今、ジェームズ・スーズマン著『本当の豊かさはブッシュマンが知っている』(NHK出版2019)を読んでいる。
人類学の本であるから、ドキュメント部分が冗長な気がしたが、それは読み物としてみれば、当然である。内容について詳しくは記さないけれど、題名が示唆するように、労働を含む現在の我々の生き方を照らしてくれる。何が豊かということなのだろうか?
消費すること、自由に買い物することが豊かさであるというのが、どうも現代では信憑されていると思う。そもそも現代の土台になってしまっているから、疑問も持たない、ということだろうか。
ちなみにブッシュマンの労働時間は週15時間だそうだ。僕たち現代人は何時間だろうか。とりあえず8時間
✖︎週5日とすれば、40時間。ブッシュマンより随分労働時間が長い。ブッシュマンが余った時間、何をしていたのかも想像できなくなっているのではないだろうか。真の余暇を過ごしていただけだろう。
そういえば、江戸時代の町民の生活を振り返る本を読んでいたら、1日4〜5時間働いて、あとはのんびりしていたらしい。産業革命以降、産業革命は労働時間を長くして、工業生産物を大量生産して、安い商品を作っただけであった。
その意味で経済構造の近代化は人間の生き方を労働に仕向けただけであった。1950年代にはガルブレイスが「豊かな社会」と言ったが、「豊か」とは「モノが溢れている」という意味でしかなかった。真の豊かさを問い忘れてきたのだ。スミスもマルクスも「豊かさ」の哲学はあったのだろうか。
哲学者のラッセルもまた、近代が労働時間を長くさせ、人間の真の自由を忘却させることを指摘していた。だから皮肉としてなのだろうか、そこに真意が組み込まれていつのだろうが、「怠ける」「暇」の意味を探求していた。
なんだか消費する時、買い物することになるのだろうが、ひっくり返って労働しているような気がする。へとへとになる。余暇だって、メディアが提供する物事、事物、現象を追っかけるだけであるから、観光なんて、労働のような気がしてくる。観光もまた消費である。
もう十分「持っている」のに、「まだ欲しい」という回路は、労働させるための仕掛けにすぎない。
そして、そういう時代を生きている、そういうことを自覚してしまう。