Drマサ非公認ブログ

南青山児童相談所排斥の声を聞いて⑶

 2011年の東日本大震災の時、強調される言葉があった。絆である。

 ただ当時絆が強調されるたびに、僕自身は違和感を持っていた。絆はあえて意識すれば作れるような関係性なのだろうかと。

 だから、メディアが絆を強調するたびに、絆のPRであり、日本人のナショナリズムに接合されるプロパガンダのように思えた。メディアだけではなく、特に有名人が絆という言葉を強調する時には、ビジネス臭がしたり、無知な大衆像の焼き直しのような気がしていた。

 おそらく、絆というのは人々がその中に位置している構造である。この構造の中で自分たちに何が可能であり、何が可能ではないかという範囲が決定されている、そのような関係性に名付けられたのだと考える。通常、そのような関係性は意識されない不可視なものである。

 だから、可視化され、意識されるのは、それが欠けている時になる。家族には絆がある。あえて単純化しているけれど、家族は普段から家族の絆を意識することはない。このようなあり方を絆であると考える。

 僕はよく使うのだけれど、このような不可視な、意識されない構造を大地と名付けている。大地は僕たちをいつも支えている。しかしながら、僕たちは支えられているというのに、大地を意識することはない。歩くときも、走るときも、生活自体を大地が支えているというのにだ。

 さて、そこで今回の南青山の児童福祉施設の問題に絆という不可視の構造を重ねてみると、児童福祉施設に訪れる子供と青山のブランド価値に固執する人々の間に絆はない。特にバッシングを受けている南青山住民にとって、彼らが重要視している価値意識は人と人の間にある絆ではなく、ブランド価値である。少なくとも、そちらを優先している。

 これは明らかに政治的な姿勢であり、排除の論理になっている。そこで、政治性を日本人的な価値意識で覆いつつ、自らの正当性を主張したのである。しかしながら、その本質は絆の拒否とさえいってもいいのかもしれない。

 2011年東日本大震災を振り返れば、絆が強調されたわけだが、結局のところ、日本人の中に絆が築かれてはいなかったと結論づけられる現象であった。これが日本という国の実態だということになってしまう。

 ただ、もともとの青山住人の皆さんが児童福祉施設建設を肯定的に捉えているとも聞く。そこにこそ救いがあるとも思う。

 今回児童福祉施設建設に反対した住人は、南青山で知り合う人間との関係が自身のビジネスなどを広げるのに有利だとも言及していた。そうすると、特に経済的な側面での社会関係資本になるのだろう。その意味で絆のような意味を持っているようにも思う。

 しかしながら、あえて社会的経済的な有利さを目的としているので、その意味で功利主義的である。功利主義的絆とでもいえばいいのだろうか。「あえて」作り出そうとする絆であり、不可視な構造としての絆ではない。脱埋め込み化(ギデンズ)された絆である。

 そこでは、社会的経済的利益以外は排除した絆であるから、先に取り上げた絆の性格からいえば、やはり絆ではないことになる。それでもなお、人間同士の触れ合いがいつの間にか不可視の構造としての、普段は意識されない絆を作ることもあるにちがいない。だから、今回反対している住人もまた、児童福祉施設の子供達と触れ合うことがあれば、結構仲良くなったりするのではないだろうか。そんなことを思ったりもするのだ。

(とりあえずこの項終わり)

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