「大地」としての結びつきこそ、この場合、夫婦としての土台なのです。しかも、不思議なことに、この土台は二人があまりに酷い人間でなければ、結構いい「大地」を耕してくれるものです。
少し説明は難しいのですが、「大地」を耕す文化資本、文化能力をたいていの人間はもっているものです。文化資本、文化能力というのは難しい言葉ですが、簡単にいえば、コミュニケーション能力とか、他者と一緒にいることができる人間力程度の意味とでも思ってください。僕はこのような文化能力を常識と考えます。実際常識の内実はなかなか難しいですが。
とすれば、女は「でも夫婦なんですもの」と二人の関係を認識し、「大地」に根ざしていることを感覚的に気づいていたのかもしれません。ゆえに、夫婦であると主張し、夫婦であることの人間としての幸せに気づく文化能力があったといえます。
一見すると、不幸せに見える女が「大地」に根ざす幸せを知っている――人生のパラドクスがあるように思えます。
それと比較して、男はその幸せに気づかずにいた。妻が先に逝き、妻の言葉を読むことで、そこに幸せがあったことに気づき、さらに気づいたことが遅いことに気づき、悔いるわけです。生きているうちに気づくほうがいいとは思いますが・・・どうも、男はそのことに気づかないようです。
家に金を入れてやって、食わせているという「大地」の上の方で起きる現象に気をとられてしまうのです。それゆえ、損得勘定として夫婦関係をとらえ、女からの贈り物に気づかない。もちろん、女からの贈り物とは、夫婦であることに根ざした「愛情(霊)」です。贈り物を受け取ったものは、それ以上のものを返礼する義務があるにもかかわらず、男は気づかない。男ってダメですね!!
「大地」としての人と人の結びつきは不可視です。普段気づいていないのです。ですから、人の結びつき、絆が強調されるのは、結びつきが失われているからでしょう。
テレビで家族愛が強調される演出を見るたびに、実は日本社会の中で、人と人の結びつき、絆でもいいですし、あるいは共同体意識や社会的連帯、それらの危機が背景にあるのではと僕は疑っています。
すでに家族の絆など失われているため、テレビという想像的領域で、その絆が成立している姿を見て感動する。想像の領域ですから、その絆が存在するか否かは別問題です。実は家族の絆が自明であるならば、特に感動することもないのかもしれません。一瞬の心理的昇華を味わい、元の生活——−家族の絆が壊れている、壊れかけている——−にただ戻るだけでしょう。
その意味で感動ポルノです。つまり「大地」にヒビが入っているということになってしまいます。この夫婦の夫状態と同じように思えてしまいます。失われて気づく妻の愛。テレビで演出された家族愛を見て、家族の関係性に思いを馳せ、感動する。同じ構造に思えるのです。