次の段落は7行あり、五つの文章からなっている。
抽象的な表現で、だからこそ、このような日本語がどんなドイツ語になっているのか、
是非とも知りたいところだ。
71~72ページ
<そこには確かに真正面からからチェスに立ち向かってゆこうとする若々しい情熱があった。
そしてそれを受け止めようとする温もりがあった。
白の手は、平原を駆け回る野生動物の子供のように怖いもの知らずで、
黒の手は、大地の奥深くほられた巣穴で黙想する長老のように、どっしりとしていた。
世界チャンピオン決定戦の名局に比べれば当然未熟であり、
一手一手が結ぶメロディはたどたどしかったが、決して耳障りではなかった。
どんなに未熟でも、駒の奏でる響きに心打たれ、もっと美しい音を聞こうと耳を澄ませる、
その息遣いが棋譜に沁み込んでいた。>
最初の二つの文はドイツ語ではコンマで繋がって一つになっている。
<In dieser Partie herrschte gewiss eine gehörige Portion jugentlicher Übermut,
sie zeugte aber auch von einer Bereitschaft zu empfangen.>
「そこには・・・・があった」とか「そして・・・・があった」という文章は
それ自体かなり翻訳調ではないだろうか。
だからドイツ語も普通にそのままに訳されているようだ。
もっとも、初めの「あった」は herrschen という動詞で、
次の「あった」は zeugen という言葉で表されてはいるが。
だからこのドイツ語を原語の日本語を知らないまま、もし日本語に訳せば
決して元のようにはならないだろう。
<Die weißen Figuren preschen vor wie ungezähmte Jungtiere,
die in der Prärie herumtollen, während der schwarze König
unerschüterlich die Stellung hält wie ein Patriarch,
den nichts aus der Ruhe bringt.>
ここも日本語に忠実に訳してあるようだ。
しかし、<白の手>というのが<die weißen Figuren >は分かるが、
<黒の手>が<der schwarze König >と限定してあるのはどうしてだろう。
<白の手>は複数になっているから白の駒全体のことを言っている。
<黒の手>も黒の駒全部のことだと思っていたが、ドイツ語では単数になっていて
しかもKönig は「キング」という駒の意味だ。
<黒の手>というのが全体として「長老」のようにどっしりした指し方をしている、
そう言う意味なのではなかったのか。
「キング」という駒だけが黒い指し手のほうはどっしりしている、と言っているのか、
その辺がどうもわからない。
<Verglichern mit den berühmten Prtien der Großmeister
war diese natürlich noch ungelenk und holprig in der Merodie,
die sämtliche Züge miteinander verband,
aber zumindest schmeichelte sie den Ohren.>
2行目の ungelenk und holprig は<ぎくしゃくしてたどたどしい>という意味だが
holprig は初めてお目にかかる形容詞だ。
この文章は構文は少し変えてあるが、出てくる日本語をすべて翻訳してあるようで、
こういう日本語はヨーロッパ語に翻訳しやすいのかもしれない。
<Wie unfertig das Spiel des Jungen auch gewesen sein mochte,
das Orchester seiner Figuren erzeugte einen Klang,
der einen tief im Herzen traf und Sehensucht nach einer noch schöneren Partitur weckte.>
さてここはどうなんだろう。日本語では一つの文章だがドイツ語では二つに分けてある。
副文が重なりすぎてもよくないという考えからか。
コンマで区切って続けてもおかしくはないと思える。
日本語のほうもコンマにしないで句点(。)で分けても良かったのではないか。
< In seiner Notation konnte man dies bereits spüren. >
ピリオドで分けたので、dies という目的語としての指示代名詞を使ってある。
ドイツ語の構文に必要な、主語+動詞+目的語の条件を満たすため。
それ以外は原文に忠実だ。
今日の部分はどんなに「翻訳」されているだろうと思ったが、どの文章も
きちんと忠実で、それはつまり、このような理屈っぽい文章のほうが
訳しやすかったのか、とも思えるし、いや、この部分を理解するために
ザビーネ・マンゴールドさんは四苦八苦して、やっとここまでたどり着いたのかな、
とも想像する。
この一連の三つの段落は読まずもがな、だったかも。