時事問題を論じるなんていうのは、僕の趣向ではないと思っているのだけれど、ちょっとだけ取り上げてみる。
自民党議員杉田氏の論文からはじまった騒動で、結局逃げるように『新潮45』が休刊となった。多分売れるための選択をしていたら、保守的というかネトウヨ的な言説を編集する企画になったというのが実態ではないかとも思う。なんせ売れるらしい。ただ真に保守的という位置づけには違和感がある。
杉田氏の論文が暴論でしかないのは今更なのだが、彼女は論文を「『常識』や『普通であること』を見失っていく社会は『秩序』がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません」と結んでいる。
彼女のいう「普通」や「秩序」は、結局誰にとっての「普通」や「秩序」なのか、それが問題である。結局それはマジョリティであったり、国家にとって都合の良い「秩序」を喧伝する人々ということになるだろう。そこからこぼれ落ちる人間は「普通」ではないし、「秩序」を乱す人間として排除される。LGBTはそういう存在だというわけだ。これは見事に排除の論理である。「普通」の主張はじつに政治的な言説なのである。
批判の中心は「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」という言説であった。人口や出生率に生産性という言葉を使うというのは流石に見たことはないのだが、じつはこのような言葉遣いを僕たちはしがちだと思う。
生産性という言葉はいうまでもなく経済的な用語である。論文執筆していると「そのいうのは生産性がないよね」などと批判される。僕たちが生きているこの世界を表現しようとすると、経済的な用語を使いがちだと思う。言葉のエコノミーである。
例えば、人材という言葉。僕はいつも違和感を持ってしまう。人間は材料だろうか。人間自体がそもそも目的であって、手段のように扱っていいのだろうか。人間が何かの材料だとすると、なんの材料だろうか。商売の、経済的利益のため、企業のためということだろうか。この理屈を拡大すると、学校のためとか、国家のためとか、人間が従属的で手段的な存在として位置付ける論理が拡大していくことになる。それはどこかで歯止めをかけておいたほうがいい。
子供を作ることを生産性という言い方をしたことにに対して、世の中がきっちり違和感を持ったのは至極真っ当であった。生産性は子宝とか子孫繁栄とは違う。繰り返しておくが、なんでも経済的な用語で世界を理解してしまうということにも問題があると思う。そのいう点から、僕たちも少しばかり反省しておこうかなと思ってはどうだろうか。
(つづく)