Drマサ非公認ブログ

南青山児童相談所排斥の声を聞いて⑵

「南青山という一等地に児童相談所はふさわしくない」「紀伊国屋でネギを買う」「ランチ1600円」・・・成功や上昇志向への無邪気な信仰、僕はなんて品がなく、俗物(snob)なのだろうかと感じた。彼らが信じているハイセンス、ブランド、最先端の流行、それらの価値を至上とする、あるいは保守することに上流気取りを感じざるを得ない。

 そもそも社会的に有利な立場にあれば、それ自体が社会的責任を必然とする。ところが、彼らからノブリスオブリージュの精神が全く感じられない。実際はもともとの青山住民は受け入れに積極的だとも言われている。納得である。

 ここに品が生まれるというのに、彼らが信じる価値観に固執し、それが損なわれることを恐れているのだろう。その意味で、彼らは下層の人間である。ゆえに成り上がりの人が多いとの噂が出てくる。

 つまり、表面的な成功によって着飾るだけの人間ではないか。彼らこそオルテガの言う大衆である。自分を実際より大きく見えるようにしたいのだろうが、馬脚を露わしたのだ。ただ、この社会はこのような価値観を称揚してもいるのであり、僕たちもまた反省するいい機会でもある。

 SNSで「素敵なわたし」「おしゃれなわたし」「イケてるわたし」を表現して、そのあざとさや短絡さに対してバッシングがなされることがよくある。僕にはこのような価値意識に成功や上昇志向を加えながら、ブランド価値を保持するという隠れ蓑で表現されたのが今回の問題に見える。

 そもそもブランド価値だとか上昇志向は絶対的な価値ではないだろう。彼らの言説からはこのような価値への盲信があるということはないだろうか。

 どうも彼らは社会的に逸脱した少年への不安よりも南青山のブランド価値、それを身につけている自分たちのブランド価値が下がることへの不安があるということなのだろう。あさましいと思う。

 あさましさはやさしさで覆われる。

「お金がギリギリで、A小学校にいらっしゃるってなった時にはとてもついてこられないし、とてもつらい思いをされるんではないかな、ちょっとかわいそうではないかな、というふうに思います」

「(児童相談所などに)入られたお子様が、休日なんかに(外に)出ると、あまりにも幸せな家族、ベビーカー、着飾った両親、カフェなどでおしゃれにあれしている…そういう場面と自分の家庭を見た時のギャップというのをどう思うかっていうことを、私はすごく心配しています」

 これは「かわいそう」「心配しています」とあたかも子供の立場になった意見のようにも見える。しかしながら、このようなやさしさはパターナリズムである。パターナリズムは温情主義と言われるが、この社会意識を生成するのは家父長制的な構造である。つまり力を持つ父親が彼の温情として、その下の者たちに何かを与えることだ。

 だから、パターナリズムから発するやさしさは力のある者からその力の一部を与えられるという差別的構造にある。ここには力のある者が力のない者という二項対立的な構造があり、上位の者が下位の者に温情を施すことである。

 取り上げたこの2つの意見は南青山住人を上位の者として、下位の者である児童相談所に来る子供たちを見下している。その見下しは温情として行われ、上位の者は表層的にやさしさとして表現する。つまり、表層はやさしさだが、深層は見下しである。つまり、差別的意識が核としてあるわけだ。

 悪しき上昇志向は自分より劣っている者を探し出す。僕たちはこのような人間心理から逃れられればと思う。

 パターナリズムについては日本人の文化といっていいと思うので、いつか取り上げてみたい。

(つづく)

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