前回の続き。
我慢は「我」が「漫」することです。「漫」は「取りとめがないこと」で、我慢は「我」が「漫」の心の状態です。つまり「我」の「慢心」です。我が取り止めのない心の状態ということになります。
よって、我慢は、「我」が取り止めのない心の状態になって、その状態に耐え忍ぶことになります。このような状態にとどまっていることは「我執」になります。
「我執」とは「我」に執着するため、「我」が他者より上の存在であるとしようとする欲望になります。加えて、この執着は執着らしく、他者より「我」が劣っているにも関わらず、「我」を上位のものとする意識に支配されることに繋がります。
僕はネットでの言葉に「我慢」「我執」を感じてしまいます。ネットでのディスる言説とは、自分の方が上だと、あるいはモノをよく知っているとか、正しいというものであり、「我」を上位にしようという意識から発しているのではないかと思います。それは広くいじめや差別の心情、ハラスメントにも当てはまるのではないか。
ちなみにこういう心持ちを「卑下漫」「増上慢」といいます。ちなみに増上寺の「増上」です。「増上」だけなら、「力が加わる」ことですが、「漫」が付くと、とりとめもなく「力が加わる」ので、「力が加わる」と慢心してしまうわけです。これは権力に溺れることを想起させます。
ところで仏教では、「我慢」「我執」が人間のデフォルトだと解きます。人間のデフォルトなので、「人間なんて、そんなもの」ですから、大したことではないのです。みんながそこそこそういう面を持っているので、「まあしょうがないかなあ」と見れるのです。
逆に「我慢」を悪徳とみなしてしまうと、その人物は自身を上位の存在とみなしているので、結局のところ「増上慢」です。
ですから、「我慢」を有する人間同士がうまく生きていくところが社会といえばいのでしょう。こんなことを書いているうちに、このブログも「増上慢」かもしれないなと思ってみたりもしました。人に表現したものを見せるというのはそんな部分もあるでしょう。
さて悟りは「我慢」状態を超えてしまい、「我」への執着を捨てます。僕たちは悟りを開くことなど大抵はできませんが、「我慢」を戒めているうちに無理が生じてしまうのが「やせ我慢」でしょう。そうすると、人間同士がうまく生きていくことができないほどに「我慢」がひどい状態に陥ります。
多少のわがままをしたり、許容したりすることが必要なのだと思います。潔癖は未成熟なんでしょう。
ちなみに僕はそういう力を「社会的免疫力」という造語で語れるのではないかと目論んでいます。