私はろう親を持つデフファミリー。父の親もろうだったが、母は聴の親で、ろうの兄が居た。
そして、妹は聴者だ。つまり、
コーダ(※ろう両親のもとで産まれた聴児)である。
私は、産まれた時は聴こえていたらしかったが、1歳の頃、転落事故で高熱を出し、
「ろう」となった。
父はあまり気にもとめなかったが、母は、
同じ苦労をかけたくないとの思いから、聴者に戻すため必死に病院などをまわったそうだ。
なす術もない事を知った母は、観念したのか私を地域保育所から地元のろう学校幼稚部に転校した。
あまり記憶にないが、ろう学校に入ってから補聴器を付けた。
家では手話、学校では口話(友達との会話はもちろん手話)の生活を送っており、
口話訓練や読話テストは、そこそこ出来ていた。
上手にできると先生に褒められ、ご褒美ももらえて嬉しかったのを覚えている...。
それは、言語が違うから面白かったのかも知れない。
〝英語〟も興味を持ったよね?それと同じみたいなの…。
小学2年か3年生の頃、近所に同級生の
コーダが居て、
妹も一緒に毎日遊んでいる時、
「どうしてマルちゃんだけ違う学校なの?一緒の学校だったら学校でも遊べるのに」
と言われたのをきっかけに、両親に転校してみたいと言ってみた。
母は喜び、すぐ学校へ交渉したが、当時の校長先生は転校をあまり勧めていなかった。
(今思うと、素晴らしい先生だ…)
5年生の時に校長が変わり、許可が降りた。6年生から地域の小学校へ通いはじめた。
転校したばかりの1学期は、クラス全員がゆっくり話しかけてくれたり、優しく接してくれたりで、気持ちがよかった。
でも段々、友達の様子が変わってきた。
友達の言っている事がわからなくて「え?今の何て?」と聞いたら
「後で言うね」「今のはマルちゃんには関係ないから」…。
それが苦痛で、だんだん
『わかったふり』をするようになった。
ある時男子生徒が、私にわからないように早口で
「お前なんか一発じゃ」
(一発でお見舞いしてやる みたいな意味だと思う。)
と言ってきたのをたまたまわかった私が、
「なんでそんなん言うんや」と反論すると、
「お前聴こえてるやんか。今までわからないふりしとったんか」
と言われたり
女子友達からは、私と会話するのがめんどうになったのか 避けられたりで、
とうとうひとりぼっちになってしまった…。
その頃からズル休みもするようになった。
中学進学では、母に気遣ってろう学校には戻らず難聴学級のある学校に入った。
その頃の私は、音楽も聴いていたし、特定の人となら電話もしていたので、補聴器は完全に体の一部になっていた。
が、やっぱり
口話を読み取るのにいつも必死だった。
だんだん本当の自分を出せないでいる事に限界になり、そしてある
事件をきっかけに私は
登校拒否を起こすようになった。
その
事件とは--。
難聴学級での数学の時間。あいかわらず口の動きが早い先生の話について行けず、
スキを見ておしゃべりをしては、しょっちゅう怒られていた。
ある日、「今勉強の時間やろ!」と怒鳴られ、
「先生の言っている事がわからないもん」と言ったら、
おもいっきりひっぱたかれた。
よけようとして、手に持ってたシャーペンも折れたほど。
本当に納得いかなかった。
絶対、ろう学校に戻って見返してやる!!
再び戻ったろう学校では、手話が当たり前のように飛び交っていて、自由気ままに意思疎通がき、
やっと開放されたような気分だった。
だがしかし、「やっとわかりやすい勉強が出来る!」と楽しみにしていただけあって、
手話のない授業に幻滅したと同時に腹が立った。
教師の殆どが手話を知らないなんて!ここはろう者のためのろう学校なのに!
皮肉にも?ろう学校で習得した口話・読話で、先生との口論や他の生徒と先生との通訳もしていた。
「私たちに理解できる言葉、手話での授業を!」
と、全校生徒・先生が集まる生徒総会(だっけ?)で、話したところ、
「手話を覚えようと努力しているが、なかなか…」とか、
「社会に出る前の試練」と言われたり。
卒業後、学校に遊びに行った時「日本手話での授業を!」と話したときも、
「あなた達がしゃべれたり日本語力がついたのは、口話教育のおかげよ」
と言われたり…。
就職してから身にしみて思った事。
残存聴力を活かした口話や読話だと、すれ違いや失敗が起こる。
はじめからまったく聴こえず、まったくしゃべれないほうが、筆談だけに集中できて誤解などが生じないのでは…と思った。
だから私は、声を出すのをやめ、補聴器もやめていったのです。
でも、たまに好きだった音楽が聴きたくなる。
たま~に、声を出したくなる。(笑)
これぞまさに補聴器中毒の名残、ろう教育の被害者なのです(;_;)
だから補聴器や口話は、
物心つくまで、親ではなく 子ども本人の判断に任せて欲しいと思います。