goo blog サービス終了のお知らせ 

チャリンコ逍遥

ポタリング・サイクリングの写真
音楽やピアノレッスンに関する雑感
写真:2013年5月京都 嵐山 渡月橋にて

小田野正之先生の思い出

2015年02月22日 | 若き日の思い出

先日、TVでジブリのアニメ「風立ちぬ」を何気なく見ていると

無性に小田野先生の事が思い出されてならなかった。

前列左より、伊藤教授・小田野教授・その真横に立つ4回生の僕

(かっ!髪が多い(泣))

後列の5人は小田野先生の声楽の生徒。

(4回生。皆、努力家で個性豊かな声楽の才能の持ち主。)

20数年前の写真。この時、小田野先生の生徒5人と僕のピアノ伴奏で

シューマン「流浪の民」等を演奏。

創価大学時代の恩師は指揮者の伊藤栄一教授なのですが、

伊藤先生に師事する前の2回生より、学内で教えを受けていたのが、

声楽の小田野正之教授でした。

きっかけは、大教室のピアノを休憩時間に弾いていると、

小田野先生の生徒(4回生)に卒業演奏試験の伴奏を頼まれ、

「私の伴奏も!」「私も!」で結局3人の伴奏をすることになった。

卒演試験当日まで毎日学食の「お昼ごはん」をおごってくれる好条件で(笑)

やさしいお姉さん方と毎日、練習やランチなど、楽しいひと時だった。

小田野先生の前で初めて伴奏を弾いた時、(20数年前ですが、)

課題曲は、今でもはっきり憶えています。

トスティの歌曲「Ideale(=理想の人)」

参考動画 (イデアーレ)

4回生ソプラノの伴奏を、緊張しながら懸命に弾き終えると、

先生はにこやかな笑顔で(当時の僕の未熟な)伴奏をほめてくださり、

ほっとしたのも束の間・・・・

そのソプラノの生徒には、それはそれは厳しい指導が飛び交った。

不甲斐なさにボロボロ泣きだす生徒。

(卒業試験の課題であるから、厳しいのは当たり前だが・・・。)

(よく「厳しい」を、単に「ヒステリックに」「感情的に」と勘違い

してるような音楽指導者をよく見かけるが、小田野先生の「厳しい指導」

は全く正反対 もっと深く高い次元から厳かに穏やかに・・・

でも一言一言が深く「グサッ」と突き刺さるんです。(泣))

そのあと、小田野先生は教授室のアップライトピアノに腰掛け、

みずから弾き語りで「Ideale」を独唱された。

普通、「木漏れ日」や「さざ波」のようなこの曲の右手の伴奏が、

まるで「大海のうねり」のように、雄弁に!

左手はバスの名歌手のように朗々と響き渡る。

・・・・こんなすごい伴奏、いままでレコードでも

コンサートでも聴いたことがない。

アップライトが「大きくうねる」ような響きを奏でる。

さっき僕が弾いていた同じピアノとは信じられない。なんと深く豊かな音色。

それにもまして、素晴らしいのは、

小田野先生の本物の「ベルカント」唱法

ご高齢にも関わらず、その声量!深み!

僕は聞いている間、震える感動と自分の未熟さ、両方の思いで唇を噛み、

必死に平常心を装い、あふれ出そうな涙をこらえるのに精一杯。

でも・・・厳しいレッスンが終わると、

小田野先生も、4回生のお姉さん達も、僕も

皆一緒に談笑。「お茶タイム」♪

以来3年間、卒業するまで、小田野先生の生徒の伴奏を度々引き受ける事で、

伴奏以外にも、合唱指揮など色々と貴重なご指導・薫陶を受ける事ができた。

「歌う」「心で歌う」事はピアノ奏者も声には出さないが、

音楽家には第一義に大切な事。

先生の学生への声楽の指導は、僕にとっても大変勉強になった。

卒業式当日、なんと小田野先生から、手書きの貴重な書類

『純正律による合唱指導法・練習方法』

これは、小田野先生が、斎藤秀雄=小澤征爾の師匠 から直伝の演奏法)

を、わざわざこの僕にくださった。

伊藤先生も小田野先生も

どこまでも、優しく学生を慈しんでくださる先生であった。

残念ながら、ピアノは人工的な濁りのある調律方法「平均律」であるので、

濁りの無い「純正律」演奏は無理であるが、

もしも合唱を指揮する機会があれば

役立てたいと思う。(多分一生無いと思う。(笑))

「トーサイ」と呼ばれる指揮法の大先生・斎藤秀雄

怠慢な学生にスコアを投げつけるほど厳しい指導だったらしい。

小田野先生は、僕が卒業した3年後、逝去された。

先生に薫陶を受けていながら、中学の頃より真剣に目指した

「指揮者兼ピアニスト」にはなれませんでしたが、

なかなか練習しない子供のピアノレッスンに悪戦苦闘し、

「妖怪ウォッチ」などアニメの歌などを4歳の可愛い生徒相手に弾く僕の姿を

先生はきっと、天国からにこやかに見守ってくださっているに違いない。

よく小田野先生ともう一人音楽好きの学生の3人で、

お酒を飲みながら音楽談議をさせて頂き、

いつしか深夜、そのまま3人横になりながら、

僕と友人はすっかりお酒でうとうと・・・

先生が涙ながらに語られる特攻体験や、

ご戦友のお話を(不肖)夢見心地で聞いていた。

かけがえのない思い出の一つ一つである。

小田野先生はよく学生に自らの「特攻」体験を語られていた。

先生にとっては、「重い心の十字架」のような体験を、

あえて僕たち当時の若者に語られた真意は

1992年付けの学部内の発行冊子に、

「戦中派の青春」

という随想原稿において明らかである。

その随想の最後に先生は、

「私にとって特攻体験は正に原体験ともいうべく、それを契機に、

戦争とは、人間とは、生きるとは、と考え行動し続けている。

反戦平和」は心からの願いだが、

世界は今、冷戦構造は崩れたといえ、

民族主義国家がその存在を強く主張し、

地球上紛争は絶えない。

「戦争」は歴史や文化のみならず、

人間そのものを破壊し去る。

今、平穏裡に学問・芸術を探求する諸君は、

社会や戦争の実態を深く知り、

力強く平和を創造して欲しいと心底より祈る。

「生き残り」というより「死に残った」という実感の強い私は、

戦死した数多くの友に代わって、

戦争の実態の「語り部」を生涯続けていこうと思う。

私は、特攻出撃時に22歳と2か月であった。」

・・・と締め括っている。

小田野先生が「特攻」で搭乗した 97式艦上攻撃機

同機2型

先生は、東京音楽学校(現・東京芸術大学)学生時代に「学徒出陣」で招集。

神風特別攻撃隊に着任

ゼロ戦などの戦闘機に800キロ爆弾を積み、

アメリカ艦隊に飛行機ごと突入する「生きて帰ることの無い」部隊である。

昭和20年5月10日「菊水6号作戦」として、串良基地より

先生は、ゼロ戦より一回り大きな攻撃機「九七式艦攻」で特攻出撃する。

その時の心情を先生は随想の中で、

「専門の芸術への未練も無い訳ではないが、なにより眼前の現実を直視すると、

肉親をはじめ、愛する人々が悲惨な目に遭うのを一日でも延ばせるなら、

また美しい国土を破壊から少しでも救えるなら、俺たちの死は意味があると、

既に突入戦死した友とも語り合い、自ら納得してきた。」

・・・と綴られている。

しかし、海上を飛行中、思いがけぬエンジン故障が発生し、敵地まで到達不能と

判断し、断腸の思いで800キロ爆弾を抱えたまま、予備機と交換に基地へ戻る。

戻ったものの使える予備機は一機もなく、

翌朝には機材不足で特攻作戦が継続不可能と

なり、串良基地の特攻隊は解散となる。

その後、比叡山山頂からカタパルトで

打ち出される有人ミサイル

「桜花」(おうか)航空隊に転属となる。

そこで和歌山沖に上陸してくるであろうアメリカ艦隊

に突入するべく、出撃を待つ内に終戦を迎えた。

「桜花」・・・人が操縦するミサイル。

因みに、当時の大日本帝國軍部の予想通り、

終戦直後、近畿で一番最初にアメリカ軍が大挙上陸したのは、

和歌山市の二里ヶ浜・次いで和歌浦であった。

当時3歳、二里ヶ浜に住んでいた僕の父は、

アメリカ軍が大艦隊の上陸舟艇で

上陸してくる様子を実際に浜で見ている。

上陸したアメリカ兵達(進駐軍)は

父ら子供たちにガムやチョコレートをくれたり

軍用水陸両用ジープに乗せて浜を走ってくれたり

気さくに遊んでくれたそうだが

祖母ら浜周辺の女性たちは

上陸当日は乱暴を恐れて

近くの山に集団で逃げ隠れていたそうである。

さんざん「鬼畜米英」と徹底教育されてきた

国民にとっては無理もなかろう。

もし上陸が終戦前であれば、

小田野先生も父も戦火に巻き込まれ、

僕自身の存在まで無かったかも知れない。

小田野先生から聞いた特攻体験の中で、

もう一つ強烈な印象に残っている事。

ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」にまつわる話がある。

小田野先生に戦闘機の操縦を教えてくれた先輩少尉が、

特攻出撃した2日後、

串良基地に特攻のため先生も赴任する。

宿舎に入ると、竹で編んだベッドの上に

すでに出撃した先輩少尉の遺品が積まれていた。

その先輩の鞄には、洗面用具と「田園」の楽譜一冊のみが入れられていた。

「田園」の第4楽章「嵐」に続き、

第5楽章では「嵐のあとの平和」が奏でられる。

その先輩少尉は第5楽章の楽譜を読みながら、

平和な日本を希求していたであろうと

思いを馳せると同時に、東京芸大まで進んでいながら、

特攻に際して、最前線に

楽譜を一冊も持ってこなかった自分を比べると、

先生はしばらく身動きできなかったという。

第5楽章 冒頭ページ (指揮者用スコア)

・・・・ベートーヴェンの交響曲の中では、

「運命」「第9」「第7」「英雄」に比べると

あまり人気のない曲ではあるが、

僕は、この先生の体験を聞いて以来、

「田園」交響曲の聴き方が大きく変わった。

この小田野先生から直によくお話を伺っていた「田園」に関する

体験を綴った先生の文章(書籍)を、数年前、偶然見つけた。

再び亡き先生に出会えたようで嬉しくてならなかった。

「いざさらば我はみくにの山桜」

という書籍に2ページほどであるが、

掲載されている。

(アマゾンで300円ほどで購入できた。)

巻頭のカラーページには、出撃前に小学校の講堂で

「月光」を弾く特攻隊員の絵が

痛ましく涙をさそう。

今現在、日本も集団的自衛権行使容認や

一党優位的体制。若者の政治的無関心。

相次ぐ若年層での殺伐とした事件。

世界でもテロや紛争が絶えない。

20年前の小田野先生の危惧そのままの状態が続いている。

小田野先生に関する文献は、

先生に師事した他の方の論文サイトにも書かれている。

論文(幼児教育に関する)

----------------------------------------
このブログ管理人のホームページ
中村ピアノ教室
https://sites.google.com/view/nakamura-piano


カナダ大陸横断

2014年07月06日 | 若き日の思い出

 



今から20年ほど前、
カナダ大陸(北アメリカ大陸)
を横断旅行しました。

バンクーバー(西)~
プリンスエドワード島(東)まで

約5,700キロ

学生だけに資金ぎりぎりの
超貧乏紀行でした。
(野宿は当たり前・・・・)

20年前なので
自分も今とは別人のようだ。
・・「若い」っていいなあ。

プリンスエドワード島
キャベンディッシュ村入り口にて

 

トラベラーズチェックに
手持ち資金も少ないので、
移動手段はもっぱら

徒歩ヒッチハイク高速バス列車

の優先順位である。

宿泊は基本野宿
(テント・寝袋 持参)

食糧はスーパーなどで
食パン・缶詰など


都市ではYMCAユースでの
雑魚寝部屋
ホテルなど一度も泊まりませんでした。
(というより資金面で泊まれなかった。)


バンクーバーからロッキー山脈の町
ジャスパーに到着

バンフより北に位置するジャスパー

とても小さな町で
ロッキー山脈のまっただ中
周りに大小さまざまな湖が多く

とても美しい自然に囲まれている。 

帰りの航空券を買う
お金を残しておくため
 
また、都市での楽しみ
「珍しい楽譜を購入する」
ために極力野宿する。

(今みたいに輸入楽譜を
ネットで気軽に探して
購入できない時代でしたよ。)

      
ロッキーは国定公園なので
「キャンプ禁止」だが
仕方なく森の中で野宿


熊が多々出没する
危険な場所なので
(ホント危険な場所です)


食べ物やごみは
テントから最低50メートル
離した木にぶら下げておく。

「アメリカ軍サバイバル教本」
持ってきてよかった。
山中での野宿に結構役立ちました。

夜中のロッキー山中
体の芯までくるような冷気
孤独な静寂は強烈に
印象に残っています。

飲み物・食糧が切れたときは
次の町まで移動。

ヒッチハイクは
荷台つきの乗用車を狙えば
たいてい(荷台に)乗せてくれる。

ヒッチハイクは「荷台つき」
・・・・これ原則。
(写真右端の青い車など)

日本のようにコンビニや
「道の駅」が一件でもあれば
どんなにありがたいか。

約70キロの間
まったく店舗・人家存在せず。
もちろんジュースの自販機も無い。

ジャスパーから次の町
ヒントンまで約60キロを徒歩で。
(和歌山市~大阪難波の距離)

途中「嵐」のような大雨に遇い
さすがに身の危険を感じました。

その時は夜も9時を過ぎ
食糧尽きた中
野宿覚悟でしたが
ヒッチハイクで救われる。

乗せてくれた若い女性ドライバー
パトリシアさん
(ジャスパーの湖と同じ名前だ)
命の恩人の顔は忘れられません。

おもさ20キロほどあるリュックを背負い
ロッキー山中をひた歩きます。

日本から持ってきた
ラフマニノフとブルックナーの楽譜は
孤独な旅での唯一の慰め。

音符中毒なので
山中ではむしょうに
ピアノが弾きたくなる。

 

どこの街角かわすれましたが
第2次世界大戦中のアメリカ戦車
シャーマンの実物が!!!

シャーマンの実物を触れてテンションUP!

 

どこの駅か忘れたが
深夜2時ごろだと思う。
駅のホームで寝泊まりは何度も。
(こなれたもんだ・・・)

ホームレスのかたから
同じ境遇かと誤解され
親しく話しかけられる事しばしば。

 

線路なんか歩いて「裸の大将」みたい?

ナイアガラの町

はたして滞在期限内に大陸横断できるのかなあ~?

♪~ケ・セラ~セラ~♪

 

トロント郊外の墓地で尊敬する大ピアニスト
グレン・グールドの墓に参る

グールドの衝撃的デビュー録音で
また奇しくも最後の録音でもある
バッハ「ゴールドベルク変奏曲」
のアリアのテーマが刻まれている。

石碑は知らないと
うっかり見過ごしそうな
小さなものだ。

仰々しくないのが
いかにもグールドらしい。

リスペクトするグールドの墓に
バッハ「フーガの技法」の楽譜を供える。

フランス語圏の ケベック州から
カナダ大陸東海岸に。
フェリーでプリンスエドワード島に渡る。

シャーロットタウンでは、
日本で言うところの「民宿」
のような老夫婦のお宅に宿泊。

そこで日本から単身で
旅行に来ている多くの若い女性が
泊まっているのに驚いた。

久しぶりに多くの日本人に
出会えて1週間とても楽しかった。

(今までトロントやエドモントンの
YMCAやユースでは最悪な男だらけの
相部屋で非常にむさ苦しかったが
うって変わって天国のよう・・・・(笑))

1週間ほどシャーロットタウンに滞在し、
そのあとバスでキャベンディッシュ村に移動。

おじいさんが運転するロンドンバス
に乗ってキャベンディッシュ村へ
宿泊先の「B&B」前に来ると
おじいちゃん運転手が
「OK!ジャパニーズ・ガイ!着いたぜ。」
とマイクでアナウンスしてくれる(笑)

キャベンディッシュ村入り口。
赤毛のアンで有名な村だ。)
土壌も赤褐色。

キャベンディッシュ村で滞在した「B&B」。
牧場のお宅で、皆とても親日的で親切。

キャベンディッシュ村では、
皆出会う人が素朴で親切。
ヒッチハイクもすぐ乗せてくれる。

生まれてはじめて
大西洋を見ました。
感動

夜10時でこの明るさ!

・・・・まだ他の写真整理中ですが、とりあえずブログ投稿。

 

----------------------------------------
このブログ管理人のホームページ
中村ピアノ教室
http://www.eonet.ne.jp/~bewood/