Drマサ非公認ブログ

杉田水脈、小川榮太郎、新潮45について思った事⑸

 現代社会での結婚は恋愛結婚である。これが正しいということを言いたいわけではないが、結婚と愛情/恋愛は強く結びついている。

 愛情を抱くことのできる相手同士が結婚することが幸せであると通常信じられている。いつの間にか運命の人と出会い、交際を重ねる中で、その思いを強くし、カップルとなる。こういう形で恋愛結婚の理想像を皆が共有していると思う。もちろん「ビビビッ」と感じて結婚してもいい。それもまた恋愛において結びついた結婚であるから。

 自ら愛するものと結びつく。そういう考えは皆が共有する。異性愛のカップルは当然このような幸せ観を抱き生きている。 

 同じように、この社会で生きる者なら皆がそういう幸せ観を抱くのだから、LGBTの人々も恋愛結婚を理想として抱いている。なぜなら、近代社会は結婚を正当化する根拠を愛情に求めるからである。子供を作れるか否かに関わらず、ここに近代社会が作り出した結婚観がある。

 もし恋愛結婚自体が近代化におけるイデオロギーだとして批判するなら、異性愛における恋愛結婚も批判しなければならないだろう。あるいは近代から降りるしかない。

 そして、恋愛は性愛と同義ではないかというほど両者は強く結びついていることを確認しておきたい。

 自然に決定される性をセックス、社会的に決定される性をジェンダーというのはよく知られたことだ。ところが自然に性を二分できるかといえば、実にできない。男と女の間といっていい性のあり方もあるし、去勢すると男は女性化する。自然は厳密に分けることができないものとして存在している。性は男と女とを明確に二分して分けることができない。それが自然というものである。

 その意味で性別とは社会的な約束事であり、恣意的なのである。ゆえにジェンダーという考え方が重要なわけだ。

 加えて、性を考えるときにセクシャリティ(sexuality)という考え方にも着目する必要がある。これは広くは性的嗜好性と性的志向性を合わせた概念ではある。ここではセクシャリティ、つまり人間の性的志向性が恋愛のはじまりにとって最も重要な契機であることを確認してもらいたい。人間は対象の魅力に惹きつけられて、恋愛し、その関係性を結びつけていく。

 この事実から見ても、セクシャリティが恋愛を用意するといった点で異性愛者も同性愛者も変わらない。他者の魅力、とりわけエロス的な魅力がきっかけとなり、結婚に至るのが恋愛結婚の形式である。僕たちの生きる社会において、家族の基底には性があり、恋愛結婚の基底にはセクシャリティがある。

 結婚への志向性のない恋愛関係は実のところ、性的なプレイでしかない。ギリシャ時代や武士の同性愛がそのような例であると思う。

 プレイの時だけの一時的な関係性は、家族が持つ永続的な共同性を持たないのである。その意味で、見かけは恋愛として同じように見えても、全く異なる関係性なのである。同じ性行為に見えても、アイデンティティの核となる性的志向性を持つか否かが決定的な違いを生む。なぜなら、共同性を志向するところに家族という存在が用意され、そこにアイデンティティを見出そうとする志向が大地のように存在しているからである。

 ここで論じてきた理解を否定するのなら、「このような幸せ感をLGBTは抱いてはいけない。なぜなら、あなたたちはノーマルではないのだから」とでも考えるしかない。

 そのような過酷な人生を引き受けろと誰が言えるというのだろうか。

 (つづく)

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