たとえ右利きの人に「左ギッチョ」と言われても、その人が自分のことを「右ギッチョ」だと思っているのならば、不愉快に思いません。思わないだろう、ではなく実際、思いませんでした。
それは対等な対語だからだと思います。
しかしもしもその人の考えの基本が『右利きが正しく、それができない左利きを「ギッチョ」という』ということであったら。そして『ギッチョがうるさいから、右利きの自分をあえて「右ギッチョ」と言ってみせた』…ということだとしたら、やはり不愉快だと思います。
親戚の子が幼稚園に通っていたとき、一人前のような口を利くその子に、
「○○ちゃん、ヨウチエンで赤いご本作ったんだ~、おばちゃんは茶色だよ~」
などと、ちょっと対等なフリをすると、子供のこと、単純に喜んでいました。
ちなみに、この子が作ったのは工作の時間に先生にパンチしてリボンで止めてもらったお絵かきの束(表紙が赤い色画用紙)、私が作ったのは取引先に配布する月刊広報誌(黒インクと茶色インクの2色印刷)です。
このとき、言葉ではあくまでも園児と同列に立っているけれど、まさか対等に見ているわけではありません。
このときような、内心見下ろす感覚に似ているかもしれません。
それは対等な対語だからだと思います。
しかしもしもその人の考えの基本が『右利きが正しく、それができない左利きを「ギッチョ」という』ということであったら。そして『ギッチョがうるさいから、右利きの自分をあえて「右ギッチョ」と言ってみせた』…ということだとしたら、やはり不愉快だと思います。
親戚の子が幼稚園に通っていたとき、一人前のような口を利くその子に、
「○○ちゃん、ヨウチエンで赤いご本作ったんだ~、おばちゃんは茶色だよ~」
などと、ちょっと対等なフリをすると、子供のこと、単純に喜んでいました。
ちなみに、この子が作ったのは工作の時間に先生にパンチしてリボンで止めてもらったお絵かきの束(表紙が赤い色画用紙)、私が作ったのは取引先に配布する月刊広報誌(黒インクと茶色インクの2色印刷)です。
このとき、言葉ではあくまでも園児と同列に立っているけれど、まさか対等に見ているわけではありません。
このときような、内心見下ろす感覚に似ているかもしれません。