検査後に再度診察室前で待つことになる。これで採血は何度目だろうか考えていた。入院中に17回、退院後通院すれば必ずである。8回通院なので、これも必ずで、結局合計25回である。ホントよく血を採るものだと感心していたら、呼ばれた。
新しい主治医は検査結果を見て、「前回のデータと比べて少しいいくらい」との見解である。何がいいのだろうと思う。数値がいいというだけであり、僕の何がいいのだろう。僕自身と数値は同じ存在ではない。実際血圧が200越えで、そのせいか頭痛がある。だから採血データはあくまで目安だ。ただ突っ込んで聞く気はない。
現在体調不良なのは血圧200以上あるからということだが、どうして血圧が200以上になっているのかは一般論のみである。さすがに心不全と半年以上付き合ってきたので、その程度の知識と自らの経験や実感と重ね合わせれば、その一般論は腑に落ちている。しかしながら、どうしてかなり安定してきた血圧が急激に上がったのかは何も説明がない。でも、それで説明できていると習ってきたのではないかと思ってしまう。まあ、いい。
医者は今度エコー検査をしたいと言ってきた。理由はしばらくしていないから。どうしてそれが理由になるのだろうと思いながら了解する。一応まだ医者の言うことは倫理的に問題がない限り、素直に聞くことにしていたからだ。心不全になって丸1年経てば、質問することにしている。
薬を処方してもらう。血圧も含んだ心臓の薬が2種類。そして尿が出る薬が1種類である。尿の薬は頓服として出すと言うことだ。実は退院後丸5キロ体重が増加した。ただ病気で12キロ減っていたわけだが。
そのことを告げると、医者は浮腫を心配していた。また尿の排出が不十分で身体に水が溜まっているかもしれないと疑ったのだ。ただ数値的には問題もなく、足の膨らみをチェックしても問題はない。ただ心配なので、尿が出にくいとか、浮腫が生じていると思ったら、この薬を使いはじめて欲しいという。
1ヶ月後のエコーの予約をして帰宅した。エコーは1ヶ月後でいいわけだから、念のための検査であることは誰でもわかる。そもそも医者がそう言っていた。経過観察というやつだ。
もともと病院は嫌いである。ただ病院などいらないというほどのアンチ病院派でもない。簡単に言えば病院もほどほどだろうと思っている。
病気とは何か?健康とは何か?という問題は定義不可能な問題である。つまり両者の境界を決定づけることはできない。その意味で、ある意味両者は観念である。その観念に私たち日本社会は反応している。
こういうことを考えていると、僕は医療化(medicalization)という言葉を思い出してしまう。そもそも医療の範囲でなかったものまで医療が取り込んでしまうことである。世界が医療で覆われるのである。
例えば、かつてなら病院に行かずに様子を見るということが多かった。これを経済的問題や医療体制の不備とみなすか、あるいは自分の力で病気と対峙していたとみるのかでは、全く大きな違いである。
もちろんかつてなら、様子を見ていたわけだから、自身やその家族などの共同性が病気に対して対処する力があったわけだ。自分で対処せず、そんなことを考えることもなく、兎にも角にも病院に行くべきと考えるなら、それは自分や共同体の力を失うことであり、医療にその部分が取り込まれ、医療が太っていくことになる。そして、医療は産業だ。産業であるから利益を求めて、システムは自動的に動いてしまう。
とすれば、私が心不全になって今様子を見ながら生活しているわけだが、病院に関わらないで済む部分があるのではないかと疑ってしまうのだ。