「政治は生きづらさという主観を救えない」
『新潮45』への小川榮太郎氏の寄稿文のタイトルである。一個人が今の世の中で生きることに対して「生きづらさ」を感じているのは、あくまで個人的なことであって、社会的なことではないと言っているのだろうか。同様だが、政治的なことではないと言っているのだろうか。なんだかよくわからない。
「個人的なことは政治的なことでもある」とフェミニズムがかつて主張したけれども、その意義を全面否定しようということだろうか。「個人的なことは政治的なことでもある」という認識が広がる前は、痴漢もレイプも個人的な問題とされていた。だから、そのような昔の認識が正しいとの主張なのだろうか。
ところで人間の生きづらさに政治が介入し、解決することはあるのだろうか。どんな人間でも生きづらさを持っている。人間の実存には生きづらさや悩みが纏わり付いている。僕は人間がそこから全て脱却することなどないと思う。だから仏教は人間の状態を四苦八苦とするし、悟りという理想状態を説く。
成績が上がらない、好きな人がこちらを向いてくれない、同僚より出世が遅れている、イケメンではない、姑が気に入らないという問題に政治が介入する必要はない。その意味では小川氏のいう通り、このような“個人的”問題に政治が介入し、救う必要はない。当たり前のことである。誰もが生きづらいのである。
レズビアンのカップルの一方が男性と結婚するので、別れを切り出す。そして別れることになる。そういう時の生きづらさは個人的なことであり、小川氏の言う「生きづらさという主観」である。政治はそれを救えない。
では、長い間生活を共にしてきたレズビアンのカップルの一方が死んでしまったとしよう。確かに、その死によってもたらせられる「生きづらさ」は政治が救えるはずはない。ただ相続問題が生じた時、制度的な結婚をしていなければ、相続は簡単に進まなくなってしまう。
それは結婚も相続も公的な問題だからだ。彼女たちは制度の壁に阻まれて、結婚できない。あるいは社会意識の問題として、同性の結婚を共同的に認められない。相続の手続きすらうまく事が進まない。そのために「生きづらさ」が生じる。
この問題は「主観」の問題ではない、公的な問題なのだ。この場合、政治が解決することができる。新たな法を作ればいいからだ。じつは結婚にしても、相続にしても、それらは家族という公的な存在を基礎とするのである。
小川氏の主張はこの公的な問題から生じる「生きづらさ」を「主観」という私的なものに封じ込めようとする政治的な言説である。「家族」という公から排除しようとしていると受け取ることができる。
つい先ほどレズビアンのカップルの一方が男性と結婚することを例として挙げた。この事例は「主観」であるとした。では、男性と結婚するという選択が世間的な体裁や女性が好きだけれども男性と結婚しなければならないとの考えからの選択だとすれば、それは社会意識から作られた選択であり、「主観」とだけ捉える事ができない力が働いていることになる。
だからこそ「個人的なことは政治的なこと」として、「個人」の問題としてのみ捉えることには疑問が呈されるわけだ。
LGBTに対して、法整備をすることによって、生きづらさを解消できるとしたら、それに越したことはない。近代社会は正統性を法に委ねる度合いの強い社会である。結婚、子育て、相続なども法で規定されている。その法が生きづらさを作っているなら変えればいい。これは政治が救えることである。救えるとわかっていても救わないとすれば、それは無関心や怠慢、無理解でしかない。
姑の小言に殺してやりたいとの思いを抱いたとしても、その生きづらさは制度的な、法的な問題ではない。このような“個人的”問題、心の中に政治が介入するとなると恐ろしい社会になるに違いない。だから近代社会は内心の自由を大切にするのである。国家が内心に入る必要はない。これは共同体のメンバーが、つまり家族や友人が入り込もうとすることまでを問題とするということではない。
LGBTの人たちの生きづらさは、このような“個人的”問題から逃れることはできない。なぜなら、こんなことを言うのも本意ではないけれど、あえて浮き彫りにするため言うが、同じ人間だからである。そして、同じ人間であるからこそ、制度や社会意識という点での生きづらさも抱えざるを得ない。
特にLGBTは家族という社会的、公的存在から制度的に、社会意識的(空気)に排除されてしまう傾向を持つため、生きづらくなってしまうからである。ゆえに公的存在としての確立をより強く求めざるを得ないのである。今そういう運動が目に見えるようになってきたわけだ。
ましてやLGBTと痴漢を単なる性的嗜好とみなして、痴漢と同列視するなどありえない。痴漢は犯罪である。自らの欲望を満足させようと一方的な身勝手さに終始する。
LGBTは一方的ではなく、相互了解的な関係である。痴漢の触る権利を保証すべきとの主張は欲望が満たされないことを生きづらさとする理屈であるが、そこには明らかに共同性や社会が、そして公的であるとはなんであるのかという社会意識が抜け落ちている。
(つづく)