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めるつばうのおもうこと

めるつはミーム機械としてばうを目指します。

真鶴

2007-07-13 14:13:22 | book
川上弘美。
この作家はとても現実的な感じのものを書くときと
こういった仄暗い”何か”を書くときがある。
現実と幻想がない交ぜになったような不思議な感覚。
しかもその幻想がリアルだ。幻想のリアル感。
矛盾するようであるが、これこそが幻視の本質ではないだろうか。

読み始めたときは”ついてくるもの”は霊?礼?
それとも自分自身?と思っていたが最終的には
黄泉路を案内するガイドではないかと思った。
黄泉平坂往還奇譚か。
途中は出口の無い感覚になり、少し気持ちが悪くなった。

真鶴と言う場所。伊豆ではないけれど、箱根でもないような
微妙な場所。どうしてここなんだろう。
なにかフラグは立っているのだろうか?
一度だけ箱根に行くときに少し遠回りして立ち寄ったことがあるが
記憶にはほとんど残っていない。
待ち合わせた友人が言うのにはとても良い、原生林ぽい
林があって岬への散歩道になっているそうだが
やはり”お林”はここのことだろうか。

この作家は距離感と立ち位置、関係値の書き方がなるほどと思わせる。
百を妊娠したとき、出産前、出産後、幼少期、現在、そして進行形。
それぞれの距離感。言葉に表せないその微妙な感覚を語らせると
とてもうまいと思う。
それは母親、失踪した夫、今の恋人の関係値もおなじで
時系列に並んでいるわけではないが、その時々の感触
そう、ふれてみた感触を感じさせる。
同じ愛おしいでもその時、その場所によって変化するものを
きちんと捕らえていると思う。

”にじむ”と言う言葉。身体(心)がその境界線、
絶対不可侵深度を緩めて、相手に心ならずも
寄り添ってしまう瞬間。私の身に添う感覚。
それは必ずしも人間である必要は無い。
ついてくるものでもいい。
私も時たまにじんでいると思うことがある。

そして前から思っていたのはセックス描写が
妙にリアル。エロティックではないがリアル。
そこに含まれる妄想をすべて排除した形で
表しているように感じる。あまりにリアルだ。

最後の言葉で「何も無いところから来て何も無いところへ
帰っていく」と。
無から出現して無へ変換される素粒子のような存在なのだろうか。


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