まさおレポート

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紀野一義 暁烏敏の性欲を語る

2024-03-10 | 紀野一義 仏教研究含む

追記 以下はyoutube紀野一義の講演録から書き起こしたものです。偽悪でも偽善でもなく自己を曝け出すことについて教えてくれる。わたしにもいつの日か自己を曝け出す日がくるのだろうか。なかなか来そうもないと思う。


自分のことを語ろうとする人とそうでない人がいて、ここでは自分のことを語ろうとする人のことについて言っているような気がいたします。自分の事を語るということは気恥ずかしいことでもある。それを語ろうとする人がいる。それは菩薩だというわけです。

一度しかお目にかかったことがない暁烏敏は母の実家の近くの寺井から少し離れたところに住んでいらっしゃった方です。今でも寺があります。この方は真宗のお東の方ですが大正8年5月3日43歳の時にこの人の師匠でありました清沢満之の17回忌にあたって「清沢先生へ」という文章を発表している。

大正2年2月21日に最初の奥さんの房子という女性を病気で亡くしております。その死を大変悲しんでおりながら彼は若い女と関係しそれを告白し周囲から非難され憎悪されそんな中で第二の妻となった今川房子というかたへの愛を告白しまして求愛して周囲の反対を押し切って大正3年の7月22日に結婚している。

清沢満之の浩々洞という同志的結合は瓦解の危機に直面しておりました。中外日報に痛烈な非難攻撃をされ、それによって多くの友人から背を向けられ郷里のお寺に帰って行った。

「私の色欲の満足を買うためというのが最も真実に近いのであります。今日の私にはやがて救うてもらわねばならぬ仏も神も無くなってしまいましたので罪も罰もなくなりました。誠に広い世界であります。無量光明度であります。無量光如来であります。今日の私は宗教家でもない、政治家でもない、学者でもない、ただ一人の人であります。規範もなく模範もなくただ創造の生活をやっていくのであります。」とまあびっくりするような告白の文章であります。

この前の年大正7年の秋に奈良高等師範学校の生徒たちに講演をしましてその後で彼に会いにきた三人の中に原谷豊子という女性がいました。この方は卒業後小松高等女学校に奉職し、それから通ってくるようになった。この方と非常な恋愛をする。房子さんと結婚したばかりでまたこれは周囲で大変な騒ぎになったわけですけれど、そういう中でこの豊子さんは胸を煩い大正13年の12月29日に29歳で死んでおります。

臨終に近い頃に彼女は合唱してお念仏を唱えて無量義経を唱え最後に念仏を唱えて息が絶えたそうであります。この方との間に非常に多くの愛の手紙が往復したそうでありますけれど2番目の奥様になられた房子さんは二人の愛を許して、暁烏敏が亡くなった後に編まれた暁烏敏全集の百数十ページにわたって手紙を収録しています。

私はある時に妙達寺に暁烏房子さんを尋ねました。暁烏敏全集を全部はそろっていませんでしたが買い求めましてまあ自分の体ほどの重さのある本を担いで帰りました。郵便で送るという気はしなかったですね。

帰って本を開けると最初にこの手紙が飛び込んできて、一体だれがこの本を編集したんだと調べてきたら房子夫人だった。びっくりしましたね。こういうことを暁烏敏という人は法華経の如来寿量品にある或説己身。或説他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事。というような世界を我々に語ってくれているわけですね。

これを隠したままで通り一遍のお説教で通していたのであれば、私は暁烏敏という男には一つも惹かれなかったと思います。それで私は感動しまして暁烏敏のことは度々書きました。そうしたらですねあるとしに金沢県立高女同窓会のお婆様が私のところにおいでになりまして記念講演をして欲しいと。どのくらい集まりますかと聞いたら千人くらい集まると。

その講演では暁烏敏のことは話さなかったんですが講演が終わった後に演壇に品のいいおばあさんが十人くらい集まってきまして、豊子さんの友達ですとか房子さんの友達ですとか明烏先生の弟子でございますとか言ってくるんですね。この人たちには暁烏敏という人が本当に生きてるんだなと思いましたですね。

また前田周一という人にもその縁で惹かれるようになったんですけども、大正13年6月の1日2日3日と金沢市の公会堂で暁烏敏の無量寿経灌仏会という講演を聞いている。この頃の暁烏敏は非常に評判の悪い人でありましたので人が集まらないんじゃないかというと5百数十人が集まって3日間聞いた。この頃はマイクロホンなんてなくて肉声ですがそれがまた感動を与えて獅子吼というようなお話をなさっている。前田氏は20年経ってしみじみと当時のことを思い起こしておられる。


初稿 2023-10-16 08:54:01

暁烏敏と言う人は大変面白い興味深い人であったらしい。らしいと言うのはあまりよく知らない、これから学んでみたい人だから。出発点にウィキペディアなどから色々メモを作成してみた。


1877年(明治10年)真宗大谷派の明達寺に長男として生まれる。

1897年(明治30年)、20歳で『歎異抄』に出会う。1899年(明治32年)、清沢満之に出会う。

1902年(明治35年)山田房子と結婚。

1903年(明治36年)1月より「『歎異抄』を読む」という記事を連載し、世に『歎異抄』の存在を広める 明治時代、『歎異抄』は真宗の禁書であった

1911年(明治44年)異安心(浄土真宗における異端)扱いを受ける。

1913年(大正2年)、房子と死別。1914年(大正3年)総子と再婚。

1915年(大正4年 複雑な女性関係が問題視され再三にわたり非難されている。


複雑な女性関係が問題視され、実際次から次へと女性関係を繰り返していた。再三にわたりそれを非難されている時に「私はまだ色欲がありそれを抑えきれないかったためです。宗教家でも教育家でも亡くなりました」と自己を述べている。ここまで曝け出さなくては人の心を打たないと紀野一義は感心しながら語っている。

41歳の時「清沢先生へ」中外新報で糾弾される。

清沢満之と共に大変興味のある人物のようだ。明治の男の体臭というか、日本列島北部の人間の匂いというか、人間の心の内面を覗き見る傾向のある凄みのあった人らしい。

九州、四国、関西の人間にはこういうタイプはいない、わたしの好みは底抜けに楽観的な人物だが怖いもの見たさのように興味を覚える。わたしはこんな風に自分をさらけ出せるだろうか、多分一生かかってもできないだろうな。この差に時代を感じてしまう。

現代ならそこまで思わなかっただろう。現代はむしろ曝け出しすぎの文化だから。


妻公認の愛人である原谷とよ子と暁烏敏の手紙が全集に大量に収録されている。

「肉体では同時に私が二人の女を抱く事はできないが、心中には何人も抱く事ができます。一夫一婦とか一夫多妻とかどちらでもよいのだ。ただ他の目的があつてではなくて真剣に愛するのに何の恐れがあらう」

だからおまへがどんなにそれても
わしはます/\だきしめる
愛のリズムはそばだつ耳にや
すねるおまへのあいそつかしは
甘い小うたのやうにきこゆる
愛にもえたつわしのむねは
はて白波の海のやうだ
おまへはそこに浮べる小舟


そもそも暁烏敏を嫌う人は,「自己の性欲の懊悩」という言葉が耐えられないようです。宗教家 がなぜ秘められた性欲をあからさまに語るのか, というわけです。性欲は下半身であり,宗教はも っと崇高なもので精神の問題だと考えているので しょう。暁烏敏も「性欲」なんていうからいけないので,愛とか恋とかいっておけばもう少しきれい に聞こえたでしょう。しかし暁烏は戦っていたのです。あえて「性欲」などと聞きにくい言葉をつ かって,挑戦しているのです。

 


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