前回の話を異文化理解という文脈においてみます。
お互いを認めるというのはお互いの「我慢」を認めることでもあります。何を認めるのかというと、取り止めもない「我」です。
「あたしっておしゃれでしょう」「頭いいでしょう」「東大出ているのよ」「イケメンでしょう」っていうのを認めることです。どうして認められるのかというと、それぞれ絶対的な価値がない、相対的な価値でしかない、つまり大したことではないからです。「東大出ているのよ」が絶対的価値になった時、「増上慢」です。
日本文化ではとりとめのない「私」を表出すると、言い換えれば、自分のことを自慢すると嫌われる行為になります。ですから、仏教の指摘する「増上慢」をデフォルトとするようなコミュニケーション自体が忌避されます。
ちなみに僕の妻は中国人です。ですから文化が違うことに気づかされます。それが我慢に対する姿勢の違いであるのではないかと感じています。
中国人はお互い自慢し合うのがデフォルトです。自慢を「ロウルウ」と言います。「あの人はロウルウだから」と言うのです。「ロウルウ」は「老卵」です。北京語ではなく、上海語です。この言葉には社会的文脈から二つの意味があるのがわかります。1つは肯定的ですが、2つには、過ぎる感じがすると否定的な意味になっているようです。
ですから、仲のいい上海人同士は自慢を言い合い、「あなたのそこはいいよね」と認め合います。高価な時計をしていると、それを自慢します。「それいいね」と認めますが、自慢が過ぎると、嫌われます。
ということからすれば、中国人は基本的に我慢をデフォルトにしてコミュニケーションを重ね、人間関係を構築しているように見えます。日本人とは違うのです。僕自身は中国という国家に批判もありますが、普通に生活する中国人のこのような文化を理解すると、好感がもてます。我慢(=とりとめのない私)を素直に表現し、そのような心を隠したり、なくそうとするのではなく、そういう心持ちであることと共に生きているという印象を持っています。
先ほども言いましたが、自慢が過ぎると嫌われます。それは「増上慢」です。「とりとめもない私」が力を増す状態です。嫌味になるのでしょう。中国人は日本人と違って自己主張の強い民族です。というよりは、日本人の方が自己主張しない特殊な民族とも言えます。
「我慢」(=とりとめもない私)に対する姿勢は違いますが、「増上慢」については似ています。