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中国という国(97) 江沢民と中国

2024年02月09日 | 日記

中国の江沢民(ジアン・ズォーミン)元国家主席が2022年11月30日、上海で死去した。江沢民は、1989年天安門事件直後の混乱のさなかに共産党総書記に抜てきされた。最高指導者だった鄧小平の下で、市場化にカジを切る「社会主義市場経済」路線を導入し、首相だった朱鎔基氏と共に経済大国の基礎を築き、現在中国が世界の大国となったのは、鄧小平と江沢民の功績であろう

江沢民の総書記としてのスタートは恵まれたものではなかった。天安門事件直後の党内では政治闘争が吹き荒れていた。鄧小平が打ち出した改革開放政策も停滞し、政治も経済も内向きになっていた。1992年に「社会主義市場経済」路線を打ち出し、外国企業の誘致を積極的に進めた。天安門事件後、中国経済は欧米日による経済制裁で低迷したが、市場メカニズムを取り入れ、徐々に活気を取り戻した。1978年に始まった改革開放を江氏のもとで再加速したことで、2000年代の高速成長の基礎を築いた。2001年には世界貿易機関(WTO)への加盟を実現した。江沢民は2003年に国家主席を退くまで鄧小平路線を堅持し、経済成長重視の政策を貫いた。任期中には、1997年の香港返還や99年のマカオ返還など、国家的事業を相次いで成功させた。

共産党組織の基盤も強化した。共産党を「先進的な生産力、先進的な文化、最も広範な人民の根本的利益を代表する」と定義した「三つの代表」思想を提唱。私営企業家の共産党入党を解禁し、労働者と農民が多かった共産党員の裾野を広げた。足元で党員は1億人に迫る。

共産党と企業の結びつきが強くなる中で汚職や腐敗が横行した。中央・地方政府で利権ポストは膨らみ、権力を持つ者ほど豊かになる構造を生み出した。権力と富が集中する共産党自体が腐敗の温床と化した。

江沢民は、反日・愛国主義に傾斜し、対日政策で歴史認識をからめて強硬姿勢を崩さなかった。1989年の天安門事件で共産党と一般大衆の溝は深まり、旧ソ連も崩壊した。愛国主義を盛り上げ、国民の一体感を高めなければ共産党の一党支配も揺らぎかねないとの危機感があった。1991年のソ連崩壊に危機感を感じた江は、共産党の求心力を高めるために「反日」を柱とする愛国教育を強めた。中国の海洋進出の契機となる領海法で、沖縄県・尖閣諸島を「中国の領土に属する」と制定した。日中戦争における旧日本軍による侵略行為を厳しく批判した。沖縄県・尖閣諸島などを巡って、中国は現状変更の試みをくり返すようになった90年代半ばに台湾の総統選に介入するために軍事的威嚇を強めたものの、米空母の威圧に屈した。中国が軍拡に本腰を入れるのもこの頃からだ。

江沢民は、引退からしばらくの間は、権力維持に固執する姿が目立った。習氏が旗を振った反腐敗運動の標的の多くは江氏が率いた「上海閥」だった。習氏が権力基盤を固めるにつれて、存在感は徐々に低下していったが、習指導部の強硬路線の源流は江沢民時代にある。習氏の政治スローガン「中華民族の偉大な復興」を大々的に唱えたのは実は江沢民だ。1994年に愛国主義教育の要綱を制定し、ナショナリズムを国家統治に利用した。当時は89年の天安門事件やソ連の崩壊で社会主義が魅力を失った。愛国主義で国を束ねる手法を習指導部は引き継いでいる。(この稿2022/11/30日経記事引用)