MY LIFE AS A DOG

ワイングラスの向こうに人生が見える

日本辺境論

2009年12月02日 00時37分50秒 | 読書
内田樹氏の新刊「日本辺境論」を読む。おもしろい。
日本文化を論じた本は数々あれど、高々二百頁あまりで、これだけ“目から鱗”体験を味あわせてくれる本はそうはないと思う。

キーワードはタイトルにもあるとおり「辺境」である。

以前読んだ松岡正剛の「フラジャイル」という本にも同じキーワードが登場していたという記憶がある。http://blog.goo.ne.jp/mdna/e/5cd042ffd8bd787296b86ae6baafbaed

我々が普段の生活の中でおそらく日常的に感じている(であろう)、日本人的島国根性に対する素朴な疑問にこの本は、山本七平や丸山眞男や司馬遼太郎などの言を引きつつ、一定の回答を与えてくれる。

何故、日本にはオバマ大統領みたいな立派な演説ができる政治家がいないのか?
何故日本人は舶来が好きなのか?
何故漢字が「真名」で日本独自の文字が「仮名」なのか?

これら、すべての疑問に答えられるのが「辺境」というキーワードなのだという。
早い話、日本の思想には「初期設定(デフォルト)」が存在しないというのだ。

日本人は長い歴史の中で常に「ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識」に取り憑かれてきたという。古く、日本は中華思想の「辺境」として華夷秩序に組み込まれてきた。そして明治以降になると今度は西洋文明が中華思想にとって変わり日本人にとっての世界の思想のお手本となった。このように我々日本人の中には「真に発達した文化は常に日本の外側にあり、それを学び取らなければ日本は一人前の国になれない」という信憑が脈々と受け継がれているというのである。

丸山眞男の言葉を借りると「日本の多少とも体系的な思想や教養は内容的に言うと古来から外来思想である、けれども、それが日本に入ってくると一定の変容を受ける。それもかなり大幅な『修正』が行われる。(中略)そこで、完結的イデオロギーとして『日本的なもの』をとり出そうとすると必ず失敗するけれども、外来思想の『修正』パターンを見たらどうか。そうすると、その変容のパターンにはおどろくほどある共通した特徴がみられる。そんなに『高級』な思想のレヴェルでなくて、一般的な精神態度としても、私達はたえず外を向いてきょろきょろして新しいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分自身は一向に変わらない」というのが、日本人の“辺境人としての”基本パターンなのだという。

非常に説得力ある物言いではあるものの、なんだか日本人の劣位性を検証しているだけのようにも聞こえてしまい悲しい気分になってしまうのであるが、しかし内田氏は、このような日本人特有のメンタリティを非難しても仕方がないのだという。
「きょろきょろ」するという行為そのものが日本人の辺境性の証左なのであって、非難するとかしないとかそういう次元のものではないのだそうな。
なぜなら「『きょろきょろ』しているような日本では駄目だ!もっと西洋に倣ってきょろきょろしない独自のメンタリティを模索すべきだ」と考える人がいたら、その人はすでに「きょろきょろ」と外の世界を基準にして物事を考えているに過ぎず、まさに辺境性まるだしだからだ。

その後内田氏の論点は、日本の辺境性を下敷きにして、武道や宗教、果ては日本語論にまで派生してゆく。難しくてわかりにくい部分もあるが、氏の見識の広さには毎度のことながら舌を巻く。必読の書。
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