って歩き出した。
ピンマイクは武居さんにジャケットの襟に着け、レコーダーはポケットに入れられている。僕は小型の集音マイクを手に持ち武居さんの傍を追うように歩いた。星川さんはその後を、三脚を担いで歩いた。
「その認識は僕にありませんでした。そうか、諏訪の魂を護るために実を取ったわけか」
「そういうことになる。その建御名方神の末裔とされている神氏と言われ、生き神さま、大祝(おうふぉうり)一族の御廟があそこだえ」と言って前方を指差した。




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