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聖職者という思考停止

2009年06月15日 20時03分24秒 | 街で見つけた
京都教育大学の問題は、マスコミの俎上には、またしばらく乗らないであろう。
また、2chでも燃料補給がないためか、沈静化である。

批判する側、批判される側ともに、聖職者という思考停止トラップに掛かっているように思う。

批判する側の基本論理というか、攻撃の武器は
1 とにかく強姦の事実
2 強姦でなくても、飲食店での集団性行為の事実
3 流言飛語、チェーンメールに踊らされたセカンドレイプ
この三点くらいに集約される。
時間軸を追って、1、2、3となっているように思う。
1の段階では、とりあえず犯罪である。2の段階では、倫理あるいは、教員予備軍としての資質の問題を突かれている。そして3の段階では、資質問題が主要点のように思える。
端的に言えば『そんな、やつに教師になってほしくない』
という、物言いである。
これらの批判の背後には、教師は聖職である。という、幻想がある。
聖職であって欲しいな。
という、願望を持つのは自由だが、実際のところ、教師がすべて聖人君子の分けが無く、よしんば、昔は聖人君子でも、そのうちに故障するときもあらーね。
一般企業は、故障が生じる前提で出来ているが、教員システムでは、故障前提になっていない。永久就職ではないが、教員から転職する、教員へ転職するというのは、非常に希である。
これは、教員が恵まれた就業環境にあるためかもしれないが、一つには、教員になる方、また、教員を見る方、両方に教員は聖職で、あるという、幻想があり一般社会と切り分けていることがあるためではないか?

なので、、教員の犯罪には過剰反応するし、隠蔽のインセンティブが働く。

スーパーフリー事件で、どこの大学も、教育的配慮などとは言わなかった。
他の大麻事件でも同じく。

教育大の本件が、実は犯罪でなかったというのであれば、教育的配慮があってもしかるべきだろう。
では、なぜ、大学は、そこまで信念を持って警察やマスコミと対峙しなかったのか?という疑問が残る。
教育的配慮の背後には、教員は聖職者という、幻想があると思っている。

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