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ドイツ語練習帖

マルと亀のドイツ語学習メモ帳

象と泳ぐ‐17

2016-12-20 15:55:05 | Schwimmen ...

前回読んだ部分の続き。
130ページ中ごろ
リトル・アリョーヒンが11歳のまま大きくならなかったことの記述を受けて。

<誰もその事実を嘆き悲しんだりしなかった。
大きくなることの悲劇から救われ、リトル・アリョーヒンは心の底から安堵した。
大きくならないとはっきりした時点で、彼は大人になった。>

この三つの文章をザビーネさんは容易くドイツ語に訳したようだ。
一つめの文章。
<Niemand bedauerte diese Tatsache.>(誰もこの事実を残念に思わなかった。)
日本語の「嘆き悲しむ」とドイツ語の bedauern とは同じなのだろうか。
訳語としては「悔やむ」「残念に思う」とあるし、実際、「体が大きくならない」
という事実への気持ちとしては「嘆き悲しむ」よりも「残念に思う」方が適しているのではないか
と思ってみたりする。
嘆き悲しむのは突然の不幸な出来事のときのほうがいいかもしれないから。

二つ目の文章
これは例によって主文が先に来ている。
<Der Junge war zutiefst erleichtert, dass er der Tragödie des Größerwerdens entkommen konnte.>
「少年は心から安堵した、大きくなることの悲劇を免れたことに」

文章は問題ないのだが、原著では「リトル・アリョーヒン」としてあるところが
ドイツ語訳では往々にして「少年」になっている。
これはどうしてだろうか。ザビーネさん、なんで?

三つ目の文章
これが今日の目玉だ。
日本語は取り立てて言うほどのことはない、普通の文章だ。
だがドイツ語になると、これが面白い。
<Erst als ihm bewusst wurde, dass er klein bleiben würde, wurde er erwachsen.>
「小さいままでいることを自覚したとき初めて、彼は大人になった」

なぜ面白いかというと、werdenという助動詞でもあり本動詞(なる)でもある言葉が
この1行に三つも入っているからだ。
werden は過去形で wurde となる。また、接続法は würden で、ここではこれらを
使い分けてある。
読んでみると「ヴルデ」、実際は「ヴェァデ」に近いが、これが重なり合って面白い。
wurde と würde の発音の区別が難しくて面白い。

ドイツ人にしてみれば、そしてドイツ語の達者な人にしてみれば、
別にこんな事、面白くもおかしくもなくて当然の普通のことなのかもしれないが。





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象と泳ぐ-16

2016-12-14 16:24:08 | Schwimmen ...

ひと月半ほどご無沙汰していた『Schwimmen mit Elefanten 』の本。
第7章の5ページ目、130ページの一部を読んだ。

<喪が明けたことを示す本当の知らせ、目に見えない何ものかが天から送った真の合図、
それが明らかになるまでしばらく時間が必要だった。>

この2行の文はドイツ語では4行になっている。
副文がある文章は、日本語では最後に来る主文が、ドイツ語では最初に来る。
こんな順序で来る。
「しばらく時間が必要だった」
「ある合図か明らかになるまで」
「もう悲しむ必要がないという(合図)」
ここで線(-)が来て、
「-ある合図、それは眼に見えない力が天から送られてきたもの」

こういう構文の順序は当たり前のことなのだろうが、ここに訳されたドイツ語を
元の日本語にもう一度訳すのは不可能だろうな。

<喪が明けた>という日本語をドイツ語ではどう訳してあるか、
<Er brauchte nun nicht mehr zu trauen.> (彼はもはや悲しむ必要がなかった)
となっていて、いたって普通だ。
「喪が明ける」を和独で引いてみると、「Die Trauerzeit geht zu Ende.」(喪の期間が終わる)
となっていて、ここでその言葉を使ってないのは、実際の喪の期間の話ではなく、
少年の気持ちの中で喪が明けたのだということをちゃんと理解して
ザビーネさんは訳しているのだ。降参。

続いてくる1行
<リトルアリョーヒンは十一歳の身体のまま、それ以上大ききならなかった。>
ここのドイツ語は「少年は十一歳の生活年齢で成長を止めた」となっている。
ここはまあいいとしよう。

続く1行余り
<精神やチェスがどんなに成長しようとも、
身体はテーブルチェス盤の下に収まる大きさを保ち続けた。>

ここのドイツ語は気に入った。
<Wie sehr er sich geistig auch weiterentwickeln mochte,
sein Körper verharrte in der Größe,
die dem Platz unter dem Tisch angemessen war. >

Wie sehr ....mochte, というのが心地よく耳に響く。
「どんなに‥…しようとしたときにも」という副文を作っていて
この副文の後の主文は、普通主語と動詞は反転するが、この構文では主語が先行する。
この表現はそれほど頻繁には見ないな、と思って辞書を見ると、鉛筆でしるしが付けてある。
やっぱり調べた形跡が! しかも重要事項のしるしが。にもかかわらず忘れている。
いまさら驚きもしないが。
ザビーネさんのお蔭でこのきれいなドイツ語を思い出して得したというものだ。






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象と泳ぐ-15

2016-10-28 21:49:07 | Schwimmen ...

前回から続いている文章。
<町で二メートル近い大男を見かけたときは、血の気が引いて足がすくみ、
テレビで世界一巨大なピザを約祭りのニュースが流れたときには、吐き気が込み上げてきた。
大きくなりすぎたために、マスターの死は見世物にされた。
インディらは屋上に閉じ込められた。ミイラは壁に埋もれた。
何より大きくなってしまったら、テーブルチェス盤の下に
身体を収めることが出来なくなってしまう。
”大きくなること、それは悲劇である”
この一行をリトル・アリョーヒンは深く胸に刻み込んだ。>

引用した日本語を(本当は一部分でも勝手に引用していいものかどうかわからないが)
全部ザビーネさんの翻訳本から書き写すのが面倒になってきた。
だから自分の興味を引きそうな部分だけ書くことにする。

1行目の後半 <血の気が引いて足がすくみ> はどんなドイツ語になっているんだろう。
<....wurde er leichenblass, ihm wich das Blut aus den Adern,
und seine Knie begannen zu schlottern. >だった。
ここを直訳すると、「彼は真っ青になり、血管から血が去った、
そして膝ががたがた震え始めた」となる。
日本語では「血の気が引いて足がすくむ」は慣用的に使うのだが
ドイツ語ではないのだろうか、いやに説明の多い言い方だなぁ。

2行目の<吐き気が込み上げる>も一種の慣用句だが、ドイツ語ではただ単に
<ihm war übel >吐き気がした となっている。
意味は通じているのだからそれでいいのだが。

”大きくなること、それは悲劇である”の部分は予想通りそのままそっくり訳されて
<Großwerden ist eine Tragödie.>だった。
日本語の書き方が欧米語風なのかもしれない。ザビーネさんが楽に訳せた文章だろう。

<深く胸に刻み込んだ。>がどんなドイツ語になっているか、これも気になった。
日本語ではちゃんと主語が来て、<リトル・アリョーヒンは> となっているのに、
ドイツ語では主語なしの受動文で書いてある。
sich in etwas4 graben で「~に刻み込まれる」 の意味になり、
これを過去の受動形にして
Diese Erkenntnis hatte sich tief in sein Herz gegraben. だそうだ。
あ、いいなぁ、主語を必要としない受動文はきれいだ。
だけど、日本語を読むと、その前の文章は五つほど連続して
「リトル・アリョーヒン」という主語が出てこないから、
ここできっちり少年の名前を出してくる必要があったのだろう。

こうして読んでみると、日本語もこの一連の段落では主語を省略した分をつづけさまに書き
最後に主語を強調してあって素晴らしい。
ドイツ語では必要上、どうしても主語が出てくる。
<何より大きくなってしまったら、テーブルチェス盤の下に
  身体を収めることが出来なくなってしまう。>
の文章には、er 「彼は」を2回も書いている。
だから、最後の文章では主語がない形にしてもよかったのだ。

そうか、ザビーネさんは苦労をし、工夫をしているのだなー。




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象と泳ぐ-14

2016-10-25 11:00:41 | Schwimmen ...

マスターが急死して、少年との永遠の別れが来た。
回送バスの中で亡くなった遺体を外へ運び出すためにバスを壊さねばならなかった。
かなりの肥満が災いしてしまったからだ。
それ以来大きくなることは少年にとって恐怖になった。

126ページ 第7章の最初の部分。
<マスターを失ってから、リトルアリョーヒンが最も恐れたのは、大きくなることだった。
身長が伸びる、肩幅が広くなる、筋肉が付く、靴が小さくなる、指が太くなる、
のど仏が出る……
そうしたあらゆる変化の予感が彼を恐怖の沼に引きずり込んだ。
大きいという状態を連想させるものはすべて、彼にとっては凶器となった。>

<Was der Junge nach dem Tod seines Meisters ammeisten fürchtete,
war das Großerwerden:
Der Körper wächst, die Schultern werden breiter, die Muskeln entwickeln sich,
die Schuhe sind irgendwann zu klein, die Finger werden dicker,
und der Adamsapfel tritt vervor.
Die Vorahnung dieser zu erwartenden Veränderungen zog ihn einen Sumpf der Angst.
Alles was er mit dem Größerwerden verband,
verwandelte sich für ihn in ein Schreckensszenario.>

少年は大きくなることへの恐怖をずっと持ち続け、また、大きくならないように努力もした。
7章の初めは大切な部分でもあるし、そこのところをドイツ語でどう表現しているのか気なる。
前半の段落は多分このまま訳してあるだろうと思う。その通りだった。

だが二つ目の段落の初めはどうだろう。
<そうしたあらゆる変化の予感が彼を恐怖の沼に引きずり込んだ。>
ここはもっと端折って「彼はあらゆる変化を怖がった」などとなっていないか?
そう予想して読んだのだが、驚いたことに、まるで直訳のようにそのままだった。
「あらゆる変化の予感」がちゃんと主語になっていて
「彼を引きずり込む」も「彼を」は普通に4格代名詞で、
「引きずり込む」はそのまま ziehenの動詞が使ってある。
「恐怖の沼に」はいくらなんでも何か別の表現だろうと期待したが
これがまたそのままだった。
ひょっとして辞書にもあるかと見てみたが「~に引きずり込む」は
古い辞書だが「hineinzeihen in 」となっていた。現代では hinein をつけなくても使うのだろう。

もしかして「恐怖の沼に引きずり込む」という表現は古い日本語にはなくて
近代になってから欧米の表現を日本語にして使っているのではないだろうか。
そうだとしたらザビーネさんは訳しやすかっただろうな。

次の文も、構文としては忠実な訳し方だ。
<大きいという状態を連想させるものはすべて、彼にとっては凶器となった。>
「~するものはすべて、~である」という言い方になっている。
この言い方も欧米語風なのだろうか。
例えば、「一匹の犬がいた」という表現は、本来の日本語では「犬が一匹いた」となるはずだが、
いまではもう「一匹の犬」という言い方にほぼ違和感がない。そんなようなものなのか。

最後の言葉<凶器となった>のところだが、この凶器が<Schreckensszenario>となっている。
これを直訳すれば「恐怖のシナリオ」となる。これだけは少し違うかな。
まあザビーネさんもこういう意訳をたまにはしたくなるだろう。

「参考書」で勉強するよりは、こういう読み方をする方がやはり楽しい。
まあせっかく買った参考書も読むには読むつもりだが。





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Schwimmen mit -13

2016-10-05 13:17:50 | Schwimmen ...

少年の回想部分の最後のところ。

117ページ
<そんな時必ず彼は幻の声を聞いた。
「慌てるな、坊や」
その声はあまりにも温かく、ありありと浮かびあがってくるので、彼は思わずはっとし、
あたりを見回さないではいられなかった。そして十一歳の坊やに戻り、
あの時と同じように泣きじゃくってしまいそうになるのだった。>

<Doch dann hörte er von irgendwoher eine vertraute Stimme.
"Nicht so hastig, mein Junge."
Die Stimme war sanft, aber deutlich vernehmbar,
so dass er hochschreckte und sich unweigerlich umschaute.
Was hätte er in diesem Moment dafür gegeben, wieder elf Jahre alt zu sein,
sich an die Brust seines Meisters zu schmiegen und seinen Tränen freien Lauf zu lassen.>

最初の doch dann というのがとてもいい。
日本語は<そんな時>だから dann だけでもかまわないのだろうが
doch dann とすると口調がいいだけではなく、その前の<身体が震えた>ことに対して
「それに反して」の意味合いが出来てくる。
なぜかこのドイツ語には<必ず>がない。immer を入れなかったのはどうしてだろう。

「慌てるな、坊や」というセリフはいたるところで出てくる。
この言葉に励まされながら少年のチェスは上達する。
マスターは亡くなってしまったが、このセリフはいつまでも少年の耳に聞こえてくる。

<思わずハッとし>というのは hochschrecken と訳してあるが、これは「驚いて飛び上がる」
の意味ではないだろうか、ちょっと違う、と言うとザビーネさんに悪いかな。

<見回さないではいられなかった>というところも、ただ unweigerlich 「思わず・否応なしに>
sich umschaut 「見回した」となっているが、
「~せずにはいられなかった」という意味になるドイツ語があるはず。

最後の2行は日本語では1行のところを増やしてあって、日本語的省略を補っている。
<泣きじゃくってしまいそうになる>をseinen Tränen freien Lauf zu lassen にしてある。
これは freien Lauf lassen で「おもむくままにさせる」の意味なのに
「しまいそうになる」は「だけどもそうはしなかった」の意味があるから
あれ?意味が逆?と思った。
しかし文の初めに接続法で Was hätte er in diesem Moment dafür gegeben, とあって
次に zu の不定詞が三つ来てその不定詞の動作を「しそうになった」のだ。
ドイツ語の接続法は意味が深くて面白い。
読み取ることも難しいのに、ましてや書くことはいつまでたっても出来そうにない。






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Schwimmen mit -12

2016-10-04 09:58:15 | Schwimmen ...

116ページ
少年の回想部分の続き。

<あの日の夕方が、回送バスでマスターと一緒に過ごす最後の日になったのだから、
自分の予感は正しかったのだ。自分は掛けチェスのことなんかで泣いたんじゃない、
その予感に突き動かされて泣いたんだ。いや、逆だ。
自分の予感がマスターの最後を引き寄せたのだとしたら?
自分が泣いたりなどしなければ、マスターがあんな目にあうこともなかったのだとしたら?・・・・・そう思うとたまらなく恐ろしい気持ちに襲われ、息が止まるほど体が震えた。>

この部分は読者でも息の止まる気持ちで読むところだ。
だからこそ、ドイツ語ではどのように表してあるかを知りたかった。

<Eine Vorahnung, dass es der letzte Abend war,
den er zusammen mit dem Meister in seinem Bus verbrachte?
Wenn er daran dachte, überrkam ihn eine so große Trauer, dass ihm der Atem stockte
und er am ganzen Körper zu zittern anfing.>

これだけだった。つまりかなり端折ってある。
そういえば思い出した。
1年前、この本を読み始めたころ、この部分の翻訳を知りたかったことを。
そしてかなりがっかりしたことを。
だから中断したことを。

次の部分がほとんどごっそり抜けていたのだ。

「自分は掛けチェスのことなんかで泣いたんじゃない、
その予感に突き動かされて泣いたんだ。いや、逆だ。
自分の予感がマスターの最後を引き寄せたのだとしたら?
自分が泣いたりなどしなければ、マスターがあんな目にあうこともなかったのだとしたら? 」

当時そのことを R に言うと、
「ドイツ人にはこういう、自己卑下するような思考は理解しにくいのかも」と言った。

ああそうなのか、自分ではかなり西欧的な考えが理解できる気がしていたが
日本的なこういう思想は、やはりしっくり分かるし好きなんだな。

ザビーネさんは小川さんとどのような契約をしたのだろう。
かつて 吉本ばななが『キッチン』をイタリア語に訳される契約をした時、
一字一句きっちり訳すことを条件にしたと聞く。
そうでもしないと、このようによく理解できない日本的思想の部分はスルーされるのか。
読者として、ここを訳出してないのだけはザビーネさん、とっても残念・・・。





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Schwimmen mit -11

2016-10-03 15:23:01 | Schwimmen ...

少年は後にリトルアリョーヒンと呼ばれるようになる。
ロシアのチェス選手アレクサンドル・アリョーヒンにちなんだ名前だ。
前回そのことについて書いた。
アリョーヒンという名前が出てこないので、てっきり小川洋子の創作かと思っていたら
R が探してくれて、アレクサンドル・アレヒンで検索すると出てくるそうだ。
1892年生まれ、1946年53歳没、亡くなる20年ほど前にフランスに帰化した。
アレヒンはその創造性豊かな棋風から「盤上の詩人」と称えられた。
少年はがリトルアリョーヒンと呼ばれたのは、棋風が似ていたかららしい。

アリョーヒンが抱きながらチェスをした猫、カイサはドイツ語でもCaissa の綴りで
チェスの神様の意味があるそうだ。これも R が調べてくれた。

話は第5章に入る。
ここでは「ちびっこチェス大会」で優勝したエピソードと
「パシフィック・チェス倶楽部」に入会するようマスターに勧められた
エピソードが書かれている。
「パシフィック・チェス倶楽部」には入会出来なかった。
最初の競技でチェス盤の下に潜るというルール違反をしたためだった。
しかしこの局面で少年の棋譜は「盤上の詩人」のようだと言われ、
このとき以来少年はリトルアリョーヒンと呼ばれた。

第6章に入る。
この章では少年の生涯に大きな影響を与えた出来事が起こる。
路上の賭けチェスに加わって賞金をもらい、そのお金で弟とデパートの食堂に行く。
賭けチェスとはどういうものかとマスターに諭され、少年はひどく後悔して泣く。

116ページ
<あの日の夕方、なぜ自分はあんなにも泣いてしまったのだろうと、生涯少年は考え続けた。
もしかすると自分は、何かを予感していたのかもしれない。>

ここは少年の回顧の部分で、
この文章から始まる12行には大人になってからの少年の気持ちを綴ってある。
ドイツ語ではどうなっているのだろうと気になった。

<Sein ganzes Leben lang sollte sich der Junge fragen,
wieso er an jenem Abend so hemmungslos geweint hatte.
War es eine Art Vorahnung gewesen?>

<少年は考え続けた>という主文がドイツ語では先に来る。
ドイツ語の2行目の副文<あの日なぜあんなに泣いたのか>が次に来る。
日本語ならどちらが先に来てもかまわないと思うが。
この部分のドイツ語はなんということもなく普通だ。

3行目のドイツ語は「これはある種の予感だったのか?」と訳せるので
日本語の<もしかすると自分は、何かを予感していたのかもしれない。>とはだいぶ違う。
ここは日本語のほうが遥かにいいのじゃないか。
ザビーネさん、この文章はクライマックスのひとつなんですけど…。




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Schwimmen mit -10

2016-09-30 14:02:23 | Schwimmen ...

アリョーヒンの猫についての三つの段落を読もうと思っていたが
真ん中のはちょっと飛ばしてしまおう、とサボることにした。
この真ん中の段落はアリョーヒンがチェスをしている写真の説明で、
最後の文章では
「やや禿げ上がり気味の額にさえ、詩人の称号にふさわしい上品さをたたえている。」
とアリョーヒンの風貌を伝えている。

で、三つ目の段落ではアリョーヒンの猫の描写が来るわけだ。

<そして猫だ。なんとポーンと同じ、白と黒のまだら模様をしている。
アリョーヒンの右手に抱かれ、耳をピンと立て、
ご主人様より真剣な面持ちでチェス盤を見つめている。
ご主人様が書いた詩を誰よりも早く読む権利は自分にあるのだ、
とにらみを利かせているようでもあり、
対戦相手の心を惑わせるため、呪いをかけているようでもある。
猫の名前はカイサ、チェスの神様だ。>

R は、小川洋子のこの作品はかなり翻訳しやすいかも、と書いている。
「感性に任せてふわふわしたところがあんまりないから」ということだ。
確かにこの段落もそのようだ。状況説明が多いということもある。

<そして猫だ。なんとポーンと同じ、白と黒のまだら模様をしている。
アリョーヒンの右手に抱かれ、耳をピンと立て、
ご主人様より真剣な面持ちでチェス盤を見つめている。>
日本語では三つの文章になっているところをドイツ語では2文で表している。

<Und die Katze ... Sie ist schwarz-weiß gefleckt wie Pawn,
sitzt auf Aljechins rechtem Arm,
spitzt die Ohren und schaut noch ernster auf das Schachbrett
als der Großmeister.>

これはUnd die Katze ... で一つの文章になっているから、文章は二つだ。
続く日本語の2文は当然主語がない。その前に、<そして猫だ。>という文が来ているから
主語は書かなくても日本語ではかまわない。
ところがドイツ語ではよほどの例外でもない限り、主語は必要だ。
この二つの文は主語が「猫」だから Sie という女性代名詞で受ける。
文を二つに分けるとまた Sie の主語が必要になるので、コンマで繋いでひとつにしてある。
この箇所で少年はアリョーヒンの猫が自分が可愛がっているマスターの猫ポーンと
同じ毛色であることを喜んでいる。

次も猫の説明が続く。
<ご主人様が書いた詩を誰よりも早く読む権利は自分にあるのだ、
とにらみを利かせているようでもあり、
対戦相手の心を惑わせるため、呪いをかけているようでもある。>

日本語では一つの文だがドイツ語では二つに分けてある。

<Als wollte sie ihr Vorrecht betonen,
dass sie vor jedem anderen seine Verse lesen darf.
Oder als würde sie versuchen,
den Gegner mit ihrem Blick zu verwirren.>

どちらも猫が主語だから分ける必要がないと思うのだが、
それぞれに副文がくっついているので、一度文を切るという常識があるのだろうか。
それとも翻訳者ザビーネさんの好みだろうか。

<にらみを利かせる>はどんなドイツ語になっているのだろうと思ったが、
<Vorrecht betonen >となっていて直訳すれば「特権を力説する」だ。
ほぉ~、うまいこと翻訳してあるなぁ。

<猫の名前はカイサ、チェスの神様だ。>
<Sie heißt Caissa, wie die Schutzgottheit des Schachs.>

ここは問題がないのだが、いつも思うのは名前をドイツ語に書く場合、
どんな綴りにするか、どうして決まるのだろう。
例えば森鴎外のとき、ドイツ語で文学関係ではMori Ogai となっていることが多い。
「鴎外」の「おう」をなぜ長音に表記しないのか、いつも気になる。
姓が先に来るのはそのほうがよいと思うが。
ここで「カイサ」はCaissaと表記してある。この綴りはもう決まっているものなのか。
「アリョーヒン」はロシアの有名な人だろうから Aljechin は元々のロシア語表記だろう。
その点日本語はアルファベットの表記からカタカナに写すのが難しい。
漢字の名前からアルファベットが難しいのも同じだが。

今ちょっと気になったので、「ロシアのチェス選手」をググってみたらアリョーヒンは
13人の中に出てこなかった。つまりアリョーヒンは小川洋子の独創か。
そうすると「カイサ」もそうだろう。
とすればザビーネさんはこんなところでちょっとした苦労と工夫をしたのだな。
こんなふうにあれやこれやとつつきまわしてみるのはけっこう楽しいものだ。








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Schwimmen mit Elefanten -9

2016-09-27 08:14:33 | Schwimmen ...

マスターの指導でめきめきチェスが上達したこの少年は、
後にリトルアリョーヒンと呼ばれるようになる。
アリョーヒンはロシアのグランドマスターで「盤上の詩人」という称号を持っていた。
少年はこのアリョーヒンに大きな憧れを抱いた。
そしてもう一つ、少年がアリョーヒンの虜になる理由があった。

この小川洋子の本の原題は『猫を抱いて象と泳ぐ』であり、
ドイツ語版では「猫を抱いて」の部分が省略されて『像と泳ぐ』だけになっている。
しかしこの少年が猫を抱きながらチェスを指すのは重要なことで、
ここを省略した題名に翻訳したのは残念だ。

なぜなら猫はこの本の中でかなり重要な役割を持っており、
今から読もうとする部分にそのことが出てくるからだ。
第4章80ページ、14行続く三つの段落を読んでみる。まず第1の段落から。

<実はもう一つ、アリョーヒンの虜になる理由があった。
それは彼が猫好きであることだった。アリョーヒンが右手に猫を抱き、
左手でチェスを指している写真を見つけた時、少年は思わず「あっ」と声を上げた。>

<Seine Schwärmerei hatte aber noch einen anderen Grund.
Der Schchgroßmeister war ein großer Katzenliebhaber.
Als der Junge ein Foto entdeckte, auf dem Aljechin im rechten Arm eine Katze hält,
während er mit der linken Hand eine Figur versetzt,
konnte er einen erstaunen Ausruf kaum unterdrücken.

この段落もきっぱり忠実な訳になっている。
日本語で副文が含まれているとき、副文は先に来ることが多いが、
ドイツ語では主文をまず書いて、あとに説明の副文が来る。
「少年は写真を見つけた、アリョーヒンが右手に猫を抱いて、
左手でチェスを指している写真だが」という書き方になる。
この文章は最後の<少年は…声を上げた>の副文にもなっているから、
本当の主文はこれで、<写真を見つけた>は全体が als <した時>という接続詞
のついた副文だ。

この最後の1行は、<少年は思わず「あっ」と声を上げた。>という日本語を
< ,konnte er einen erstaunen Ausruf kaum unterdrücken.>としてあり、
直訳すると<彼は驚きの叫びをほとんど我慢できなかった>となっている。
なぜ<「あっ」と声を上げた>と書かなかったのだろうか。
「あっ」というのはドイツ語にもある。O!、Mein Gott!、Ei! など。
このどれもがザビーネさんの気にそぐわなかったのかな。
私としてもunterdrücken <抑える・こらえる> を使って
kaum unterdrücken können としてあるのは気に入っている。
話法の助動詞<können >も、否定の副詞 kaum <ほとんど…ない>も
とてもドイツ語らしいから。









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Schwimmen mit Elefanten -8

2016-09-26 08:41:27 | Schwimmen ...

次の段落は7行あり、五つの文章からなっている。
抽象的な表現で、だからこそ、このような日本語がどんなドイツ語になっているのか、
是非とも知りたいところだ。

71~72ページ
<そこには確かに真正面からからチェスに立ち向かってゆこうとする若々しい情熱があった。
そしてそれを受け止めようとする温もりがあった。
白の手は、平原を駆け回る野生動物の子供のように怖いもの知らずで、
黒の手は、大地の奥深くほられた巣穴で黙想する長老のように、どっしりとしていた。
世界チャンピオン決定戦の名局に比べれば当然未熟であり、
一手一手が結ぶメロディはたどたどしかったが、決して耳障りではなかった。
どんなに未熟でも、駒の奏でる響きに心打たれ、もっと美しい音を聞こうと耳を澄ませる、
その息遣いが棋譜に沁み込んでいた。>

最初の二つの文はドイツ語ではコンマで繋がって一つになっている。
<In dieser Partie herrschte gewiss eine gehörige Portion jugentlicher Übermut,
sie zeugte aber auch von einer Bereitschaft zu empfangen.>
「そこには・・・・があった」とか「そして・・・・があった」という文章は
それ自体かなり翻訳調ではないだろうか。
だからドイツ語も普通にそのままに訳されているようだ。
もっとも、初めの「あった」は herrschen という動詞で、
次の「あった」は zeugen という言葉で表されてはいるが。
だからこのドイツ語を原語の日本語を知らないまま、もし日本語に訳せば
決して元のようにはならないだろう。

<Die weißen Figuren preschen vor wie ungezähmte Jungtiere,
die in der Prärie herumtollen, während der schwarze König
unerschüterlich die Stellung hält wie ein Patriarch,
den nichts aus der Ruhe bringt.>

ここも日本語に忠実に訳してあるようだ。
しかし、<白の手>というのが<die weißen Figuren >は分かるが、
<黒の手>が<der schwarze König >と限定してあるのはどうしてだろう。
<白の手>は複数になっているから白の駒全体のことを言っている。
<黒の手>も黒の駒全部のことだと思っていたが、ドイツ語では単数になっていて
しかもKönig は「キング」という駒の意味だ。
<黒の手>というのが全体として「長老」のようにどっしりした指し方をしている、
そう言う意味なのではなかったのか。
「キング」という駒だけが黒い指し手のほうはどっしりしている、と言っているのか、
その辺がどうもわからない。

<Verglichern mit den berühmten Prtien der Großmeister
war diese natürlich noch ungelenk und holprig in der Merodie,
die sämtliche Züge miteinander verband,
aber zumindest schmeichelte sie den Ohren.>

2行目の ungelenk und holprig は<ぎくしゃくしてたどたどしい>という意味だが
holprig は初めてお目にかかる形容詞だ。
この文章は構文は少し変えてあるが、出てくる日本語をすべて翻訳してあるようで、
こういう日本語はヨーロッパ語に翻訳しやすいのかもしれない。

<Wie unfertig das Spiel des Jungen auch gewesen sein mochte,
das Orchester seiner Figuren erzeugte einen Klang,
der einen tief im Herzen traf und Sehensucht nach einer noch schöneren Partitur weckte.>

さてここはどうなんだろう。日本語では一つの文章だがドイツ語では二つに分けてある。
副文が重なりすぎてもよくないという考えからか。
コンマで区切って続けてもおかしくはないと思える。
日本語のほうもコンマにしないで句点(。)で分けても良かったのではないか。

< In seiner Notation konnte man dies bereits spüren. >

ピリオドで分けたので、dies という目的語としての指示代名詞を使ってある。
ドイツ語の構文に必要な、主語+動詞+目的語の条件を満たすため。
それ以外は原文に忠実だ。

今日の部分はどんなに「翻訳」されているだろうと思ったが、どの文章も
きちんと忠実で、それはつまり、このような理屈っぽい文章のほうが
訳しやすかったのか、とも思えるし、いや、この部分を理解するために
ザビーネ・マンゴールドさんは四苦八苦して、やっとここまでたどり着いたのかな、
とも想像する。

この一連の三つの段落は読まずもがな、だったかも。






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