生年不詳―和銅元年(七〇八)。
天武天皇と藤原鎌足の娘である氷上娘の皇女。
「万葉集」には、彼女の異母兄に当たる、高市皇子の妃だったと書かれています。
しかし、「日本書紀」には、彼女の死亡年月が記されているのみです。
高市皇子との正式な結婚年月日も、わかっていません。
高市皇子と但馬皇女の結婚に至るまでの経緯や理由については、具体的にははっきりとはしていませんが。しかし、この但馬皇女の生母が天武天皇の妃の一人であった氷上娘であり、藤原不比等にとって但馬皇女は姪であること。
こうした血縁関係から考えて、おそらく、当時の有力者の一人であった高市皇子にぜひ自分の姪を嫁がせたいと思った藤原不比等の思惑による、政略結婚であった可能性が高いのではと思われます。
かつて不比等の父である藤原鎌足が娘の耳面刀自を大友皇子に嫁がせていること。
そして他の娘達の氷上娘と五百重娘も、天武天皇に嫁がせているように。
それに高市皇子も高市皇子で、徐々に頭角を現しつつあり、今後の更なる廷臣としての出世が予想される藤原不比等の姪である但馬皇女を妻に娶り、彼との関係を深めておくのも悪いことではないと考えたのではないかと思われますし。
それに彼の息子の長屋王も、藤原不比等の娘である長蛾子を妻に迎えているのも、高市皇子と但馬皇女との結婚と類似した点があるケースではないかと思われますし。
皇族と藤原氏の血縁者との結婚という。但馬皇女は皇女ではありますが。
しかし、彼女は藤原氏の血縁者でもありますし。
高市皇子と但馬皇女との結婚は、父の天武天皇の意向である可能性もありますが。
しかし、それなら但馬皇女と年齢的には釣り合う感じの穂積皇子とかの他の相手でも良くはないか?とも思われますし。
そしてこの二人の結婚の背景としては、但馬皇女の母方の叔父である藤原不比等側から考えてみた方がより納得がゆきやすいようにも、私には思われますし。
壬申の乱後に初め不比等は天武天皇二年(673年)の大舎人の登用制度によって出仕して、下級官人からキャリアをスタートすることになったようです。
更に天武朝の後期に入ると、不比等は従兄弟の中臣大嶋と共に草壁皇子に仕えたとみられています。また、東大寺正倉院の宝物として『国家珍宝帳』に記載されている「黒作懸佩刀」は草壁皇子から不比等に授けられた皇子の護り刀で、後に皇子と不比等自身の共通の孫である聖武天皇に譲られたと伝えられている。
「日本書紀」に「不比等」の名前が出るのは持統天皇三年(689年)二月二十六日(己酉)に判事に任命されたのが初出であり、持統天皇の生んだ皇子である草壁皇子に仕えていた縁と法律や文筆の才によって登用されたと考えられています。
こうした不比等と草壁皇子との関係性や持統天皇に重用されたことから考えるともしかしたら、不比等から鸕野皇后に自分の姪である但馬皇女を高市皇子に嫁がせる許可を天武天皇から得たいので、それとなく彼女から天皇に口添えしてもらえるようにと皇后への不比等の懇願が存在していたのかもしれません。
そして自分の息子である草壁皇子に仕えることになる不比等のことは鸕野皇后も早い内からその有能さに注目し、目をかけていた可能性も高いのではないかと思われますし。そんな不比等の懇願もあり、鸕野皇后からも天武天皇への、但馬皇女の結婚相手には高市皇子がいいのではないか?という働きかけが天武天皇に行なわれた可能性もあるのではないでしょうか?
鸕野皇后にとっても高市皇子は天武天皇と彼女からの信頼も厚いし、既に確かな地位を築いており、但馬皇女の結婚相手としては相応しいと判断したのではないでしょうか。それに自身も十五歳くらいは年上だったと思われる、天武天皇と結婚していることもあり、かなり年長の夫と年若い妻という組み合わせには、彼女もあまり違和感を覚えなかったのではないでしょうか。
実際にも、但馬皇女と同年代であったと思われる穂積皇子が天武二年(673年)くらいの生まれだと考えられ、だからその彼よりは三・四歳くらいは年上だったのではないかと想像される但馬皇女(永井路子も穂積皇子と但馬皇女の恋の話も含む短編集の「裸足の皇女」の中で、但馬皇女の方が穂積皇子よりも数歳年上と見ているようですし。)が高市皇子と結婚したと考えられるのは天武十三年か十四年頃。
また、天武十四年の一月には、高市皇子は冠位四十八階制定の際に、草壁皇子の浄広壱位・大津皇子の浄大弐位に次ぐ浄広弐位に叙せられています。
これは天武天皇の皇子達の中では三番目に当たる高い地位です。
やはり、この天武十四年のこうした高市皇子の位階の昇進と併せて考えてみても、この頃に彼が但馬皇女と結婚した蓋然性も高いようにも感じますし。
そして但馬皇女の結婚相手は誰が良いかと検討していた天武天皇にとっても、おそらく、この鸕野皇后の勧めが決定打となり、高市皇子と但馬皇女を結婚させるという決定になったのではないかと思いますし。
それからなぜか穂積皇子の方が但馬皇女よりも年上であったかのように想像したがる
万葉学者が多いようですが。
これには確実な根拠はあるのでしょうか?
「日本書紀」の天武天皇の后妃の記載の順番が藤原鎌足の娘で但馬皇女の母である氷上娘、そしてこれも藤原鎌足の娘である五百重娘、そして蘇我赤兄の娘で穂積皇子の母である石川夫人になっており。
そして私はこれはやはり、彼女達が入内した順ではないのかと思われるのですが。
従って同じ鎌足の娘の氷上娘と五百重娘では、氷上娘が姉であった可能性が高いと思われます。
だから但馬皇女の方が穂積皇子よりも先に生まれている可能性が高いのではないのかと私は考えているのですが。
それからこのように考えると後に穂積皇子と但馬皇女の密通の発覚後、持統天皇が自体の沈静化と収束を図り、一時、穂積皇子を近江の志賀寺に派遣しているのも、より納得がゆくように思われるというか。
もちろん、持統天皇が天皇として率先して、この密通事件の沈静化を図る責任を感じていたこともあるのでしょうが。
しかし、その他にも自分も高市皇子と但馬皇女との結婚に関わっていたがゆえに、よりそうした責任を感じていた可能性があるのではないでしょうか。
それからこのように、高市皇子なら既に宮廷で確かな地位を築いており、天武天皇からの信頼も厚く、父の天武天皇としても但馬皇女の結婚相手として異存はないということで、こうして藤原不比等の姪の但馬皇女を高市皇子と結婚させる計画については、天武天皇からの承認も得られたのではないでしょうか。
それからおそらく、高市皇子と但馬皇女の夫婦も、十五歳くらいの年齢差であったかと思われます。更に当時の高市皇子は持統天皇の信頼も厚く、太政大臣という国家の要職にも就き、このように立場上も、威厳のある存在でもありました。
高市皇子自身も、深い思慮や重々しい落ち着きも備えた人物でもあったのでしょう
このため、但馬皇女にとっては高市皇子は夫というよりも、父親のような印象の強い存在であったのかもしれません。
そしていつの頃からからはわかりませんが。
但馬皇女はこれも異母兄弟の穂積皇子と恋に落ちました。
おそらく、彼とは同年代かと思われます。
同年代で歌の才能にも恵まれ、風流人でもあったらしい穂積皇子に、しだいに但馬皇女は惹かれていったのかもしれません。
しかし、当時太政大臣として朝廷に重きを成していた高市皇子の妃であった但馬皇女と穂積皇子の恋は、やがて世の人々の知る所となってしまったようです。
それでも、この恋を貫こうとする強い意志と情熱が但馬皇女の歌からは伝わってきます。ただ、特に気になるのは、この時の但馬皇女の夫である高市皇子の反応ですが。
無関心だったのか、それとも不快に思い、怒ったのか?
ただ、例えば歴史作家の永井路子の、高市皇子には但馬皇女だけでなく、複数の妻もいたことだし、但馬皇女の穂積皇子との密通については高市皇子もそれ程気にもしなかったのではないか?というドライな見方もあるようですが。
ただ、持統天皇がこの恋愛事件の沈静化を図るために、この穂積皇子を近江の志賀寺に派遣していることから考えると穂積皇子と但馬皇女が起こした密通が発覚し、世間の噂になってしまったことについて、高市皇子自身が自分の体面を傷つけられたと感じていた可能性もあるかと思われます。
また、当時の高市皇子は太政大臣という、威厳も力もある、重い地位にありましたし。高市皇子自身も、真面目で重厚な人柄であったことも、想像されますし。
このように、この恋愛事件の渦中にいた、三人の具体的な心理はわかりませんが。
「万葉集」には、115の但馬皇女の歌に関連する事情として、穂積皇子が勅命により、近江の志賀寺に派遣されたとあり、これはやはり、天武天皇の皇女であり、現太政大臣の妃である但馬皇女と穂積皇子との密通が露見し、宮廷の一大スキャンダルとなり、捨て置けなくなった当時の持統天皇の処置と考えられます。
そして穂積皇子に自重を促すために、こうして近江の志賀寺に派遣するまでの事態に発展してしまったようです。
ただ、万葉学者の伊藤博氏によるとこの穂積皇子は当時の彼の与えられていた食封やその他の記事から窺うと持統天皇から他の皇子達と比べて優遇されており。
つまり、穂積皇子は持統天皇に気に入られていた形跡が強く。
そしてこれには、おそらくその穂積皇子の人柄も関係しているのだろうが、他にも彼の母親が同じ蘇我氏であるというのも、持統天皇が彼に好意を抱いていた理由の一つではないかとも指摘しています。
だから持統天皇のこうした処置には、当時は太政大臣であった高市皇子の体面を保つ以外にも、この穂積皇子の立場をも繕う意図があったものとも思われるとか。
そして恋愛事件の渦中にあった三人のその後ですが。
当事者の一人であった、但馬皇女の夫高市皇子が持統天皇十年(696年)の八月十三日に、四十六歳で死去します。
そして、但馬皇女も和銅元年(708年)の六月に、 おそらく、三十代くらいで死去する事になります。穂積皇子の大体の推測される生年から考えて、穂積皇子がおそらく四十代前半くらいで亡くなる年の和銅八年(715)から七年前の和銅元年(708)に但馬皇女は死去しているので。
彼女が穂積皇子と同年代なら三十代半ばくらいだったのではないかと考えられるので。また、但馬皇女は病気にかかったことがあるらしく、彼女の木簡には彼女付きの役人の名前と共に但馬皇女のために薬を受給している内容が書かれているので。
そして彼女が三十代くらいで亡くなっているらしいことと但馬皇女に関するこうした記録などと併せて考えると但馬皇女の死因は病死であった可能性も高そうに思われます。
こうして、穂積皇子一人が残されました。
この但馬皇女の死を悼む、穂積皇子の歌が残っています。
なお、但馬皇女に関しては1988年に出土したその彼女の内親王宮の木簡から推測すると夫の高市皇子の宮に同居はしていたかもしれませんが。
しかし、当時の皇女達の名実共に高い地位を示す一例として、但馬皇女自身の宮があり、夫とは別に彼女は独自の家政機関を持ち、別個に財産管理を行なわせていたようです。つまり、但馬皇女自身の役所と役人を持っていたということです。
そしてこの家政機関というのは、天皇や貴族の日常生活を支えるため、それぞれの家に置かれていた部署の総称です。
律令制度では、高位の身分の者には国から家政機関と従者(帳内・資人など)が与えられ、家政機関を運営した。その運営は、国から配属される役人が担う。
家内労働に従事する人々への食料支給や勤務評定、所領の経営などが業務の中心。
但馬皇女というと既に天武天皇からの信頼も厚く、また十分な社会的地位も築いていた、年上の夫高市皇子の庇護を受けていたかのように連想しがちですが。
しかし、実際にはこの時代の他の多くの王族女性同様に、但馬皇女自身が十分な独立した財力を持っていたようですね。
そしてこうした点も、彼女をよけいに大胆に穂積皇子との情熱的な恋に走らせた面もあるのかもしれません。
「万葉集」 巻第一 一一四 秋の田の穂向の寄れるかた寄りに君に寄りなな 言 痛くありとも
意味 風によって稲穂が片方に靡くように、私も例えどんなに世間で噂されようとも、 ひたすらあなたに寄り添っていよう。

「万葉集」巻一 一一五 後れ居て恋ひつつあらずは追ひしかむ道の隈みに標ゆへわが背
意味 このまま後に残されて恋慕い続けるよりも、追いかけていこう。だから道の曲がり角に印を付けておいてください、あなた。
「万葉集」巻一 一一六 人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る
意味 あまりにも世間の噂が激しくうるさいので、今まで生まれて始めて、夜明けの川を渡る事よ。
この、「朝川渡る」というのは、具体的には何を表わしているのか、諸説があるようですが。そして伊藤博氏の以下の指摘と考察です。
「いまだ渡らぬ朝川渡る」は、普通は「まだ暗い朝の川を渡って会いに行く」と解釈されている。けれども、「朝」は男女が会って別れる時である。
通常の関係ではない、人目を忍ぶ中であればこそ、むしろ暗い夜に尋ねて夜の明けぬ内に帰るのが普通だろう。そしてそれは、山野の逢瀬であったとしても、変わらない。更にこの「川」というのは恋の障害を象徴し、「川を渡る」というのは恋の成就を願う行為であるとする民族が古くから見られること。
そしてこの但馬皇女の歌もそれで、皇女の身分である自分にとっては到底あり得ないこと。つまり、朝早く冷たい川を渡るというような事柄を歌うことで、裏に世間の目という障害に抵抗して、初めての情熱的な穂積皇子へのこの思いを全うするのだというような意味を込めているのではないかとのことです。
確かにこの朝の川を渡る表現は事実というよりも、象徴として、穂積皇子に対するそこまでの自分の強くて激しい情熱を表わしたものと考えた方が私も腑に落ちるような思いがします。
「万葉集」巻第八 一五一五 言繁き 里に住まずは 今朝鳴きし 雁にたぐひて 行かましものを
人の口のうるさいこんな里なんかに住んでいないで、いっそのこと、今朝鳴いた雁と連れ立ってどこかへ行ってしまえばよかったのに。国なんかにいないで。
この但馬皇女の歌は一応、秋の雑歌に収録されてはいるのですが。
しかし、「言繁き」というのは恋歌に出てくる人の噂を指していると思われ、実際は
恋歌として良いと思われます。
そしておそらく、穂積皇子とのことでいろいろと噂をされて煩わしいということを意味しているのでしょう。
それからこれも「万葉集」の歌には、いつも付きまとう要素でもありますが。
それは後世の人による仮託の可能性です。
この穂積皇子と但馬皇女の恋も歌物語的な要素が強いものであり、この点については多くの万葉学者達からも指摘されている点です。
だからこの但馬皇女の穂積皇子への恋歌や穂積皇子の挽歌にも、そうした仮託の可能性を指摘する意見もあります。
例えば但馬皇女のその一途で切実な恋心をまさに表わしているかのようなこの一首。
「一一五 後れ居て 恋ひつつあらずば 追ひ追かむ 道の隈に 標結へ我が背」
この時の題詞には「穂積皇子に勅して、近江の志賀の山寺に遣はす時に、但馬皇女の作らす歌一首」あり、おそらく、太政大臣高市皇子の妃である但馬皇女とこれも彼らとは血縁関係になる穂積皇子との密通により、騒動になっていたのを静めるため、持統天皇の命令により、穂積皇子が近江の志賀寺に派遣された時の歌ということでしょう。
しかし、この歌については、穂積皇子と但馬皇女の悲恋物語を盛り上げるための後世の人間により挿入された仮託であったとする、「但馬皇女と穂積皇子の歌について ―「言寄せの世界」の中での廣岡義隆氏の指摘が存在しています。
但馬皇女の一連の恋歌についての、以下の廣岡氏の主な指摘。
廣岡氏によるとそもそも、最初の但馬皇女の恋歌に付けられている題詞の「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思ひて作らす歌一首」というのは、高市皇子と但馬皇女が夫婦関係にあり、更に但馬皇女が高市皇子の妃として同じ宮に同居していたという意味ではなく、幼い時に母の氷上娘と死別した但馬皇女が長兄である高市皇子の宮に一時的に引き取られて、但馬皇女が十三歳くらいの時に母の氷上娘の実家の邸に移ったということではないのかとしているようです。
しかし、私はこうした廣岡氏の推測にも疑問を感じる点があります。
それはそんな風に年長の兄が自分と婚姻関係にある訳でもない、独身の妹を引き取り、面倒を見ていたなどの具体的な他の例が存在しないことです。
基本的にあの時代の皇族というのは、皆結婚していたようですし。
独身のままだったらしい皇族と言えば、天智天皇の娘である水主皇女くらいしか、そうした例が見当たりませんし。
特に具体的な理由も見当たらないのに、但馬皇女が独身を通す必要性がわからないというか。
また、同母の妹ならまだしも、異母の妹に対して、高市皇子がわざわざ、自分の手元に引き取って生活の面倒を見るということまでするものなのだろうか?という私の中での疑問も強く。
古代では基本的に同母の兄弟姉妹は同じ母方で育てられ、親しい関係を築く傾向でしたが。
しかし、これに対して、母親が違う場合はそれぞれの母方で別々に育てられて成長するため、あまり兄弟姉妹という意識は芽生えずらい傾向であったようですし。
それに具体的に但馬皇女の面倒を見る人々自体は、他に存在していたと思われますし。また、早くに母と死別したとはいえ、但馬皇女も天武天皇皇女なのだから特に経済的に困るようなこともなかったはずですし。
母と死別したからとはいえ、生活上の支障はなかったはずだと思われます。
やはり、題詞の「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思ひて作らす歌一首」」というのは但馬皇女は高市皇子と結婚して、その妃として同じ宮に住んでいたと捉えた方が私は妥当なのではないのかと感じるのですが。
少なくとも、「万葉集」の編纂者は、高市皇子と但馬皇女は夫婦関係にあったとして扱っていると思われますし。
そして廣岡氏の続いての指摘ですが。
従って但馬皇女が高市皇子の宮にいる時に穂積皇子を思って詠んだ三首というのは、但馬皇女が十三・四歳以前のものとは到底考えられない。
しかし、私はあの但馬皇女の三首についても、とても十三歳か十四歳の未婚の少女の皇女が詠んだものとは思い難い印象なのですが。
阪下圭八氏も指摘する「題詞を付し、序破急の展開にも似た物語化を行なった人々
がいたことになる」 とし、犬養孝氏の「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、密かに穂積皇子に逢い、事すでに顕われて作らす歌一首」・「但馬皇女の薨ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷流涕して作らす歌一首」の題詞に 「物語として伝えようとする者の意図を看取ることができる」 というのには同感ですが。
続けて廣岡氏の指摘。
①「一一四 秋の田の穂向の寄れるかた寄りに君に寄りなな 言痛くありとも」の歌の「君」と②の歌である「一一五 後れ居て恋ひつつあらずは追ひしかむ道の隈みに標ゆへわが背」の「背」が狙上に挙がるが、この相異は注目してよい。
「君」は一般に親しみをこめた意の場合も存するが、『岩波古語辞典』のように、「二人称の代名詞的に用いて」あなた「敬意をこめた三人称の代名詞的に用いて」あのおかた」と載厳と分けられるものではない。
一般的には、濃淡の差こそあれ、「君」には心理的距離感・敬意が存するものと見るべきで、「背」には対等に近い親しみを見てとるべきであろう。
②歌の場合、「我が背」と「背」の上に親しみをこめた「我」がの表現があり、「君」表現との間隔が大きい。
この事実から、①②歌は作歌時期を異にするとみるのも一案であるだろうが、私は①②歌の作者が異なる、即ち②歌は但馬皇女の真作ではない。
先の、「君」と「吾が背」 の呼称の相違を勘案すると、この②歌は但馬皇女の真作ではなく、第三者の但馬皇女への仮託。
そもそも、この①の歌と③の歌「一一六 人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る」の題詞も疑わしい部分があった。
「在高市皇子時」は「在但馬皇女宮時」であろうし、③の題詞中の「窺」「形」も物語的色彩が濃いという指摘があった。①③歌をその題詞から解放すると穂積皇子に宛てた歌か否かも明らかではなくなってくる。それが真相に近いものだろう。
即ち①③⑥歌は、うら若い但馬皇女が、但馬内親王宮にあって、恋歌の習作とて、弾む心を内に秘めながら綴った仮想のモノローグであろう。
る。但馬皇女の恋歌に類想表現があるのもそのため。
(①)「事痛」「人事」(③)「事繁」(⑥)(一五一五 「言繁き 里に住まずは 今朝鳴きし 雁にたぐひて 行かましものを」)と人の詠が並ぶのは、当時の恋歌の一般としての類想表現にも由来するが、また皇女の関心事が其処に存したからでもあろう。
①③⑥歌は高市皇子とも穂積皇子とも関わらない、但馬皇女の独詠で、歌物語とも無縁だった。おそらく、これが原形。
ついで①③歌が何らかの事情で作者の手を離れた。この間に「但馬皇女在高市皇子宮時」などという題詞が付けられた可能性がある。
この③の原歌は純粋にしてひたすらな仮想の恋歌であろうが、「在高市皇子宮時」 の題詞と「人言」・「末渡らぬ朝川渡る」 の表現とが相侯って、三人の三角関係にまで繋がれていったのではないのか。
そこへ、作者不明の歌層の中から、或いは多少の修正を施されて、②歌が加えられた。
そして⑦の穂積皇子の挽歌は元々、但馬皇女への挽歌でも、穂積皇子の作でもなかった可能性もある。
私も「万葉集」の歌のあり方などについて専門的に学んだ訳でもないので、一連の但馬皇女の恋歌の内容についてもその判断が難しい部分もあるのですが。
しかし、廣岡氏のこの但馬皇女が高市皇子の宮にいた時に作った歌というのは、実際には彼らが兄妹として同居していたこと示しているだけであり、従ってこれらの歌も
但馬皇女が年長の異母兄の高市皇子の下で世話を受けていた時にあくまでまだ恋に憧れる少女の空想の恋心を詠んだ歌群に過ぎない。
従って、穂積皇子との恋愛も実際には存在しなかったという結論には、私は賛同しかねる所がいくつかありますが。
既に私が指摘しているようにこの古代の皇族間で年長の異母兄が未婚の異母妹の世話をするなどという事例を他に見たことがないですし。
それに古代の皇族、特に天武天皇の皇子皇女達は結婚している人々ばかりであり、具体的な理由もなく、その中で但馬皇女だけが独身のままだったというのは考えずらいですし。
それにそもそも「万葉集」に掲載されている恋歌自体も、十三歳か十四歳くらいのまだ恋に恋するような年齢の少女が実際の恋愛対象となる相手も存在しないままに詠んでいるような内容の恋歌というのは見かけないような。
少なくとも、もう成人する年齢に達し、その上、実際に異性との恋愛が始まっている女性達の歌ばかりだと思うのですが。
だから但馬皇女の穂積皇子への一連の恋歌は、実際にはまだ恋愛の経験もない但馬皇女の架空の恋への憧れを個人的に読んだ恋歌に過ぎないとするのには、私は納得がいかないのですが。
ただ、確かに穂積皇子と但馬皇女を巡る歌には明らかに歌物語的な編纂がなされているという点については、私も同様の印象を強く受けています。
阪下圭八氏の「題詞を付し、序破急の展開にも似た物語化を行なった人々がいたことになる」 と指摘されているように、確かにまず但馬皇女の穂積皇子への恋の始まり、そして彼らは恋仲になるも、既に太政大臣高市皇子の妃であった但馬皇女と穂積皇子との許されない恋は多くの人々の知る所となり。
ついに事態の沈静化を図った持統天皇の勅命により、平城京から遠ざけられ、近江の
志賀寺へ発つ穂積皇子、そして都に残され、あなたを追いかけていきたいと訴える但馬皇女。引き離された二人。
そして数年後の但馬皇女の死に際して雪の日に泣きながら彼女の埋葬地の猪養の岡を眺めて挽歌を詠む穂積皇子。
「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思ひて作らす歌一首」・「穂積皇子に勅して、近江の滋賀の山寺に遣はす時に、但馬皇女の作らす歌一首」・「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、密かに穂積皇子に逢い、事すでに顕われて作らす歌一首」・「但馬皇女の薨ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷流涕して作らす歌一首」などの、このように物語的な起伏を持たせた、実に効果的な題詞が要所要所で挿入されることにより、彼らの恋物語を盛り上げる効果を果たしています。その中でもやはり、この天皇の命令により、穂積皇子が近江の志賀寺へ旅立ち、但馬皇女と引き離されることになるくだりは、最もドラマチックな印象を与えていますし。また、この時の穂積皇子への但馬皇女の歌も、このまま都へ残されてあたのことを恋焦がれているよりもいっそ、あなたのことを追いかけていきたい。
だから道の隈の神様ごとに標を結んでお祈りをしてください。
こんな何とも一途で情熱的な印象を与える歌ですし。
ただ、確かにこのようにこの一首が詠まれるまでの展開やこの歌自体があまりにもドラマチックな内容だからこそ、穂積皇子と但馬皇女の物語を一層効果的に盛り上げるための後世の人の仮託ではないのか?この一首は?という疑問が私の頭の中をよぎるのも事実ですし。
だから廣岡氏も指摘するようにこの一首は、確かに但馬皇女自身の詠んだ歌というよりも仮託である可能性もかなり感じられるようにも私は思いますし。
また、しばしば、「万葉集」には歌物語の要素が見られる点などからも、この但馬皇女の全ての歌が彼女自身の詠んだ歌だと考えてしまうのも、素朴過ぎるようにも思われますし。その内の一首くらいは、本人の作ではない、仮託が混じっている可能性もあると考えた方が適切なのかもしれません。
それにこの近江の志賀寺に赴くことになった穂積皇子に対し、但馬皇女が詠んだとされるこの歌も、あまりにもそうした題詞の記述と内容が一致し過ぎており。
またそれゆえにこそ、逆に最初からこうした題詞に合わせて、それに一致するような内容の歌が但馬皇女の歌として挿入されて、仮想現実を織り成している可能性も、十分に考えられる訳で。
それに「万葉集」の中ではドラマチックな傾向のある歌群程、当然、その物語性も強いと思われる点にも、十分注意が必要でしょうし。
それから穂積皇子の挽歌についても、私もこれまでにも何度もこれはもしかしたら仮託の可能性もあるのではないのだろうか?という疑問を覚えたこともあります。
どうも他の夫か恋人であった男性が女性の死に際して詠む挽歌と比べて、その表現や内容がかなり異なり、他に似た様な例が見られない点が私としてはかなり気にかかる所があり。
直接但馬皇女の存在は出さずに雪よ、そんなに降ってくれるな、吉隠の猪養の岡が寒いであろうから。つまり、この岡と但馬皇女の存在と同一視したような表現。
確かに大伯皇女が二上山を弟の大津皇子と同一視したような類似した表現が見られる
挽歌の存在もあるのですが。
しかし、穂積皇子のこの挽歌は、特定の故人と自然を同一視して詠んだものというよりも、どこか自然自体を擬人化して詠んだものなのでは?と思わせるような所もないでもなく。
つまり、本来この歌は挽歌だったのだろうか?という疑問というか。
しかし、これは穂積皇子が但馬皇女の死を悼んで詠んだ挽歌の内容としてもぴったりだと判断され、そうしたこれまたドラマチックな題詞まで付けられて、挿入されたという可能性も考えられなくもないというか。
雪の日に穂積皇子が涙を流しながら但馬皇女の埋葬された猪養の岡を眺めながら挽歌を詠んだという。
それに私もそれまではこれは高市皇子が個人的に十市皇女の死を悼んで詠んだものなのか?と思っていた十市皇女への挽歌と同じく、どこか異質な印象をこの穂積皇子の挽歌にはどこか覚えないでもない所もあり。
まず、この高市皇子からの十市皇女への挽歌の前後に並んでいる皇族への挽歌は、儀礼的だったり、公的な印象を感じさせるし、また他の天智天武系の皇子皇女のそれぞれの配偶者が死去した時の挽歌も、それぞれの先立たされた配偶者の皇子皇女から依頼された形で、宮廷歌人の柿本人麻呂が詠んでいること。
内容自体はそれ以前の時代の皇族の挽歌よりも、全体的に叙情性を感じさせるものとはなっているものの。
こういう傾向の皇族達の死についての挽歌なのに、なぜかこの十市皇女に関するそれだけは高市皇子が個人的に詠んでいるのかという私の疑問と違和感が。
そしてこれと同様の違和感を穂積皇子の但馬皇女への挽歌にも感じるというか。
特に「但馬皇女の薨ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷流涕して作らす歌一首」という、一際ドラマチックで物語的な題詞が付けられて扱われていることもあり。
基本的にこの「万葉集」の中では皇族達の死は公的なものとして扱われている印象なのに、なぜかこの但馬皇女の死だけは、その死に際しては穂積皇子が涙を流して悲しみながらその挽歌を詠んだという、極めて個人的で情感の込められた物語的なものとして扱われているという。
また、このように飛び抜けて穂積皇子の挽歌だけ、他の皇族達の挽歌とは違う扱いをされているのも、「万葉集」の編纂方針に所々感じられる、不統一性のようなものの表われでもあるような。
それに他の皇族への挽歌と比べた、こうした穂積皇子の挽歌の内容や性質の不統一性から考えてみるとやはり、この「万葉集」の中では、この但馬皇女の存在は全体的に歌物語のヒロインとして扱われている印象が強く、従って彼女へのその穂積皇子の挽歌までを含めて、意図的に一つの歌物語として仕立てられていると捉えた方がいいのかもしれませんね。
そしてこう考えていくと自然に穂積皇子の但馬皇女への挽歌についての、その作為性や虚構性などについても、考えざるを得ないというか。
それに考えてみれば何で但馬皇女が死去してから半年くらいも経ってから穂積皇子が
その挽歌を詠むのか?という疑問も感じないでもなく。
なぜ但馬皇女が死去した直後の夏の季節ではなく、それから半年くらいも経った冬の日である必要があるのか?
普通、挽歌というのはその人物が死んだ直後に詠まれるものではないのでしょうか。
また、そうではないと意味がないとも思いますし。
それに例えばこれも六月にその妾を亡くした家持も、ちゃんとその妻の死んだ直後に挽歌を詠んでいますし。
やはり、わざわざ但馬皇女の死去した六月から半年程も経ってからの雪の降る日に穂積皇子がその挽歌を詠む必要性があるとしたらそれは劇的効果、物語としてのリアリティーを出そうとしたということでしょう。
雪の降る寒い日にその年の夏に死去した但馬皇女の死を嘆き悲しみ、涙を流しながら
頼むからそんなに雪よ。猪養の岡の上に降ってくれるなと歌う穂積皇子の姿。
確かにこの歌の内容とこの詞書が表わす情景はぴったりとした一致を見せ、この歌に付随する物語としては絶妙にリアリティーを醸し出すことにも成功していますし。
その上、寒い冬の雪の日ということで、自然と穂積皇子の愛する女性の但馬皇女を失った、その孤独感や寂寥感も高められますし。
その人物の死からそれ程時間を経ない間に詠まれる現実の挽歌としての必然性よりも、歌物語の一部としての挽歌としての必然性の方に重点が置かれた結果ということでしょう。
本来ならその人物の死からそれ程日を隔てないで詠まれるはずのものであるべき挽歌、しかし、この穂積皇子の挽歌については、なぜかその詠まれている時期が但馬皇女の死から半年も経ってからの時期であるという不審さが示しているものは。
確かに冷静に考えてみれば、現実の但馬皇女の死について哀悼する目的の挽歌であるのにも関わらず、なぜかその詠まれた時期が彼女の死から半年も経てからであるという、かなりおかしな点もこの穂積皇子の挽歌には見られる訳ですが。
それに穂積皇子の挽歌に感じる不審さとしてはその詠まれている時期だけではなくて、その当時の穂積皇子の立場からしてもあり得るのか?ということです
但馬皇女が死去する和銅元年から三年前の慶雲二年からは穂積皇子は知大政官事という、太政大臣・左右大臣に準じる地位にある人物です。
現実ではそんな既に四十代近い、こうした高位の地位にある人物が大政大臣高市皇子の妃の挽歌なんて、泣きながら詠むことなどはあり得ないことがわかりますし。
やはり、「万葉集」の中で但馬皇女のために雪の日に泣きながら挽歌を詠んでいるのは現実の穂積皇子ではなく、物語の中の人物としての穂積皇子なのでしょう。
しかし、まさにこの挽歌の内容とその題詞の伝える所の、雪の降る寒い日、穂積皇子が遠くから吉隠の猪養の岡を眺望しつつ、但馬皇女の挽歌を詠むという説明が完全な一致を見せており、そのことが自然と読者の私達にも強い臨場感を感じさせ、穂積皇子の挽歌に真実味を感じさせることにもなっている訳ですし。
実際にも穂積皇子の挽歌が詠まれた時期の他にも、このように当時の穂積皇子の立場などからも感じる、こうしたこの挽歌に感じる現実感のなさもも思わず忘れさせてしまう効果もあるし。
そしてこうした穂積皇子の挽歌に見られる演出効果も「万葉集」の中では、その歌の配列や構成、そして付される題詞が一体となって、歌物語を形成している例の一つとも言えるでしょう。
それから天智・天武系の皇子・皇女達の間でその配偶者の死について、個人的に詠まれた哀悼の挽歌が他には見られないからという点も大きいのですが。
但馬皇女に関してだけはなぜか個人的な穂積皇子の挽歌が見られることに私が感じる違和感の原因としては。
また、高市皇子の十市皇女への挽歌をそうした例の一つとして捉えることには、個人的には疑問を感じるというのは、私も既に書いていますし。
このように穂積皇子の但馬皇女への挽歌については、私も仮託の可能性も感じる部分はあるものの。
とはいえ、実際に穂積皇子と但馬皇女の間に恋が存在した可能性までも、私も完全に否定している訳ではありませんが。
そして彼らの間には同年代の皇子皇女という親近感も存在していそうですし。
それに以下の賀古明氏の指摘。
持統四年(690年)に高市皇子が大政大臣に任命された時から、高市皇子薨去の持統十年(696年)までの間に、「日本書紀」に記録の出てくる皇子は、草壁・高市・河嶋以外には、舎人・長・穂積・弓削の四皇子で、この内「浄広弐位」の冠位を最も早く授けられているのは穂積皇子である所から、高市皇子が太政大臣在任中、穂積皇子は最重要視され、高市皇子と穂積皇子の親交の仲で、高市皇子宮にいた但馬皇女は訪れ来る穂積皇子に慕情を抱くようになった。
つまり、穂積皇子が十代後半から二十代前半までの間に、大政大臣高市皇子との仕事上の関わりの中で、その高市皇子の妃である但馬皇女と出会ったらしいということですね。
それから確かにこうした夫高市皇子と穂積皇子との仕事を通した関わりの中で、穂積皇子と但馬皇女が顔を合わせることも多くなり、その内に彼らが恋仲になったことも考えられますし。(ただ、この賀古明氏はあくまでも、但馬皇女が一方的に穂積皇子に思いを寄せていただけという見方のようですが。)
それに「万葉集」の編纂者である大伴家持の叔母である坂上郎女の夫であったのがこの穂積皇子でもありますし。
こうした関係から坂上郎女も直接、穂積皇子自身の口から遠い昔の但馬皇女とのことについて聞くこともあったのかもしれませんし。
このようにおそらく、実際の穂積皇子と但馬皇女の関係について十分に知り得る立場にあった坂上郎女という人物が家持の叔母である点が、穂積皇子と但馬皇女との恋が全くの虚構ではなかったと感じさせる部分も残している理由にもなっていると私は思いますし。
それに実際にもおそらく、まずこの坂上郎女によって、穂積皇子と但馬皇女の悲恋物語が語られることとなり、以後長く、人々の間に語り継がれるようになったのではないのかとする研究者の指摘も存在していますし。
そして私もそうした可能性も、十分に考えられると思いますし。
坂上郎女は穂積皇子から直接但馬皇女とのことについて聞いた一人だと思われますし。
そして問題なのは但馬皇女の穂積皇子への恋歌がどれだけ事実を反映しているのか
また穂積皇子と但馬皇女の関係についての関係の濃淡です。
この点についても、昔から諸説あるようですが。
ついに彼らは結婚にまで至ったとするもの、あるいは穂積皇子と但馬皇女は愛し合っていたものの、ついに結ばれることないままだったとするもの。
あくまでも但馬皇女の一方的な思いに過ぎないとするものなど。
そもそも、彼らの間には実際には具体的な恋愛感情は存在しなかったとするもの。
しかし、穂積皇子が但馬皇女とのことについては、彼女と別れてから十数年くらい経ってから後に自分の妻となる坂上郎女に話すくらいですから、穂積皇子にとって但馬皇女は忘れ難い女性、やはり彼の方にも但馬皇女への好意は存在していたと考える方が自然なのではないのでしょうか。
それから坂上郎女の生年については、小野寺静子氏はおそらく、恋人であった藤原麻呂と同じくらいの生年だろうとして、持統十年(696年)の生まれと見ています。
私もこの見方にはかなりの説得力を感じるので、私も採用させてもらうことにします。
だからおそらく、坂上郎女は和銅四年(711年)頃に嫁いだと考えられます。
ということは、但馬皇女の死から三年後くらいに穂積皇子は坂上郎女に彼女とのことについて話したということになりますね。
そしてもし穂積皇子と但馬皇女の関係が実際には彼らがお互いに心の中で思い合うだけのプラトニックな恋、あるいは但馬皇女の一方的な思いに過ぎないものであったのなら。
それなら、もう穂積皇子が坂上郎女と結婚する何年も前から、既に穂積皇子とは疎遠な関係になっていたことが想像される但馬皇女。
おそらく、高市皇子と穂積皇子との仕事上の関わりを通して、穂積皇子とは交流の機会があったと思われる但馬皇女。
しかし、既に高市皇子の死去する数年前には、様々な恋の障害からついに穂積皇子と但馬皇女は別れざるを得なかったと考えられますし。
更に高市皇子も既に十数年も前に世を去っており、またこのことから以降は但馬皇女も未亡人として、自分の内親王宮でひっそりと暮らすようになったと想像されますし。
そしてこれで穂積皇子と但馬皇女が具体的に関わる機会は事実上、完全に失われたとも言えますし。
また、ついにはそれからこの但馬皇女自身も既に数年前には世を去り。
そうした場合にもしこのように実際の穂積皇子と但馬皇女の関係は薄いものであったのなら、穂積皇子が自分と但馬皇女とのことを誰かにわざわざ、語りたいと思ったり、そして聞かされた坂上郎女の方も彼らの話をぜひもっと多くの人々にも知ってもらいたいと思い、広めようと思うものなのでしょうか。
やはり、穂積皇子の語る但馬皇女との話に第三者である坂上郎女が強く心を動かされる要素が存在していたからということなのではないのでしょうか。
それは「万葉集」の中で伝えられている内容が穂積皇子と但馬皇女との現実の恋の姿そのままではないかもしれないにしても、彼らの悲恋自体は事実として存在していたのではないのでしょうか。
それに片思いでもない限り、あの古代に両思いなのにプラトニックな恋というのは、果たして存在し得たのだろうかとも感じますし。
それから情熱的な悲恋が想像される、穂積皇子と但馬皇女の恋なのに。
それなのになぜ穂積皇子から贈られた但馬皇女への恋歌は「万葉集」には見られないのか?という疑問についてですが。
(それにだからこそ、穂積皇子の方は但馬皇女のことは、そんなに好きでもなかったのではないのか?あくまでも但馬皇女の方が一方的に思いを募らせていただけなのではないのか?と見られることもあるのでしょうし。)
私はこれは家持と恋人だった女性達の場合と似たようなケースで、実際には穂積皇子から但馬皇女へ贈られた恋歌自体は存在していたものの、それらが具体的な形として残らなかったことも考えられるのではないのかとも思うのですが。
家持からの笠女郎やこれも彼の他の恋人だった女性達への贈歌自体も、実際には存在していたことが十分に想像されるものの。
しかし、これは万葉学者からの指摘もあるように、家持の恋歌は両思いのそれとしてではなく、あくまでも片思いとしてのそれこそが追求されるべきテーマだという判断などの理由から、あえて自分の贈った女性達への恋歌は掲載しないことにしたのだろうとも指摘されていますし。
そしてその理由自体は違うであろうものの、穂積皇子からの但馬皇女への恋歌も実際には存在したものの、具体的な形として残すことができなかった理由があるのではないのかと私には思え。
おそらく、但馬皇女が自分や穂積皇子の安全を考え、穂積皇子からの恋歌は処分してしまった可能性も考えられるのではないのかと私は思うのですが。
また、穂積皇子の方からも、自分からの歌は読んだらなるべく早く処分することを但馬皇女が頼まれていた可能性もあるかもしれないですし。
しかし、さすがにこれも穂積皇子との恋の証ともなる、自分のいくつかの歌には、但馬皇女も愛着があり。
だから自分の穂積皇子へ贈った恋歌だけは、穂積皇子に贈った後に手控えとして、その手元に残しておくことにしたのではないのでしょうか。
穂積皇子からの歌さえ残さなければ、いざとなったら自分が具体的な誰かを対象に詠んだ訳ではなく、独詠という形で自分一人で詠んだだけということにもできると考えて。
そして但馬皇女の恋歌にこれは独詠なのではないのか?と感じさせるものがあるのも、そうした理由があるのかもしれません。
実際にも但馬皇女の恋歌については、これは穂積皇子を対象に詠んだ訳ではなくて、但馬皇女の独詠ではないのか?とする万葉学者の見方も存在していますし。
もしかしたら但馬皇女自身が穂積皇子に贈った恋歌も現在「万葉集」に掲載されているものよりも、多く存在していたのかもしれませんし。
しかし、その恋歌の内容からさすがにこれは具体的な誰かを対象にした訳でもなく、自分一人で詠んだだけのものだとするのは難しいのではないのか?と但馬皇女が判断した恋歌は全て処分してしまったとか。
人目を忍ぶ恋だったものの、但馬皇女は自分に何回も恋歌を贈ってくれたんだよと穂積皇子がその時の感動を坂上郎女に話し、それを聞いた坂上郎女もまた強く感動ということも想像できるような。
それにどうも穂積皇子の但馬皇女への挽歌については、但馬皇女の死に対してその挽歌が詠まれている時期があまりにも遅過ぎること、またその内容や表現などからいろいろと本当にこれは穂積皇子自身の挽歌なのか?仮託なのではないのか?という疑問が残ること。
このように実際には、穂積皇子は但馬皇女の死に際して挽歌を詠んではいなかったらしいと考えられる点についてですが。
しかし、これも穂積皇子が但馬皇女の死を悲しんでいなかったからというよりも。
穂積皇子としては、自分は但馬皇女の正式な夫でもないし、また彼女とは許されない恋愛関係であった自分が彼女の挽歌を詠むことはできない。
このようにかえって、但馬皇女の挽歌を詠むことが憚られたということもあるのかもしれません。
それに当然、穂積皇子も但馬皇女の死については、悲しんでいたことだと思いますし。また実際にも早過ぎる但馬皇女の死だとも思いますし。
但馬皇女が死去した時もその挽歌を詠むこともできず、密かにその死を悼むことしかできなかったその無念さについても、穂積皇子は坂上郎女に話していたのかもしれません。
それからもしかしたらおそらく、穂積皇子と但馬皇女の悲恋物語の最後の重要な一要素として挿入されたと思われる、あの雪の日の挽歌も、もしかしたら実際は但馬皇女のための挽歌を捧げたかったであろう、当時の穂積皇子の気持ちを想像して、彼のために挿入されることになった部分もあるのかもしれません。
穂積皇子と但馬皇女の恋が「万葉集」の中で歌物語化された結果としてだけではなくて。本当はそうしたかったであろう、穂積皇子に成り代わってというか。
それからこの穂積皇子と但馬皇女との関係について考えるのにあたっても、穂積皇子からの贈歌や返歌があるないという点にばかりこだわり、主にそこからばかり想像を膨らませるのも。
全体的に史料不足の傾向が強い古代であることもあり、私はあまりにもそうした文献史上主義に陥り過ぎてしまうのも、問題ではないのかと感じる部分もありますし。
あくまでも「万葉集」に残された歌に基づいて、研究をするという万葉学者の立場からすればそうした傾向になりやすいのも、しかたがないのかもしれませんが。
それから「万葉集」の中では、おそらく、持統天皇が穂積皇子と但馬皇女の密通が原因により起きた人々の噂を静める目的からひとまず、穂積皇子を都から遠ざけ、近江の志賀寺に派遣したかのような印象を与えていますが。
しかし、これについても、土屋文明氏は単なる使者とし、北山茂夫氏は持統志賀行幸に関わりを持つ参向とし、黒沢幸三氏は、これは抜擢で穂積皇子の政界への初登場としています。そして賀古明氏は川島皇子の冥福を祈るための派遣、渡瀬昌忠氏は持統四年四月十三日の仏事と関わり、近江朝の鎮魂のためと指摘。
いずれにしても、穂積皇子の近江の志賀寺派遣は実際は謹慎命令などではなく、公務だとする見方が多いようです。
そして自分の論文の中で、これらの見方を紹介している廣瀬氏も同様の見方を示し、以下のように指摘。
おそらく、この崇福寺だと考えられる寺への穂積皇子派遣は、藤原遷都(持続八年十二月六日)後、程遠からぬ頃、遷都の報告として持統天皇の勅命により遣はされたものではなかったか。
崇福寺は天智天皇即位時に建てられた寺で、天智天皇の菩提寺だった。
娘持統天皇が亡父天智天皇に遷都の報告をするのは当然のことである。
確かに「万葉集」の但馬皇女の歌の配列や詞書の中では、穂積皇子と但馬皇女の恋はついには持統天皇からの事実上の謹慎命令をも招くという、いかにも大事に発展してしまったかのような印象を与えていますが。
しかし、確かにこれにも物語的な誇張などが加えられている可能性も、十分に想像できますね。
そして確かにこの穂積皇子の崇福寺派遣自体はあったれっきとした公務の一環であった可能性の方が高いかもしれないとはいえ。
しかし、「万葉集」の詞書と似たようなことが穂積皇子の崇福寺派遣自体とはまた別に存在していた可能性も考えられるのではないのかとも私には思われるのですが。
つまり、人々の間で穂積皇子と但馬皇女のことが噂になってきており、持統天皇からの内々の訓戒が穂積皇子に行なわれたことがあったとか。
(これだけでも、十分に穂積皇子にとっては、絶大な効果があったと思われますし。)
そしてそれがその内に「万葉集」の編纂者による、穂積皇子と但馬皇女の恋の物語化に従い、穂積皇子の崇福寺派遣にまで結び付けられて、こうした詞書に発展したことも考えられるのではないでしょうか。)
このように穂積皇子と但馬皇女の関係についての人々の噂、そしてそれがひいてはついに天皇の介入までをも招いたという事実が全く存在しなかったというよりも。
このようにある程度、それに近いことが実際にも存在しており、それが更に「万葉集」の編纂の過程で殊更大事に、そしてドラマチックに仕立てられていったと見た方が個人的にはより納得がしやすいのですが。
そして「万葉集」に掲載された但馬皇女の歌と穂積皇子の挽歌、そしてそれらの歌に付けられた詞書がどこまで現実の彼らの恋を反映していると判断しても良いのか?という問題ですが。
私の見る所では、穂積皇子と但馬皇女の恋は本格的な騒動に発展する前に終わったのではないのかと思われるのですが。
おそらく、既に人々の間で自分達の恋が噂になり、困難を感じ始めていたと思われる穂積皇子と但馬皇女。
更にそうした噂がその内に持統天皇の耳にも入り、持統天皇からの穂積皇子と但馬皇女とのことについての、穂積皇子への内々の訓戒までもがあったとしたら?
人々の噂に加えて、天皇からの忠告までもが行なわれれば、穂積皇子と但馬皇女も別れるしかなかったのではないのでしょうか。
それにその方が現実的なようにも感じられますし。
「万葉集」の中の「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思ひて作らす歌一首」という詞書と共に紹介されている但馬皇女の最初の歌「秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛くありとも」。
これらの内容はいかにも穂積皇子との関係が既に人々の間でかなりの噂になっているにも関わらず、但馬皇女がそれをも恐れない、自分の一途で強い穂積皇子への恋心を詠んだのかのような印象を与えてはいますが。
更にそんな状況の中、勇敢にしかももしかしたらまさか皇女自ら前例のない、女性の方から男性の許を訪れていくという行動を起こしたのか?
あるいは穂積皇子との恋のためにそこまでやりかねない程の自分の強い思いを堂々と歌っている?と思わせるかのような三首目ですし。
「人言を 繁み言痛み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る」
そしてこれも仮託なのでは?という指摘がしばしば見られ、そのあまりにもドラマチックな題詞とそれにいかにも合わせたかのようなこれまたいかにもドラマチックな歌の内容から仮託の可能性が強いのでは?という疑問を私も抱いている一一五番歌。そしてこの朝川の一一六番歌は、但馬皇女の作とはされているものの、実際には伝承的性格の著しい歌であるという万葉学者の指摘もありますし。
確かにこの一一六番歌も、あまりにも大胆かつドラマチック過ぎる内容と調子であり、それゆえにこそ、伝承歌なのでは?という私の中での疑問も強く。
こうして考えてみると現在「万葉集」に掲載されている一一四番歌と一五一五番歌が但馬皇女自身の詠んだものであるのかもしれません。
それにこうして「万葉集」に歌物語として掲載されている時点で、彼らの恋についても実際の姿よりもよりドラマチックに大幅に増幅された形で伝えられていると考えた方が良いでしょうし。
となるといかにも高市皇子の宮に一緒に住んでいるにも関わらず、大胆にも但馬皇女が穂積皇子との逢瀬を重ねていたかのような印象を与える題詞の内容自体も、信憑性について疑ってみた方がいいのかもしれません。
読者達に殊更衝撃的な印象を与えるために、そんな印象を与える題詞の内容にしたのかもしれませんし。
また但馬皇女のような皇族の場合は妻問い婚の後はやはり夫の許に同居していたのか?それとも妻方へ夫が入ったのか?それとも妻が夫の方へ入ったのか?
つまり「妻方居住婚」か、「夫方居住婚」かについては、古代の研究者達の間でも議論があるようですし。
だから高市皇子との結婚前も、また結婚後もそして高市皇子との死別後もずっと但馬皇女が自分の内親王宮に居住していた可能性も考えられそうです。
ちなみに黒沢幸三氏は出土した木簡の「多治麻内親王宮」と記されている、但馬皇女の内親王宮は高市皇子との間に子供がいなかった但馬皇女が新たに内親王宮を造営させて住んだと考えているようですが。
しかし、この宮は但馬皇女が独身の頃から所有しており、更に高市皇子と結婚してからも住み続けていた可能性も考えられるとも私は思うのですが。
未婚のままだった大伯皇女も、独自の内親王宮を持っていたようですし。
こうした皇女独自の宮は未亡人に限定されるようなものではないと考えられます。
また、こうした黒沢氏の想像は皇族夫婦は同居するものという見方を前提にしているようですし。
それにこのように高市皇子と結婚してからもずっと自分個人の所有する宮に住んでいる場合の方が夫ではない穂積皇子とも会いやすそうですし。
元々、但馬皇女とは兄妹?姉弟?の関係でもあるし、それに彼女の夫の高市皇子とは仕事上での関わりもあるからということで、穂積皇子が高市皇子の妃である但馬皇女の宮に挨拶などをきっかけに訪れるようになったのかもしれません。
穂積皇子と但馬皇女の関係についての、「万葉集」などの中での高市皇子の反応が伝えられていないことも関係して、今までは高市皇子と但馬皇女との夫婦関係については私もよくわからないという印象が強かったのですが。
しかし、こうしていろいろと考えていくとあまり高市皇子と但馬皇女の夫婦仲自体も良くなかった可能性も考えられるようにも思いますし。
(彼らの間にはかなりの年齢差が存在すること、またその結婚自体も政略的な結婚の印象が強い印象などから考えても。)
そんな中、但馬皇女とは同年代でその上、彼女からしたら大変に好ましく感じる男性の穂積皇子が現われたということだったのではないでしょうか。
それにその場合も、おそらく、別に高市皇子と但馬皇女のどちらが悪いとかでもなく、単純に相性的な問題だったのではないのかと思いますし。
また、永井路子や三枝和子などの作家達も、「女帝・氷高皇女」や「よみがえる万葉人」などの中で穂積皇子と但馬皇女の情熱的な恋が伝えられていることに加えて、高市皇子と但馬皇女の間にもそんなに特に強い愛情や関心が存在していたという訳でもなかったのではないのか?というような見方を示していますし。
永井路子の方は一夫多妻制で高市皇子には但馬皇女だけではなく、複数の妻が存在していたからという理由などを挙げているのに対し、特に三枝和子の方は高市皇子と但馬皇女は不仲だったとしていますし。
ちなみに三枝和子も高市皇子と但馬皇女との結婚は、但馬皇女の母が藤原氏出身の女性であるなどの、高市皇子と藤原氏との関係によるものと考えているようです。
それに両者とも穂積皇子と但馬皇女の関係についての、「万葉集」の中などでの高市皇子の反応が伝えられていないからというだけではない、高市皇子の穂積皇子と但馬皇女との関係についての、ひいては高市皇子の但馬皇女への関心の薄さのようなものを漠然とながらも感じ取っているのではないのかと思われますし。
そして私もどことなく、そんな気配を感じないでもないというか。
「万葉集」の中での穂積皇子と但馬皇女の恋物語については、これも重要な関係者の一人であるはずの高市皇子ですが。
しかし、全体的にこの中では彼の影が薄い印象であり、詞書の中に穂積皇子と但馬皇女の恋についての高市皇子の反応が一切書かれていないのも、彼らの関係が発覚した時も、高市皇子が特にこれといった強い反応を示さなかったからということとも、関係があるのかもしれないですし。
それに穂積皇子と但馬皇女の恋について、夫である高市皇子は大変な怒りを現したなどと書けば、「万葉集」の中での穂積皇子と但馬皇女との悲恋物語自体も、より盛り上がりそうにも思えますし。
しかし、当時の実際の高市皇子の反応については、この時の当事者の一人である穂積皇子から坂上郎女が直接聞いて知っていたために、さすがに事実と全く違うことはいくら歌物語の詞書の内容としても、書けなかったということなのではないのでしょうか。
但馬皇女の夫であったらしい高市皇子の存在を示すことで、辛うじてこの物語については彼ら三人の三角関係的な印象を与えてはいるものの。
そして想像される、そうした日頃からの高市皇子の妃の但馬皇女への関心の薄さも関係してということなのでしょうが、三枝和子はそもそも、高市皇子は穂積皇子と但馬皇女との関係に気づいてもいなかったとしていますし。
それに但馬皇女の宮への、夫の高市皇子の訪れも極めて稀、あるいはたまに訪れても泊まらないで短時間で帰ってしまう。
もし、高市皇子と但馬皇女との夫婦関係がこのような状態であったとしたら、但馬皇女の女官も穂積皇子と但馬皇女の恋に共感を示して、よけいに彼らの秘密は守られやすそうな部分もありそうにも思われますし。
元々の想像される彼らの不仲に加え、特に持統四年に高市皇子が太政大臣になってからはその多忙さもあり、ますます、但馬皇女からその足が遠のいたとしても不思議ではありませんし。
そしてそんな状況の中、穂積皇子と但馬皇女との間に密かな恋が生まれる理由は十分に考えられます。
それに高市皇子から但馬皇女が大変に寵愛されている妃であったならそれだけ自然と多くの人々からも注目もされやすいでしょうし、またその分、彼女も自由な行動もしずらかったであろうとも想像されますし。
また、但馬皇女がそこまで寵愛する妃であったならば高市皇子も忙しくても何とか時間を作って、定期的に彼女の許を訪れようとするはずではないのかとも想像されますし。
こんな状況であったのならば、当然、穂積皇子と但馬皇女が恋人になるのもかなり難しいかっただろうと考えられます。
それから私は実際の穂積皇子と但馬皇女の恋について考えていく内にこれも彼らの恋に関わる、重要な人物を忘れていたことを思い出しました。
それは但馬皇女の叔父であり、おそらく高市皇子と但馬皇女の結婚も主導したと思われる藤原不比等です。
不比等としてはゆくゆくは自分の姪で高市皇子に嫁がせた但馬皇女が皇子を生んでくれることを期待していたはずです。
しかし、そんな彼からすれば許し難いことだったと思われる、穂積皇子と但馬皇女の
密通です。
それに彼の立場からすれば、高市皇子に嫁がせた自分の姪の起こした恋愛スキャンダルということで高市皇子に対してもきまりの悪い思いであったでしょうし。
もしかしたら穂積皇子と但馬皇女の密通について激しく怒っていたのは、高市皇子よりもこの藤原不比等だったのかもしれません。
そしてこの藤原不比等の存在からは自然と大変に彼に目をかけていた持統天皇の存在までもが連想されますし。
それにこの藤原不比等が穂積皇子と但馬皇女のことについて持統天皇に以下のようなことを語り、天皇からの穂積皇子への忠告を期待したことも考えられます。
本当に穂積皇子と自分の姪で高市皇子の妃である但馬皇女のことには頭を痛めている。自分からも二人にそれとなく注意をしてみたのだが全く効果がない。
どうか天皇からも穂積皇子に忠告をしてもらえないものか。
それで確かにこれは捨て置けないと判断した持統天皇から穂積皇子への内々の訓戒が行なわれたことも、十分に想像できますし。
持統天皇からすれば高市皇子は重要な右腕ですし、また藤原不比等も日頃から自分が高く評価している大切な廷臣ですから。
しかし、「万葉集」の中では穂積皇子と但馬皇女の恋に関しては、これも見逃せないと思われる人物であるこの藤原不比等の存在は完全に無視されています。
おそらく、それも意図的なものなのでしょうが。
この藤原不比等の存在こそ、穂積皇子と但馬皇女の恋を巡る、現実のシビアな政治的事情を象徴する人物そのものだったからでしょう。言わば現実そのものと言うか。
そしてこんな藤原不比等は穂積皇子と但馬皇女の恋物語の中の登場人物には、相応しくないと判断されたのでしょう。
だからこの穂積皇子と但馬皇女の恋物語も、彼らのその恋の現実の姿をそのままに再現したものではなく、「万葉集」の編纂者の一定の方向性や美意識によって再構成されて更に物語的な装飾をも施されて掲載されていることにも改めて気づかされます。
「万葉集」の中では穂積皇子と但馬皇女の恋はあくまでも高市皇子と穂積皇子、そして但馬皇女三人の中だけでの極めて限定的な人間関係の中でのものとして、扱われています。
それは最低限の物語の背景程度の存在として、穂積皇子と但馬皇女の関係については、世の人々の噂で騒がしかったらしいような説明も一応、付けてはいるものの。
しかし、この三人以外の人々の存在はこのように不特定多数、匿名の要素が強い扱われ方であり、具体的な個人の存在としては高市皇子と穂積皇子、そして但馬皇女以外の人物の存在は抹消されています。例外としては、穂積皇子を冷静にさせるため、一時的に穂積皇子を都から遠ざけ、近江の山寺に派遣した持統天皇の存在がありますが。
しかし、この中でのこの天皇の存在も、あくまでも高市皇子と穂積皇子の両方の立場を考慮した温情に基づいての、こうした穂積皇子への命令を出した天皇という扱われ方です。
これと関連して、伊藤博氏の以下の指摘も注目される内容ですし。
「三首は、天皇が介入してさえ、なおかつ、めげない女の愛のたかぶりを奏でた世にも希少な恋歌として、人びとにもてはやされたのであろう。両皇子への天皇の思いやりを前提とする事柄に対する抵抗であるがゆえに、かえって、安心して享受される面もあったのであろう。しかし、これが政治的事件であればそうはいかない。男女本然の「恋」の事件であることが、物語的に楽しんで伝えるゆとりを誰の心にも与えたのであろう。事実、「万葉集」には、この三首よりもっと露骨な場合、勅勘に関わる場合の恋歌などを、それゆえに悲しく美しい歌々と見て、たくさん収めている。
恋は、どんな恋も、めくじら立てずに語り伝えられる甘みを、常に秘めている。罪なき話題は、いつの世にも恋なのであった。」
しかし、このように伊藤博氏が指摘する穂積皇子と但馬皇女の恋は、あくまでも「万葉集」の中で最初からそのようにアク抜きされた美しい形として、現実の生々しくてシビアな政治的事情は一切排除した結果としてのそれと見るべきなのではないのでしょうか。現実の彼らの恋自体もそうであったというよりも。
そして伊藤氏が指摘するように、持統天皇の穂積皇子を一時的に都から遠ざける処置も、あくまでも持統天皇の高市皇子と穂積皇子個人への思いやりの上の命令であるかのような描かれ方ですし。
これもシビアな政治的配慮の要素は一切排除されて。
おそらく、実際にも持統天皇からの穂積皇子への但馬皇女とのことについて行なわれた可能性が考えられるその訓戒も、その理由としては持統天皇の高市皇子や藤原不比等との関係からの配慮もあるでしょうが。
その他にも高市皇子の妃である但馬皇女と穂積皇子との密通により、高市皇子と穂積皇子との関係に大きな亀裂が入り、仕事上の支障が出ることも危惧したのではないのでしょうか。
やはり、このように現実の穂積皇子と但馬皇女の恋と「万葉集」の中での彼らの恋との間にはいろいろな隔たりが見られます。
但馬皇女が持統天皇の片腕である高市皇子の妃というだけではなくて、こちらも持統天皇との関わりも深い廷臣である藤原不比等の姪でもある時点で、穂積皇子と但馬皇女との恋が高市皇子、穂積皇子、但馬皇女三人だけの問題で済む訳がないだろうとも思われますし。
それにこれも伊藤氏の指摘にもあるように、確かに「万葉集」の歌の中から見た限りでは、但馬皇女は持統天皇が高市皇子と穂積皇子の立場を配慮し、一時的に穂積皇子を都から遠ざけ、つまり、但馬皇女の許から遠ざけるために穂積皇子を近江の山寺へと派遣しているのにも関わらず。
しかし、この詞書が添えられて掲載されている但馬皇女の歌は何とも大胆不敵で情熱的です。
「穂積皇子に勅して、近江の志賀の山寺に遣はす時に、但馬皇女の作らす歌一首
一一五 後れ居て、恋ひつつあらば 追ひ及かむ 道の隈みに 標結へ我が背
後に一人残って恋焦がれてなんかおらずに、いっそのこと追いすがって一緒に参りましょう。道の隈の神様ごとに標を結んでお祈りをして下さい、あなた。」
このようにまるで天皇の介入も意に介さず、それ所か天皇でさえもこの自分の穂積皇子への恋心を禁止することはできない、そして自分達を引き離すことができないと高らかに宣言し、その穂積皇子への激しく情熱的な恋心を強く訴えている大胆で情熱的な女性の印象です。
まさにその三首のいずれも、夫の高市皇子と同じ宮に住みながらもその場所で夫以外の他の男性を思う恋心を堂々と歌い、また、どんなに世間の噂がうるさかろうが問題ではない、秋の穂が一方に片寄っているように、ただひたむきにあなたに寄り添っていたいと言い放つ。
また、天皇の命令など知ったことではない、こうして天皇の命令により、都から遠ざけていくあなたにただ恋焦がれてなんかいるのは嫌だ。
あなたを追いかけていきたい。
これら三首の中では、密通についても、またその密通が暴露されたことについても、一歩もたじろがぬ女性の強烈な恋心が見事に表現されています。
しかし、現実としては穂積皇子と但馬皇女は、世間の噂や天皇の権威と権力などの障害についに逆らうことができず、彼らの恋は終わりに向かっていったと想像されますし。
「万葉集」の中での但馬皇女は、穂積皇子との恋のためならまさに何者をも恐れない、大胆で情熱的な恋のヒロインにされていると言っていいでしょう。
それから穂積皇子と但馬皇女の恋物語については、既にこの恋に関わる高市皇子と穂積皇子、そして但馬皇女が三人とも他界しているために好き勝手にいろいろと創作された可能性も考えられるとは思いますが。
しかし、中臣宅守と狭野弟上娘子の恋物語同様、やはり、こちらも一定の事実に基づいて創作された物語だと考えてもいいのではないのでしょうか。
実際は恋人同士でもなかった二人を、さすがに「万葉集」の歌物語の中でも恋人同士にまではしたりはしないだろうし。
それから賀古明氏の指摘のように穂積皇子と但馬皇女の関係は一方的に穂積皇子に但馬皇女が思いを寄せていただけだけだとすれば。
実際の但馬皇女がそんな大人しい女性なら、「万葉集」であのような悲恋の歌物語に発展していく程の強い関心を坂上郎女や家持が抱くのだろうか?という疑問を私は覚えますが。
それにいくら「万葉集」の歌物語と言えどそんなに現実の但馬皇女とかけ離れた人物像にまで創り上げられないのではないかとも考えられますし。
あの「万葉集」の中の但馬皇女の姿は、実際の但馬皇女の姿をある程度は反映しているのではないかとも私には感じられますし。
それから廣岡義隆氏の指摘する、穂積皇子と但馬皇女の歌物語はそもそも、但馬皇女は穂積皇子に恋心さえも抱いていなかった、おそらく、共に父母が皇族ではなく、そしてその母が夫人であるという多少の境遇の共通点から生まれた事実に基づかない彼らの恋の噂から生まれたあくまでも遊びの世界、虚構の恋歌の世界とすることについてですが。
確かに奈良時代に入ってからは天平の片恋文化とも呼ばれる、大伴家持や坂上郎女などやその周辺の歌人達により、虚構の恋歌の文化が発展していきますが。
しかし、この穂積皇子や但馬皇女は主に飛鳥時代に属する人々ですし。
従って、まだそこまで恋歌の虚構化も進んでおらず、現実の恋愛を歌った恋歌は多かったと考えられます。)
それに穂積皇子と但馬皇女の恋歌から想像される、彼らの恋はそのような初めから虚構を基本にしたものではなく、現実の彼らの許されない恋をこうして半ば虚構化した歌物語化することによって、現実で語ることが可能になったものという印象の方を私は強く感じますが。
確かに彼らのその恋の内容が内容だけに生々しい現実そのままとして、人々が語ることは憚られそうですが。
しかし、こうして間にフィクション性を挟み、新たに物語として再構成することで、そうした彼らの許されない恋でも語りやすくなるというのは、何か私にもわかるような気がしますし。
それにこちらは宮廷に仕える女嬬との恋という、これも禁断の恋である、中臣宅守と狭野弟上娘子の恋の場合も、そうした例に相当すると思いますし。
彼らの恋の場合も、歌物語の中ではごく簡単な彼らの恋歌のやり取りに関連した、いくつかの場面説明が付けられて、主に彼らの恋歌で彼らの恋が語られる形になっていますし。「中臣宅守と狭野弟上娘子との贈答の歌」・「右の四首は、娘子の別れに鑑みて、作る歌なり」・「右の四首は、中臣朝臣宅守の、上道して作る歌なり。」
具体的な彼らの状況や彼らを巡る年月や出来事の説明は一切付けられていません。
確かにこの中臣宅守と狭野弟上娘子の恋も宮廷と大きく関わる内容でもありますし、特に宮廷の間では現実そのままの恋の話としては語りずらい部分があったと想像されますし。
参考文献
「但馬皇女と穂積皇子の歌について ―「言寄せの世界」廣岡義隆
AN100450900020010.PDF
天武天皇と藤原鎌足の娘である氷上娘の皇女。
「万葉集」には、彼女の異母兄に当たる、高市皇子の妃だったと書かれています。
しかし、「日本書紀」には、彼女の死亡年月が記されているのみです。
高市皇子との正式な結婚年月日も、わかっていません。
高市皇子と但馬皇女の結婚に至るまでの経緯や理由については、具体的にははっきりとはしていませんが。しかし、この但馬皇女の生母が天武天皇の妃の一人であった氷上娘であり、藤原不比等にとって但馬皇女は姪であること。
こうした血縁関係から考えて、おそらく、当時の有力者の一人であった高市皇子にぜひ自分の姪を嫁がせたいと思った藤原不比等の思惑による、政略結婚であった可能性が高いのではと思われます。
かつて不比等の父である藤原鎌足が娘の耳面刀自を大友皇子に嫁がせていること。
そして他の娘達の氷上娘と五百重娘も、天武天皇に嫁がせているように。
それに高市皇子も高市皇子で、徐々に頭角を現しつつあり、今後の更なる廷臣としての出世が予想される藤原不比等の姪である但馬皇女を妻に娶り、彼との関係を深めておくのも悪いことではないと考えたのではないかと思われますし。
それに彼の息子の長屋王も、藤原不比等の娘である長蛾子を妻に迎えているのも、高市皇子と但馬皇女との結婚と類似した点があるケースではないかと思われますし。
皇族と藤原氏の血縁者との結婚という。但馬皇女は皇女ではありますが。
しかし、彼女は藤原氏の血縁者でもありますし。
高市皇子と但馬皇女との結婚は、父の天武天皇の意向である可能性もありますが。
しかし、それなら但馬皇女と年齢的には釣り合う感じの穂積皇子とかの他の相手でも良くはないか?とも思われますし。
そしてこの二人の結婚の背景としては、但馬皇女の母方の叔父である藤原不比等側から考えてみた方がより納得がゆきやすいようにも、私には思われますし。
壬申の乱後に初め不比等は天武天皇二年(673年)の大舎人の登用制度によって出仕して、下級官人からキャリアをスタートすることになったようです。
更に天武朝の後期に入ると、不比等は従兄弟の中臣大嶋と共に草壁皇子に仕えたとみられています。また、東大寺正倉院の宝物として『国家珍宝帳』に記載されている「黒作懸佩刀」は草壁皇子から不比等に授けられた皇子の護り刀で、後に皇子と不比等自身の共通の孫である聖武天皇に譲られたと伝えられている。
「日本書紀」に「不比等」の名前が出るのは持統天皇三年(689年)二月二十六日(己酉)に判事に任命されたのが初出であり、持統天皇の生んだ皇子である草壁皇子に仕えていた縁と法律や文筆の才によって登用されたと考えられています。
こうした不比等と草壁皇子との関係性や持統天皇に重用されたことから考えるともしかしたら、不比等から鸕野皇后に自分の姪である但馬皇女を高市皇子に嫁がせる許可を天武天皇から得たいので、それとなく彼女から天皇に口添えしてもらえるようにと皇后への不比等の懇願が存在していたのかもしれません。
そして自分の息子である草壁皇子に仕えることになる不比等のことは鸕野皇后も早い内からその有能さに注目し、目をかけていた可能性も高いのではないかと思われますし。そんな不比等の懇願もあり、鸕野皇后からも天武天皇への、但馬皇女の結婚相手には高市皇子がいいのではないか?という働きかけが天武天皇に行なわれた可能性もあるのではないでしょうか?
鸕野皇后にとっても高市皇子は天武天皇と彼女からの信頼も厚いし、既に確かな地位を築いており、但馬皇女の結婚相手としては相応しいと判断したのではないでしょうか。それに自身も十五歳くらいは年上だったと思われる、天武天皇と結婚していることもあり、かなり年長の夫と年若い妻という組み合わせには、彼女もあまり違和感を覚えなかったのではないでしょうか。
実際にも、但馬皇女と同年代であったと思われる穂積皇子が天武二年(673年)くらいの生まれだと考えられ、だからその彼よりは三・四歳くらいは年上だったのではないかと想像される但馬皇女(永井路子も穂積皇子と但馬皇女の恋の話も含む短編集の「裸足の皇女」の中で、但馬皇女の方が穂積皇子よりも数歳年上と見ているようですし。)が高市皇子と結婚したと考えられるのは天武十三年か十四年頃。
また、天武十四年の一月には、高市皇子は冠位四十八階制定の際に、草壁皇子の浄広壱位・大津皇子の浄大弐位に次ぐ浄広弐位に叙せられています。
これは天武天皇の皇子達の中では三番目に当たる高い地位です。
やはり、この天武十四年のこうした高市皇子の位階の昇進と併せて考えてみても、この頃に彼が但馬皇女と結婚した蓋然性も高いようにも感じますし。
そして但馬皇女の結婚相手は誰が良いかと検討していた天武天皇にとっても、おそらく、この鸕野皇后の勧めが決定打となり、高市皇子と但馬皇女を結婚させるという決定になったのではないかと思いますし。
それからなぜか穂積皇子の方が但馬皇女よりも年上であったかのように想像したがる
万葉学者が多いようですが。
これには確実な根拠はあるのでしょうか?
「日本書紀」の天武天皇の后妃の記載の順番が藤原鎌足の娘で但馬皇女の母である氷上娘、そしてこれも藤原鎌足の娘である五百重娘、そして蘇我赤兄の娘で穂積皇子の母である石川夫人になっており。
そして私はこれはやはり、彼女達が入内した順ではないのかと思われるのですが。
従って同じ鎌足の娘の氷上娘と五百重娘では、氷上娘が姉であった可能性が高いと思われます。
だから但馬皇女の方が穂積皇子よりも先に生まれている可能性が高いのではないのかと私は考えているのですが。
それからこのように考えると後に穂積皇子と但馬皇女の密通の発覚後、持統天皇が自体の沈静化と収束を図り、一時、穂積皇子を近江の志賀寺に派遣しているのも、より納得がゆくように思われるというか。
もちろん、持統天皇が天皇として率先して、この密通事件の沈静化を図る責任を感じていたこともあるのでしょうが。
しかし、その他にも自分も高市皇子と但馬皇女との結婚に関わっていたがゆえに、よりそうした責任を感じていた可能性があるのではないでしょうか。
それからこのように、高市皇子なら既に宮廷で確かな地位を築いており、天武天皇からの信頼も厚く、父の天武天皇としても但馬皇女の結婚相手として異存はないということで、こうして藤原不比等の姪の但馬皇女を高市皇子と結婚させる計画については、天武天皇からの承認も得られたのではないでしょうか。
それからおそらく、高市皇子と但馬皇女の夫婦も、十五歳くらいの年齢差であったかと思われます。更に当時の高市皇子は持統天皇の信頼も厚く、太政大臣という国家の要職にも就き、このように立場上も、威厳のある存在でもありました。
高市皇子自身も、深い思慮や重々しい落ち着きも備えた人物でもあったのでしょう
このため、但馬皇女にとっては高市皇子は夫というよりも、父親のような印象の強い存在であったのかもしれません。
そしていつの頃からからはわかりませんが。
但馬皇女はこれも異母兄弟の穂積皇子と恋に落ちました。
おそらく、彼とは同年代かと思われます。
同年代で歌の才能にも恵まれ、風流人でもあったらしい穂積皇子に、しだいに但馬皇女は惹かれていったのかもしれません。
しかし、当時太政大臣として朝廷に重きを成していた高市皇子の妃であった但馬皇女と穂積皇子の恋は、やがて世の人々の知る所となってしまったようです。
それでも、この恋を貫こうとする強い意志と情熱が但馬皇女の歌からは伝わってきます。ただ、特に気になるのは、この時の但馬皇女の夫である高市皇子の反応ですが。
無関心だったのか、それとも不快に思い、怒ったのか?
ただ、例えば歴史作家の永井路子の、高市皇子には但馬皇女だけでなく、複数の妻もいたことだし、但馬皇女の穂積皇子との密通については高市皇子もそれ程気にもしなかったのではないか?というドライな見方もあるようですが。
ただ、持統天皇がこの恋愛事件の沈静化を図るために、この穂積皇子を近江の志賀寺に派遣していることから考えると穂積皇子と但馬皇女が起こした密通が発覚し、世間の噂になってしまったことについて、高市皇子自身が自分の体面を傷つけられたと感じていた可能性もあるかと思われます。
また、当時の高市皇子は太政大臣という、威厳も力もある、重い地位にありましたし。高市皇子自身も、真面目で重厚な人柄であったことも、想像されますし。
このように、この恋愛事件の渦中にいた、三人の具体的な心理はわかりませんが。
「万葉集」には、115の但馬皇女の歌に関連する事情として、穂積皇子が勅命により、近江の志賀寺に派遣されたとあり、これはやはり、天武天皇の皇女であり、現太政大臣の妃である但馬皇女と穂積皇子との密通が露見し、宮廷の一大スキャンダルとなり、捨て置けなくなった当時の持統天皇の処置と考えられます。
そして穂積皇子に自重を促すために、こうして近江の志賀寺に派遣するまでの事態に発展してしまったようです。
ただ、万葉学者の伊藤博氏によるとこの穂積皇子は当時の彼の与えられていた食封やその他の記事から窺うと持統天皇から他の皇子達と比べて優遇されており。
つまり、穂積皇子は持統天皇に気に入られていた形跡が強く。
そしてこれには、おそらくその穂積皇子の人柄も関係しているのだろうが、他にも彼の母親が同じ蘇我氏であるというのも、持統天皇が彼に好意を抱いていた理由の一つではないかとも指摘しています。
だから持統天皇のこうした処置には、当時は太政大臣であった高市皇子の体面を保つ以外にも、この穂積皇子の立場をも繕う意図があったものとも思われるとか。
そして恋愛事件の渦中にあった三人のその後ですが。
当事者の一人であった、但馬皇女の夫高市皇子が持統天皇十年(696年)の八月十三日に、四十六歳で死去します。
そして、但馬皇女も和銅元年(708年)の六月に、 おそらく、三十代くらいで死去する事になります。穂積皇子の大体の推測される生年から考えて、穂積皇子がおそらく四十代前半くらいで亡くなる年の和銅八年(715)から七年前の和銅元年(708)に但馬皇女は死去しているので。
彼女が穂積皇子と同年代なら三十代半ばくらいだったのではないかと考えられるので。また、但馬皇女は病気にかかったことがあるらしく、彼女の木簡には彼女付きの役人の名前と共に但馬皇女のために薬を受給している内容が書かれているので。
そして彼女が三十代くらいで亡くなっているらしいことと但馬皇女に関するこうした記録などと併せて考えると但馬皇女の死因は病死であった可能性も高そうに思われます。
こうして、穂積皇子一人が残されました。
この但馬皇女の死を悼む、穂積皇子の歌が残っています。
なお、但馬皇女に関しては1988年に出土したその彼女の内親王宮の木簡から推測すると夫の高市皇子の宮に同居はしていたかもしれませんが。
しかし、当時の皇女達の名実共に高い地位を示す一例として、但馬皇女自身の宮があり、夫とは別に彼女は独自の家政機関を持ち、別個に財産管理を行なわせていたようです。つまり、但馬皇女自身の役所と役人を持っていたということです。
そしてこの家政機関というのは、天皇や貴族の日常生活を支えるため、それぞれの家に置かれていた部署の総称です。
律令制度では、高位の身分の者には国から家政機関と従者(帳内・資人など)が与えられ、家政機関を運営した。その運営は、国から配属される役人が担う。
家内労働に従事する人々への食料支給や勤務評定、所領の経営などが業務の中心。
但馬皇女というと既に天武天皇からの信頼も厚く、また十分な社会的地位も築いていた、年上の夫高市皇子の庇護を受けていたかのように連想しがちですが。
しかし、実際にはこの時代の他の多くの王族女性同様に、但馬皇女自身が十分な独立した財力を持っていたようですね。
そしてこうした点も、彼女をよけいに大胆に穂積皇子との情熱的な恋に走らせた面もあるのかもしれません。
「万葉集」 巻第一 一一四 秋の田の穂向の寄れるかた寄りに君に寄りなな 言 痛くありとも
意味 風によって稲穂が片方に靡くように、私も例えどんなに世間で噂されようとも、 ひたすらあなたに寄り添っていよう。

「万葉集」巻一 一一五 後れ居て恋ひつつあらずは追ひしかむ道の隈みに標ゆへわが背
意味 このまま後に残されて恋慕い続けるよりも、追いかけていこう。だから道の曲がり角に印を付けておいてください、あなた。
「万葉集」巻一 一一六 人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る
意味 あまりにも世間の噂が激しくうるさいので、今まで生まれて始めて、夜明けの川を渡る事よ。
この、「朝川渡る」というのは、具体的には何を表わしているのか、諸説があるようですが。そして伊藤博氏の以下の指摘と考察です。
「いまだ渡らぬ朝川渡る」は、普通は「まだ暗い朝の川を渡って会いに行く」と解釈されている。けれども、「朝」は男女が会って別れる時である。
通常の関係ではない、人目を忍ぶ中であればこそ、むしろ暗い夜に尋ねて夜の明けぬ内に帰るのが普通だろう。そしてそれは、山野の逢瀬であったとしても、変わらない。更にこの「川」というのは恋の障害を象徴し、「川を渡る」というのは恋の成就を願う行為であるとする民族が古くから見られること。
そしてこの但馬皇女の歌もそれで、皇女の身分である自分にとっては到底あり得ないこと。つまり、朝早く冷たい川を渡るというような事柄を歌うことで、裏に世間の目という障害に抵抗して、初めての情熱的な穂積皇子へのこの思いを全うするのだというような意味を込めているのではないかとのことです。
確かにこの朝の川を渡る表現は事実というよりも、象徴として、穂積皇子に対するそこまでの自分の強くて激しい情熱を表わしたものと考えた方が私も腑に落ちるような思いがします。
「万葉集」巻第八 一五一五 言繁き 里に住まずは 今朝鳴きし 雁にたぐひて 行かましものを
人の口のうるさいこんな里なんかに住んでいないで、いっそのこと、今朝鳴いた雁と連れ立ってどこかへ行ってしまえばよかったのに。国なんかにいないで。
この但馬皇女の歌は一応、秋の雑歌に収録されてはいるのですが。
しかし、「言繁き」というのは恋歌に出てくる人の噂を指していると思われ、実際は
恋歌として良いと思われます。
そしておそらく、穂積皇子とのことでいろいろと噂をされて煩わしいということを意味しているのでしょう。
それからこれも「万葉集」の歌には、いつも付きまとう要素でもありますが。
それは後世の人による仮託の可能性です。
この穂積皇子と但馬皇女の恋も歌物語的な要素が強いものであり、この点については多くの万葉学者達からも指摘されている点です。
だからこの但馬皇女の穂積皇子への恋歌や穂積皇子の挽歌にも、そうした仮託の可能性を指摘する意見もあります。
例えば但馬皇女のその一途で切実な恋心をまさに表わしているかのようなこの一首。
「一一五 後れ居て 恋ひつつあらずば 追ひ追かむ 道の隈に 標結へ我が背」
この時の題詞には「穂積皇子に勅して、近江の志賀の山寺に遣はす時に、但馬皇女の作らす歌一首」あり、おそらく、太政大臣高市皇子の妃である但馬皇女とこれも彼らとは血縁関係になる穂積皇子との密通により、騒動になっていたのを静めるため、持統天皇の命令により、穂積皇子が近江の志賀寺に派遣された時の歌ということでしょう。
しかし、この歌については、穂積皇子と但馬皇女の悲恋物語を盛り上げるための後世の人間により挿入された仮託であったとする、「但馬皇女と穂積皇子の歌について ―「言寄せの世界」の中での廣岡義隆氏の指摘が存在しています。
但馬皇女の一連の恋歌についての、以下の廣岡氏の主な指摘。
廣岡氏によるとそもそも、最初の但馬皇女の恋歌に付けられている題詞の「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思ひて作らす歌一首」というのは、高市皇子と但馬皇女が夫婦関係にあり、更に但馬皇女が高市皇子の妃として同じ宮に同居していたという意味ではなく、幼い時に母の氷上娘と死別した但馬皇女が長兄である高市皇子の宮に一時的に引き取られて、但馬皇女が十三歳くらいの時に母の氷上娘の実家の邸に移ったということではないのかとしているようです。
しかし、私はこうした廣岡氏の推測にも疑問を感じる点があります。
それはそんな風に年長の兄が自分と婚姻関係にある訳でもない、独身の妹を引き取り、面倒を見ていたなどの具体的な他の例が存在しないことです。
基本的にあの時代の皇族というのは、皆結婚していたようですし。
独身のままだったらしい皇族と言えば、天智天皇の娘である水主皇女くらいしか、そうした例が見当たりませんし。
特に具体的な理由も見当たらないのに、但馬皇女が独身を通す必要性がわからないというか。
また、同母の妹ならまだしも、異母の妹に対して、高市皇子がわざわざ、自分の手元に引き取って生活の面倒を見るということまでするものなのだろうか?という私の中での疑問も強く。
古代では基本的に同母の兄弟姉妹は同じ母方で育てられ、親しい関係を築く傾向でしたが。
しかし、これに対して、母親が違う場合はそれぞれの母方で別々に育てられて成長するため、あまり兄弟姉妹という意識は芽生えずらい傾向であったようですし。
それに具体的に但馬皇女の面倒を見る人々自体は、他に存在していたと思われますし。また、早くに母と死別したとはいえ、但馬皇女も天武天皇皇女なのだから特に経済的に困るようなこともなかったはずですし。
母と死別したからとはいえ、生活上の支障はなかったはずだと思われます。
やはり、題詞の「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思ひて作らす歌一首」」というのは但馬皇女は高市皇子と結婚して、その妃として同じ宮に住んでいたと捉えた方が私は妥当なのではないのかと感じるのですが。
少なくとも、「万葉集」の編纂者は、高市皇子と但馬皇女は夫婦関係にあったとして扱っていると思われますし。
そして廣岡氏の続いての指摘ですが。
従って但馬皇女が高市皇子の宮にいる時に穂積皇子を思って詠んだ三首というのは、但馬皇女が十三・四歳以前のものとは到底考えられない。
しかし、私はあの但馬皇女の三首についても、とても十三歳か十四歳の未婚の少女の皇女が詠んだものとは思い難い印象なのですが。
阪下圭八氏も指摘する「題詞を付し、序破急の展開にも似た物語化を行なった人々
がいたことになる」 とし、犬養孝氏の「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、密かに穂積皇子に逢い、事すでに顕われて作らす歌一首」・「但馬皇女の薨ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷流涕して作らす歌一首」の題詞に 「物語として伝えようとする者の意図を看取ることができる」 というのには同感ですが。
続けて廣岡氏の指摘。
①「一一四 秋の田の穂向の寄れるかた寄りに君に寄りなな 言痛くありとも」の歌の「君」と②の歌である「一一五 後れ居て恋ひつつあらずは追ひしかむ道の隈みに標ゆへわが背」の「背」が狙上に挙がるが、この相異は注目してよい。
「君」は一般に親しみをこめた意の場合も存するが、『岩波古語辞典』のように、「二人称の代名詞的に用いて」あなた「敬意をこめた三人称の代名詞的に用いて」あのおかた」と載厳と分けられるものではない。
一般的には、濃淡の差こそあれ、「君」には心理的距離感・敬意が存するものと見るべきで、「背」には対等に近い親しみを見てとるべきであろう。
②歌の場合、「我が背」と「背」の上に親しみをこめた「我」がの表現があり、「君」表現との間隔が大きい。
この事実から、①②歌は作歌時期を異にするとみるのも一案であるだろうが、私は①②歌の作者が異なる、即ち②歌は但馬皇女の真作ではない。
先の、「君」と「吾が背」 の呼称の相違を勘案すると、この②歌は但馬皇女の真作ではなく、第三者の但馬皇女への仮託。
そもそも、この①の歌と③の歌「一一六 人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る」の題詞も疑わしい部分があった。
「在高市皇子時」は「在但馬皇女宮時」であろうし、③の題詞中の「窺」「形」も物語的色彩が濃いという指摘があった。①③歌をその題詞から解放すると穂積皇子に宛てた歌か否かも明らかではなくなってくる。それが真相に近いものだろう。
即ち①③⑥歌は、うら若い但馬皇女が、但馬内親王宮にあって、恋歌の習作とて、弾む心を内に秘めながら綴った仮想のモノローグであろう。
る。但馬皇女の恋歌に類想表現があるのもそのため。
(①)「事痛」「人事」(③)「事繁」(⑥)(一五一五 「言繁き 里に住まずは 今朝鳴きし 雁にたぐひて 行かましものを」)と人の詠が並ぶのは、当時の恋歌の一般としての類想表現にも由来するが、また皇女の関心事が其処に存したからでもあろう。
①③⑥歌は高市皇子とも穂積皇子とも関わらない、但馬皇女の独詠で、歌物語とも無縁だった。おそらく、これが原形。
ついで①③歌が何らかの事情で作者の手を離れた。この間に「但馬皇女在高市皇子宮時」などという題詞が付けられた可能性がある。
この③の原歌は純粋にしてひたすらな仮想の恋歌であろうが、「在高市皇子宮時」 の題詞と「人言」・「末渡らぬ朝川渡る」 の表現とが相侯って、三人の三角関係にまで繋がれていったのではないのか。
そこへ、作者不明の歌層の中から、或いは多少の修正を施されて、②歌が加えられた。
そして⑦の穂積皇子の挽歌は元々、但馬皇女への挽歌でも、穂積皇子の作でもなかった可能性もある。
私も「万葉集」の歌のあり方などについて専門的に学んだ訳でもないので、一連の但馬皇女の恋歌の内容についてもその判断が難しい部分もあるのですが。
しかし、廣岡氏のこの但馬皇女が高市皇子の宮にいた時に作った歌というのは、実際には彼らが兄妹として同居していたこと示しているだけであり、従ってこれらの歌も
但馬皇女が年長の異母兄の高市皇子の下で世話を受けていた時にあくまでまだ恋に憧れる少女の空想の恋心を詠んだ歌群に過ぎない。
従って、穂積皇子との恋愛も実際には存在しなかったという結論には、私は賛同しかねる所がいくつかありますが。
既に私が指摘しているようにこの古代の皇族間で年長の異母兄が未婚の異母妹の世話をするなどという事例を他に見たことがないですし。
それに古代の皇族、特に天武天皇の皇子皇女達は結婚している人々ばかりであり、具体的な理由もなく、その中で但馬皇女だけが独身のままだったというのは考えずらいですし。
それにそもそも「万葉集」に掲載されている恋歌自体も、十三歳か十四歳くらいのまだ恋に恋するような年齢の少女が実際の恋愛対象となる相手も存在しないままに詠んでいるような内容の恋歌というのは見かけないような。
少なくとも、もう成人する年齢に達し、その上、実際に異性との恋愛が始まっている女性達の歌ばかりだと思うのですが。
だから但馬皇女の穂積皇子への一連の恋歌は、実際にはまだ恋愛の経験もない但馬皇女の架空の恋への憧れを個人的に読んだ恋歌に過ぎないとするのには、私は納得がいかないのですが。
ただ、確かに穂積皇子と但馬皇女を巡る歌には明らかに歌物語的な編纂がなされているという点については、私も同様の印象を強く受けています。
阪下圭八氏の「題詞を付し、序破急の展開にも似た物語化を行なった人々がいたことになる」 と指摘されているように、確かにまず但馬皇女の穂積皇子への恋の始まり、そして彼らは恋仲になるも、既に太政大臣高市皇子の妃であった但馬皇女と穂積皇子との許されない恋は多くの人々の知る所となり。
ついに事態の沈静化を図った持統天皇の勅命により、平城京から遠ざけられ、近江の
志賀寺へ発つ穂積皇子、そして都に残され、あなたを追いかけていきたいと訴える但馬皇女。引き離された二人。
そして数年後の但馬皇女の死に際して雪の日に泣きながら彼女の埋葬地の猪養の岡を眺めて挽歌を詠む穂積皇子。
「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思ひて作らす歌一首」・「穂積皇子に勅して、近江の滋賀の山寺に遣はす時に、但馬皇女の作らす歌一首」・「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、密かに穂積皇子に逢い、事すでに顕われて作らす歌一首」・「但馬皇女の薨ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷流涕して作らす歌一首」などの、このように物語的な起伏を持たせた、実に効果的な題詞が要所要所で挿入されることにより、彼らの恋物語を盛り上げる効果を果たしています。その中でもやはり、この天皇の命令により、穂積皇子が近江の志賀寺へ旅立ち、但馬皇女と引き離されることになるくだりは、最もドラマチックな印象を与えていますし。また、この時の穂積皇子への但馬皇女の歌も、このまま都へ残されてあたのことを恋焦がれているよりもいっそ、あなたのことを追いかけていきたい。
だから道の隈の神様ごとに標を結んでお祈りをしてください。
こんな何とも一途で情熱的な印象を与える歌ですし。
ただ、確かにこのようにこの一首が詠まれるまでの展開やこの歌自体があまりにもドラマチックな内容だからこそ、穂積皇子と但馬皇女の物語を一層効果的に盛り上げるための後世の人の仮託ではないのか?この一首は?という疑問が私の頭の中をよぎるのも事実ですし。
だから廣岡氏も指摘するようにこの一首は、確かに但馬皇女自身の詠んだ歌というよりも仮託である可能性もかなり感じられるようにも私は思いますし。
また、しばしば、「万葉集」には歌物語の要素が見られる点などからも、この但馬皇女の全ての歌が彼女自身の詠んだ歌だと考えてしまうのも、素朴過ぎるようにも思われますし。その内の一首くらいは、本人の作ではない、仮託が混じっている可能性もあると考えた方が適切なのかもしれません。
それにこの近江の志賀寺に赴くことになった穂積皇子に対し、但馬皇女が詠んだとされるこの歌も、あまりにもそうした題詞の記述と内容が一致し過ぎており。
またそれゆえにこそ、逆に最初からこうした題詞に合わせて、それに一致するような内容の歌が但馬皇女の歌として挿入されて、仮想現実を織り成している可能性も、十分に考えられる訳で。
それに「万葉集」の中ではドラマチックな傾向のある歌群程、当然、その物語性も強いと思われる点にも、十分注意が必要でしょうし。
それから穂積皇子の挽歌についても、私もこれまでにも何度もこれはもしかしたら仮託の可能性もあるのではないのだろうか?という疑問を覚えたこともあります。
どうも他の夫か恋人であった男性が女性の死に際して詠む挽歌と比べて、その表現や内容がかなり異なり、他に似た様な例が見られない点が私としてはかなり気にかかる所があり。
直接但馬皇女の存在は出さずに雪よ、そんなに降ってくれるな、吉隠の猪養の岡が寒いであろうから。つまり、この岡と但馬皇女の存在と同一視したような表現。
確かに大伯皇女が二上山を弟の大津皇子と同一視したような類似した表現が見られる
挽歌の存在もあるのですが。
しかし、穂積皇子のこの挽歌は、特定の故人と自然を同一視して詠んだものというよりも、どこか自然自体を擬人化して詠んだものなのでは?と思わせるような所もないでもなく。
つまり、本来この歌は挽歌だったのだろうか?という疑問というか。
しかし、これは穂積皇子が但馬皇女の死を悼んで詠んだ挽歌の内容としてもぴったりだと判断され、そうしたこれまたドラマチックな題詞まで付けられて、挿入されたという可能性も考えられなくもないというか。
雪の日に穂積皇子が涙を流しながら但馬皇女の埋葬された猪養の岡を眺めながら挽歌を詠んだという。
それに私もそれまではこれは高市皇子が個人的に十市皇女の死を悼んで詠んだものなのか?と思っていた十市皇女への挽歌と同じく、どこか異質な印象をこの穂積皇子の挽歌にはどこか覚えないでもない所もあり。
まず、この高市皇子からの十市皇女への挽歌の前後に並んでいる皇族への挽歌は、儀礼的だったり、公的な印象を感じさせるし、また他の天智天武系の皇子皇女のそれぞれの配偶者が死去した時の挽歌も、それぞれの先立たされた配偶者の皇子皇女から依頼された形で、宮廷歌人の柿本人麻呂が詠んでいること。
内容自体はそれ以前の時代の皇族の挽歌よりも、全体的に叙情性を感じさせるものとはなっているものの。
こういう傾向の皇族達の死についての挽歌なのに、なぜかこの十市皇女に関するそれだけは高市皇子が個人的に詠んでいるのかという私の疑問と違和感が。
そしてこれと同様の違和感を穂積皇子の但馬皇女への挽歌にも感じるというか。
特に「但馬皇女の薨ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷流涕して作らす歌一首」という、一際ドラマチックで物語的な題詞が付けられて扱われていることもあり。
基本的にこの「万葉集」の中では皇族達の死は公的なものとして扱われている印象なのに、なぜかこの但馬皇女の死だけは、その死に際しては穂積皇子が涙を流して悲しみながらその挽歌を詠んだという、極めて個人的で情感の込められた物語的なものとして扱われているという。
また、このように飛び抜けて穂積皇子の挽歌だけ、他の皇族達の挽歌とは違う扱いをされているのも、「万葉集」の編纂方針に所々感じられる、不統一性のようなものの表われでもあるような。
それに他の皇族への挽歌と比べた、こうした穂積皇子の挽歌の内容や性質の不統一性から考えてみるとやはり、この「万葉集」の中では、この但馬皇女の存在は全体的に歌物語のヒロインとして扱われている印象が強く、従って彼女へのその穂積皇子の挽歌までを含めて、意図的に一つの歌物語として仕立てられていると捉えた方がいいのかもしれませんね。
そしてこう考えていくと自然に穂積皇子の但馬皇女への挽歌についての、その作為性や虚構性などについても、考えざるを得ないというか。
それに考えてみれば何で但馬皇女が死去してから半年くらいも経ってから穂積皇子が
その挽歌を詠むのか?という疑問も感じないでもなく。
なぜ但馬皇女が死去した直後の夏の季節ではなく、それから半年くらいも経った冬の日である必要があるのか?
普通、挽歌というのはその人物が死んだ直後に詠まれるものではないのでしょうか。
また、そうではないと意味がないとも思いますし。
それに例えばこれも六月にその妾を亡くした家持も、ちゃんとその妻の死んだ直後に挽歌を詠んでいますし。
やはり、わざわざ但馬皇女の死去した六月から半年程も経ってからの雪の降る日に穂積皇子がその挽歌を詠む必要性があるとしたらそれは劇的効果、物語としてのリアリティーを出そうとしたということでしょう。
雪の降る寒い日にその年の夏に死去した但馬皇女の死を嘆き悲しみ、涙を流しながら
頼むからそんなに雪よ。猪養の岡の上に降ってくれるなと歌う穂積皇子の姿。
確かにこの歌の内容とこの詞書が表わす情景はぴったりとした一致を見せ、この歌に付随する物語としては絶妙にリアリティーを醸し出すことにも成功していますし。
その上、寒い冬の雪の日ということで、自然と穂積皇子の愛する女性の但馬皇女を失った、その孤独感や寂寥感も高められますし。
その人物の死からそれ程時間を経ない間に詠まれる現実の挽歌としての必然性よりも、歌物語の一部としての挽歌としての必然性の方に重点が置かれた結果ということでしょう。
本来ならその人物の死からそれ程日を隔てないで詠まれるはずのものであるべき挽歌、しかし、この穂積皇子の挽歌については、なぜかその詠まれている時期が但馬皇女の死から半年も経ってからの時期であるという不審さが示しているものは。
確かに冷静に考えてみれば、現実の但馬皇女の死について哀悼する目的の挽歌であるのにも関わらず、なぜかその詠まれた時期が彼女の死から半年も経てからであるという、かなりおかしな点もこの穂積皇子の挽歌には見られる訳ですが。
それに穂積皇子の挽歌に感じる不審さとしてはその詠まれている時期だけではなくて、その当時の穂積皇子の立場からしてもあり得るのか?ということです
但馬皇女が死去する和銅元年から三年前の慶雲二年からは穂積皇子は知大政官事という、太政大臣・左右大臣に準じる地位にある人物です。
現実ではそんな既に四十代近い、こうした高位の地位にある人物が大政大臣高市皇子の妃の挽歌なんて、泣きながら詠むことなどはあり得ないことがわかりますし。
やはり、「万葉集」の中で但馬皇女のために雪の日に泣きながら挽歌を詠んでいるのは現実の穂積皇子ではなく、物語の中の人物としての穂積皇子なのでしょう。
しかし、まさにこの挽歌の内容とその題詞の伝える所の、雪の降る寒い日、穂積皇子が遠くから吉隠の猪養の岡を眺望しつつ、但馬皇女の挽歌を詠むという説明が完全な一致を見せており、そのことが自然と読者の私達にも強い臨場感を感じさせ、穂積皇子の挽歌に真実味を感じさせることにもなっている訳ですし。
実際にも穂積皇子の挽歌が詠まれた時期の他にも、このように当時の穂積皇子の立場などからも感じる、こうしたこの挽歌に感じる現実感のなさもも思わず忘れさせてしまう効果もあるし。
そしてこうした穂積皇子の挽歌に見られる演出効果も「万葉集」の中では、その歌の配列や構成、そして付される題詞が一体となって、歌物語を形成している例の一つとも言えるでしょう。
それから天智・天武系の皇子・皇女達の間でその配偶者の死について、個人的に詠まれた哀悼の挽歌が他には見られないからという点も大きいのですが。
但馬皇女に関してだけはなぜか個人的な穂積皇子の挽歌が見られることに私が感じる違和感の原因としては。
また、高市皇子の十市皇女への挽歌をそうした例の一つとして捉えることには、個人的には疑問を感じるというのは、私も既に書いていますし。
このように穂積皇子の但馬皇女への挽歌については、私も仮託の可能性も感じる部分はあるものの。
とはいえ、実際に穂積皇子と但馬皇女の間に恋が存在した可能性までも、私も完全に否定している訳ではありませんが。
そして彼らの間には同年代の皇子皇女という親近感も存在していそうですし。
それに以下の賀古明氏の指摘。
持統四年(690年)に高市皇子が大政大臣に任命された時から、高市皇子薨去の持統十年(696年)までの間に、「日本書紀」に記録の出てくる皇子は、草壁・高市・河嶋以外には、舎人・長・穂積・弓削の四皇子で、この内「浄広弐位」の冠位を最も早く授けられているのは穂積皇子である所から、高市皇子が太政大臣在任中、穂積皇子は最重要視され、高市皇子と穂積皇子の親交の仲で、高市皇子宮にいた但馬皇女は訪れ来る穂積皇子に慕情を抱くようになった。
つまり、穂積皇子が十代後半から二十代前半までの間に、大政大臣高市皇子との仕事上の関わりの中で、その高市皇子の妃である但馬皇女と出会ったらしいということですね。
それから確かにこうした夫高市皇子と穂積皇子との仕事を通した関わりの中で、穂積皇子と但馬皇女が顔を合わせることも多くなり、その内に彼らが恋仲になったことも考えられますし。(ただ、この賀古明氏はあくまでも、但馬皇女が一方的に穂積皇子に思いを寄せていただけという見方のようですが。)
それに「万葉集」の編纂者である大伴家持の叔母である坂上郎女の夫であったのがこの穂積皇子でもありますし。
こうした関係から坂上郎女も直接、穂積皇子自身の口から遠い昔の但馬皇女とのことについて聞くこともあったのかもしれませんし。
このようにおそらく、実際の穂積皇子と但馬皇女の関係について十分に知り得る立場にあった坂上郎女という人物が家持の叔母である点が、穂積皇子と但馬皇女との恋が全くの虚構ではなかったと感じさせる部分も残している理由にもなっていると私は思いますし。
それに実際にもおそらく、まずこの坂上郎女によって、穂積皇子と但馬皇女の悲恋物語が語られることとなり、以後長く、人々の間に語り継がれるようになったのではないのかとする研究者の指摘も存在していますし。
そして私もそうした可能性も、十分に考えられると思いますし。
坂上郎女は穂積皇子から直接但馬皇女とのことについて聞いた一人だと思われますし。
そして問題なのは但馬皇女の穂積皇子への恋歌がどれだけ事実を反映しているのか
また穂積皇子と但馬皇女の関係についての関係の濃淡です。
この点についても、昔から諸説あるようですが。
ついに彼らは結婚にまで至ったとするもの、あるいは穂積皇子と但馬皇女は愛し合っていたものの、ついに結ばれることないままだったとするもの。
あくまでも但馬皇女の一方的な思いに過ぎないとするものなど。
そもそも、彼らの間には実際には具体的な恋愛感情は存在しなかったとするもの。
しかし、穂積皇子が但馬皇女とのことについては、彼女と別れてから十数年くらい経ってから後に自分の妻となる坂上郎女に話すくらいですから、穂積皇子にとって但馬皇女は忘れ難い女性、やはり彼の方にも但馬皇女への好意は存在していたと考える方が自然なのではないのでしょうか。
それから坂上郎女の生年については、小野寺静子氏はおそらく、恋人であった藤原麻呂と同じくらいの生年だろうとして、持統十年(696年)の生まれと見ています。
私もこの見方にはかなりの説得力を感じるので、私も採用させてもらうことにします。
だからおそらく、坂上郎女は和銅四年(711年)頃に嫁いだと考えられます。
ということは、但馬皇女の死から三年後くらいに穂積皇子は坂上郎女に彼女とのことについて話したということになりますね。
そしてもし穂積皇子と但馬皇女の関係が実際には彼らがお互いに心の中で思い合うだけのプラトニックな恋、あるいは但馬皇女の一方的な思いに過ぎないものであったのなら。
それなら、もう穂積皇子が坂上郎女と結婚する何年も前から、既に穂積皇子とは疎遠な関係になっていたことが想像される但馬皇女。
おそらく、高市皇子と穂積皇子との仕事上の関わりを通して、穂積皇子とは交流の機会があったと思われる但馬皇女。
しかし、既に高市皇子の死去する数年前には、様々な恋の障害からついに穂積皇子と但馬皇女は別れざるを得なかったと考えられますし。
更に高市皇子も既に十数年も前に世を去っており、またこのことから以降は但馬皇女も未亡人として、自分の内親王宮でひっそりと暮らすようになったと想像されますし。
そしてこれで穂積皇子と但馬皇女が具体的に関わる機会は事実上、完全に失われたとも言えますし。
また、ついにはそれからこの但馬皇女自身も既に数年前には世を去り。
そうした場合にもしこのように実際の穂積皇子と但馬皇女の関係は薄いものであったのなら、穂積皇子が自分と但馬皇女とのことを誰かにわざわざ、語りたいと思ったり、そして聞かされた坂上郎女の方も彼らの話をぜひもっと多くの人々にも知ってもらいたいと思い、広めようと思うものなのでしょうか。
やはり、穂積皇子の語る但馬皇女との話に第三者である坂上郎女が強く心を動かされる要素が存在していたからということなのではないのでしょうか。
それは「万葉集」の中で伝えられている内容が穂積皇子と但馬皇女との現実の恋の姿そのままではないかもしれないにしても、彼らの悲恋自体は事実として存在していたのではないのでしょうか。
それに片思いでもない限り、あの古代に両思いなのにプラトニックな恋というのは、果たして存在し得たのだろうかとも感じますし。
それから情熱的な悲恋が想像される、穂積皇子と但馬皇女の恋なのに。
それなのになぜ穂積皇子から贈られた但馬皇女への恋歌は「万葉集」には見られないのか?という疑問についてですが。
(それにだからこそ、穂積皇子の方は但馬皇女のことは、そんなに好きでもなかったのではないのか?あくまでも但馬皇女の方が一方的に思いを募らせていただけなのではないのか?と見られることもあるのでしょうし。)
私はこれは家持と恋人だった女性達の場合と似たようなケースで、実際には穂積皇子から但馬皇女へ贈られた恋歌自体は存在していたものの、それらが具体的な形として残らなかったことも考えられるのではないのかとも思うのですが。
家持からの笠女郎やこれも彼の他の恋人だった女性達への贈歌自体も、実際には存在していたことが十分に想像されるものの。
しかし、これは万葉学者からの指摘もあるように、家持の恋歌は両思いのそれとしてではなく、あくまでも片思いとしてのそれこそが追求されるべきテーマだという判断などの理由から、あえて自分の贈った女性達への恋歌は掲載しないことにしたのだろうとも指摘されていますし。
そしてその理由自体は違うであろうものの、穂積皇子からの但馬皇女への恋歌も実際には存在したものの、具体的な形として残すことができなかった理由があるのではないのかと私には思え。
おそらく、但馬皇女が自分や穂積皇子の安全を考え、穂積皇子からの恋歌は処分してしまった可能性も考えられるのではないのかと私は思うのですが。
また、穂積皇子の方からも、自分からの歌は読んだらなるべく早く処分することを但馬皇女が頼まれていた可能性もあるかもしれないですし。
しかし、さすがにこれも穂積皇子との恋の証ともなる、自分のいくつかの歌には、但馬皇女も愛着があり。
だから自分の穂積皇子へ贈った恋歌だけは、穂積皇子に贈った後に手控えとして、その手元に残しておくことにしたのではないのでしょうか。
穂積皇子からの歌さえ残さなければ、いざとなったら自分が具体的な誰かを対象に詠んだ訳ではなく、独詠という形で自分一人で詠んだだけということにもできると考えて。
そして但馬皇女の恋歌にこれは独詠なのではないのか?と感じさせるものがあるのも、そうした理由があるのかもしれません。
実際にも但馬皇女の恋歌については、これは穂積皇子を対象に詠んだ訳ではなくて、但馬皇女の独詠ではないのか?とする万葉学者の見方も存在していますし。
もしかしたら但馬皇女自身が穂積皇子に贈った恋歌も現在「万葉集」に掲載されているものよりも、多く存在していたのかもしれませんし。
しかし、その恋歌の内容からさすがにこれは具体的な誰かを対象にした訳でもなく、自分一人で詠んだだけのものだとするのは難しいのではないのか?と但馬皇女が判断した恋歌は全て処分してしまったとか。
人目を忍ぶ恋だったものの、但馬皇女は自分に何回も恋歌を贈ってくれたんだよと穂積皇子がその時の感動を坂上郎女に話し、それを聞いた坂上郎女もまた強く感動ということも想像できるような。
それにどうも穂積皇子の但馬皇女への挽歌については、但馬皇女の死に対してその挽歌が詠まれている時期があまりにも遅過ぎること、またその内容や表現などからいろいろと本当にこれは穂積皇子自身の挽歌なのか?仮託なのではないのか?という疑問が残ること。
このように実際には、穂積皇子は但馬皇女の死に際して挽歌を詠んではいなかったらしいと考えられる点についてですが。
しかし、これも穂積皇子が但馬皇女の死を悲しんでいなかったからというよりも。
穂積皇子としては、自分は但馬皇女の正式な夫でもないし、また彼女とは許されない恋愛関係であった自分が彼女の挽歌を詠むことはできない。
このようにかえって、但馬皇女の挽歌を詠むことが憚られたということもあるのかもしれません。
それに当然、穂積皇子も但馬皇女の死については、悲しんでいたことだと思いますし。また実際にも早過ぎる但馬皇女の死だとも思いますし。
但馬皇女が死去した時もその挽歌を詠むこともできず、密かにその死を悼むことしかできなかったその無念さについても、穂積皇子は坂上郎女に話していたのかもしれません。
それからもしかしたらおそらく、穂積皇子と但馬皇女の悲恋物語の最後の重要な一要素として挿入されたと思われる、あの雪の日の挽歌も、もしかしたら実際は但馬皇女のための挽歌を捧げたかったであろう、当時の穂積皇子の気持ちを想像して、彼のために挿入されることになった部分もあるのかもしれません。
穂積皇子と但馬皇女の恋が「万葉集」の中で歌物語化された結果としてだけではなくて。本当はそうしたかったであろう、穂積皇子に成り代わってというか。
それからこの穂積皇子と但馬皇女との関係について考えるのにあたっても、穂積皇子からの贈歌や返歌があるないという点にばかりこだわり、主にそこからばかり想像を膨らませるのも。
全体的に史料不足の傾向が強い古代であることもあり、私はあまりにもそうした文献史上主義に陥り過ぎてしまうのも、問題ではないのかと感じる部分もありますし。
あくまでも「万葉集」に残された歌に基づいて、研究をするという万葉学者の立場からすればそうした傾向になりやすいのも、しかたがないのかもしれませんが。
それから「万葉集」の中では、おそらく、持統天皇が穂積皇子と但馬皇女の密通が原因により起きた人々の噂を静める目的からひとまず、穂積皇子を都から遠ざけ、近江の志賀寺に派遣したかのような印象を与えていますが。
しかし、これについても、土屋文明氏は単なる使者とし、北山茂夫氏は持統志賀行幸に関わりを持つ参向とし、黒沢幸三氏は、これは抜擢で穂積皇子の政界への初登場としています。そして賀古明氏は川島皇子の冥福を祈るための派遣、渡瀬昌忠氏は持統四年四月十三日の仏事と関わり、近江朝の鎮魂のためと指摘。
いずれにしても、穂積皇子の近江の志賀寺派遣は実際は謹慎命令などではなく、公務だとする見方が多いようです。
そして自分の論文の中で、これらの見方を紹介している廣瀬氏も同様の見方を示し、以下のように指摘。
おそらく、この崇福寺だと考えられる寺への穂積皇子派遣は、藤原遷都(持続八年十二月六日)後、程遠からぬ頃、遷都の報告として持統天皇の勅命により遣はされたものではなかったか。
崇福寺は天智天皇即位時に建てられた寺で、天智天皇の菩提寺だった。
娘持統天皇が亡父天智天皇に遷都の報告をするのは当然のことである。
確かに「万葉集」の但馬皇女の歌の配列や詞書の中では、穂積皇子と但馬皇女の恋はついには持統天皇からの事実上の謹慎命令をも招くという、いかにも大事に発展してしまったかのような印象を与えていますが。
しかし、確かにこれにも物語的な誇張などが加えられている可能性も、十分に想像できますね。
そして確かにこの穂積皇子の崇福寺派遣自体はあったれっきとした公務の一環であった可能性の方が高いかもしれないとはいえ。
しかし、「万葉集」の詞書と似たようなことが穂積皇子の崇福寺派遣自体とはまた別に存在していた可能性も考えられるのではないのかとも私には思われるのですが。
つまり、人々の間で穂積皇子と但馬皇女のことが噂になってきており、持統天皇からの内々の訓戒が穂積皇子に行なわれたことがあったとか。
(これだけでも、十分に穂積皇子にとっては、絶大な効果があったと思われますし。)
そしてそれがその内に「万葉集」の編纂者による、穂積皇子と但馬皇女の恋の物語化に従い、穂積皇子の崇福寺派遣にまで結び付けられて、こうした詞書に発展したことも考えられるのではないでしょうか。)
このように穂積皇子と但馬皇女の関係についての人々の噂、そしてそれがひいてはついに天皇の介入までをも招いたという事実が全く存在しなかったというよりも。
このようにある程度、それに近いことが実際にも存在しており、それが更に「万葉集」の編纂の過程で殊更大事に、そしてドラマチックに仕立てられていったと見た方が個人的にはより納得がしやすいのですが。
そして「万葉集」に掲載された但馬皇女の歌と穂積皇子の挽歌、そしてそれらの歌に付けられた詞書がどこまで現実の彼らの恋を反映していると判断しても良いのか?という問題ですが。
私の見る所では、穂積皇子と但馬皇女の恋は本格的な騒動に発展する前に終わったのではないのかと思われるのですが。
おそらく、既に人々の間で自分達の恋が噂になり、困難を感じ始めていたと思われる穂積皇子と但馬皇女。
更にそうした噂がその内に持統天皇の耳にも入り、持統天皇からの穂積皇子と但馬皇女とのことについての、穂積皇子への内々の訓戒までもがあったとしたら?
人々の噂に加えて、天皇からの忠告までもが行なわれれば、穂積皇子と但馬皇女も別れるしかなかったのではないのでしょうか。
それにその方が現実的なようにも感じられますし。
「万葉集」の中の「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思ひて作らす歌一首」という詞書と共に紹介されている但馬皇女の最初の歌「秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛くありとも」。
これらの内容はいかにも穂積皇子との関係が既に人々の間でかなりの噂になっているにも関わらず、但馬皇女がそれをも恐れない、自分の一途で強い穂積皇子への恋心を詠んだのかのような印象を与えてはいますが。
更にそんな状況の中、勇敢にしかももしかしたらまさか皇女自ら前例のない、女性の方から男性の許を訪れていくという行動を起こしたのか?
あるいは穂積皇子との恋のためにそこまでやりかねない程の自分の強い思いを堂々と歌っている?と思わせるかのような三首目ですし。
「人言を 繁み言痛み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る」
そしてこれも仮託なのでは?という指摘がしばしば見られ、そのあまりにもドラマチックな題詞とそれにいかにも合わせたかのようなこれまたいかにもドラマチックな歌の内容から仮託の可能性が強いのでは?という疑問を私も抱いている一一五番歌。そしてこの朝川の一一六番歌は、但馬皇女の作とはされているものの、実際には伝承的性格の著しい歌であるという万葉学者の指摘もありますし。
確かにこの一一六番歌も、あまりにも大胆かつドラマチック過ぎる内容と調子であり、それゆえにこそ、伝承歌なのでは?という私の中での疑問も強く。
こうして考えてみると現在「万葉集」に掲載されている一一四番歌と一五一五番歌が但馬皇女自身の詠んだものであるのかもしれません。
それにこうして「万葉集」に歌物語として掲載されている時点で、彼らの恋についても実際の姿よりもよりドラマチックに大幅に増幅された形で伝えられていると考えた方が良いでしょうし。
となるといかにも高市皇子の宮に一緒に住んでいるにも関わらず、大胆にも但馬皇女が穂積皇子との逢瀬を重ねていたかのような印象を与える題詞の内容自体も、信憑性について疑ってみた方がいいのかもしれません。
読者達に殊更衝撃的な印象を与えるために、そんな印象を与える題詞の内容にしたのかもしれませんし。
また但馬皇女のような皇族の場合は妻問い婚の後はやはり夫の許に同居していたのか?それとも妻方へ夫が入ったのか?それとも妻が夫の方へ入ったのか?
つまり「妻方居住婚」か、「夫方居住婚」かについては、古代の研究者達の間でも議論があるようですし。
だから高市皇子との結婚前も、また結婚後もそして高市皇子との死別後もずっと但馬皇女が自分の内親王宮に居住していた可能性も考えられそうです。
ちなみに黒沢幸三氏は出土した木簡の「多治麻内親王宮」と記されている、但馬皇女の内親王宮は高市皇子との間に子供がいなかった但馬皇女が新たに内親王宮を造営させて住んだと考えているようですが。
しかし、この宮は但馬皇女が独身の頃から所有しており、更に高市皇子と結婚してからも住み続けていた可能性も考えられるとも私は思うのですが。
未婚のままだった大伯皇女も、独自の内親王宮を持っていたようですし。
こうした皇女独自の宮は未亡人に限定されるようなものではないと考えられます。
また、こうした黒沢氏の想像は皇族夫婦は同居するものという見方を前提にしているようですし。
それにこのように高市皇子と結婚してからもずっと自分個人の所有する宮に住んでいる場合の方が夫ではない穂積皇子とも会いやすそうですし。
元々、但馬皇女とは兄妹?姉弟?の関係でもあるし、それに彼女の夫の高市皇子とは仕事上での関わりもあるからということで、穂積皇子が高市皇子の妃である但馬皇女の宮に挨拶などをきっかけに訪れるようになったのかもしれません。
穂積皇子と但馬皇女の関係についての、「万葉集」などの中での高市皇子の反応が伝えられていないことも関係して、今までは高市皇子と但馬皇女との夫婦関係については私もよくわからないという印象が強かったのですが。
しかし、こうしていろいろと考えていくとあまり高市皇子と但馬皇女の夫婦仲自体も良くなかった可能性も考えられるようにも思いますし。
(彼らの間にはかなりの年齢差が存在すること、またその結婚自体も政略的な結婚の印象が強い印象などから考えても。)
そんな中、但馬皇女とは同年代でその上、彼女からしたら大変に好ましく感じる男性の穂積皇子が現われたということだったのではないでしょうか。
それにその場合も、おそらく、別に高市皇子と但馬皇女のどちらが悪いとかでもなく、単純に相性的な問題だったのではないのかと思いますし。
また、永井路子や三枝和子などの作家達も、「女帝・氷高皇女」や「よみがえる万葉人」などの中で穂積皇子と但馬皇女の情熱的な恋が伝えられていることに加えて、高市皇子と但馬皇女の間にもそんなに特に強い愛情や関心が存在していたという訳でもなかったのではないのか?というような見方を示していますし。
永井路子の方は一夫多妻制で高市皇子には但馬皇女だけではなく、複数の妻が存在していたからという理由などを挙げているのに対し、特に三枝和子の方は高市皇子と但馬皇女は不仲だったとしていますし。
ちなみに三枝和子も高市皇子と但馬皇女との結婚は、但馬皇女の母が藤原氏出身の女性であるなどの、高市皇子と藤原氏との関係によるものと考えているようです。
それに両者とも穂積皇子と但馬皇女の関係についての、「万葉集」の中などでの高市皇子の反応が伝えられていないからというだけではない、高市皇子の穂積皇子と但馬皇女との関係についての、ひいては高市皇子の但馬皇女への関心の薄さのようなものを漠然とながらも感じ取っているのではないのかと思われますし。
そして私もどことなく、そんな気配を感じないでもないというか。
「万葉集」の中での穂積皇子と但馬皇女の恋物語については、これも重要な関係者の一人であるはずの高市皇子ですが。
しかし、全体的にこの中では彼の影が薄い印象であり、詞書の中に穂積皇子と但馬皇女の恋についての高市皇子の反応が一切書かれていないのも、彼らの関係が発覚した時も、高市皇子が特にこれといった強い反応を示さなかったからということとも、関係があるのかもしれないですし。
それに穂積皇子と但馬皇女の恋について、夫である高市皇子は大変な怒りを現したなどと書けば、「万葉集」の中での穂積皇子と但馬皇女との悲恋物語自体も、より盛り上がりそうにも思えますし。
しかし、当時の実際の高市皇子の反応については、この時の当事者の一人である穂積皇子から坂上郎女が直接聞いて知っていたために、さすがに事実と全く違うことはいくら歌物語の詞書の内容としても、書けなかったということなのではないのでしょうか。
但馬皇女の夫であったらしい高市皇子の存在を示すことで、辛うじてこの物語については彼ら三人の三角関係的な印象を与えてはいるものの。
そして想像される、そうした日頃からの高市皇子の妃の但馬皇女への関心の薄さも関係してということなのでしょうが、三枝和子はそもそも、高市皇子は穂積皇子と但馬皇女との関係に気づいてもいなかったとしていますし。
それに但馬皇女の宮への、夫の高市皇子の訪れも極めて稀、あるいはたまに訪れても泊まらないで短時間で帰ってしまう。
もし、高市皇子と但馬皇女との夫婦関係がこのような状態であったとしたら、但馬皇女の女官も穂積皇子と但馬皇女の恋に共感を示して、よけいに彼らの秘密は守られやすそうな部分もありそうにも思われますし。
元々の想像される彼らの不仲に加え、特に持統四年に高市皇子が太政大臣になってからはその多忙さもあり、ますます、但馬皇女からその足が遠のいたとしても不思議ではありませんし。
そしてそんな状況の中、穂積皇子と但馬皇女との間に密かな恋が生まれる理由は十分に考えられます。
それに高市皇子から但馬皇女が大変に寵愛されている妃であったならそれだけ自然と多くの人々からも注目もされやすいでしょうし、またその分、彼女も自由な行動もしずらかったであろうとも想像されますし。
また、但馬皇女がそこまで寵愛する妃であったならば高市皇子も忙しくても何とか時間を作って、定期的に彼女の許を訪れようとするはずではないのかとも想像されますし。
こんな状況であったのならば、当然、穂積皇子と但馬皇女が恋人になるのもかなり難しいかっただろうと考えられます。
それから私は実際の穂積皇子と但馬皇女の恋について考えていく内にこれも彼らの恋に関わる、重要な人物を忘れていたことを思い出しました。
それは但馬皇女の叔父であり、おそらく高市皇子と但馬皇女の結婚も主導したと思われる藤原不比等です。
不比等としてはゆくゆくは自分の姪で高市皇子に嫁がせた但馬皇女が皇子を生んでくれることを期待していたはずです。
しかし、そんな彼からすれば許し難いことだったと思われる、穂積皇子と但馬皇女の
密通です。
それに彼の立場からすれば、高市皇子に嫁がせた自分の姪の起こした恋愛スキャンダルということで高市皇子に対してもきまりの悪い思いであったでしょうし。
もしかしたら穂積皇子と但馬皇女の密通について激しく怒っていたのは、高市皇子よりもこの藤原不比等だったのかもしれません。
そしてこの藤原不比等の存在からは自然と大変に彼に目をかけていた持統天皇の存在までもが連想されますし。
それにこの藤原不比等が穂積皇子と但馬皇女のことについて持統天皇に以下のようなことを語り、天皇からの穂積皇子への忠告を期待したことも考えられます。
本当に穂積皇子と自分の姪で高市皇子の妃である但馬皇女のことには頭を痛めている。自分からも二人にそれとなく注意をしてみたのだが全く効果がない。
どうか天皇からも穂積皇子に忠告をしてもらえないものか。
それで確かにこれは捨て置けないと判断した持統天皇から穂積皇子への内々の訓戒が行なわれたことも、十分に想像できますし。
持統天皇からすれば高市皇子は重要な右腕ですし、また藤原不比等も日頃から自分が高く評価している大切な廷臣ですから。
しかし、「万葉集」の中では穂積皇子と但馬皇女の恋に関しては、これも見逃せないと思われる人物であるこの藤原不比等の存在は完全に無視されています。
おそらく、それも意図的なものなのでしょうが。
この藤原不比等の存在こそ、穂積皇子と但馬皇女の恋を巡る、現実のシビアな政治的事情を象徴する人物そのものだったからでしょう。言わば現実そのものと言うか。
そしてこんな藤原不比等は穂積皇子と但馬皇女の恋物語の中の登場人物には、相応しくないと判断されたのでしょう。
だからこの穂積皇子と但馬皇女の恋物語も、彼らのその恋の現実の姿をそのままに再現したものではなく、「万葉集」の編纂者の一定の方向性や美意識によって再構成されて更に物語的な装飾をも施されて掲載されていることにも改めて気づかされます。
「万葉集」の中では穂積皇子と但馬皇女の恋はあくまでも高市皇子と穂積皇子、そして但馬皇女三人の中だけでの極めて限定的な人間関係の中でのものとして、扱われています。
それは最低限の物語の背景程度の存在として、穂積皇子と但馬皇女の関係については、世の人々の噂で騒がしかったらしいような説明も一応、付けてはいるものの。
しかし、この三人以外の人々の存在はこのように不特定多数、匿名の要素が強い扱われ方であり、具体的な個人の存在としては高市皇子と穂積皇子、そして但馬皇女以外の人物の存在は抹消されています。例外としては、穂積皇子を冷静にさせるため、一時的に穂積皇子を都から遠ざけ、近江の山寺に派遣した持統天皇の存在がありますが。
しかし、この中でのこの天皇の存在も、あくまでも高市皇子と穂積皇子の両方の立場を考慮した温情に基づいての、こうした穂積皇子への命令を出した天皇という扱われ方です。
これと関連して、伊藤博氏の以下の指摘も注目される内容ですし。
「三首は、天皇が介入してさえ、なおかつ、めげない女の愛のたかぶりを奏でた世にも希少な恋歌として、人びとにもてはやされたのであろう。両皇子への天皇の思いやりを前提とする事柄に対する抵抗であるがゆえに、かえって、安心して享受される面もあったのであろう。しかし、これが政治的事件であればそうはいかない。男女本然の「恋」の事件であることが、物語的に楽しんで伝えるゆとりを誰の心にも与えたのであろう。事実、「万葉集」には、この三首よりもっと露骨な場合、勅勘に関わる場合の恋歌などを、それゆえに悲しく美しい歌々と見て、たくさん収めている。
恋は、どんな恋も、めくじら立てずに語り伝えられる甘みを、常に秘めている。罪なき話題は、いつの世にも恋なのであった。」
しかし、このように伊藤博氏が指摘する穂積皇子と但馬皇女の恋は、あくまでも「万葉集」の中で最初からそのようにアク抜きされた美しい形として、現実の生々しくてシビアな政治的事情は一切排除した結果としてのそれと見るべきなのではないのでしょうか。現実の彼らの恋自体もそうであったというよりも。
そして伊藤氏が指摘するように、持統天皇の穂積皇子を一時的に都から遠ざける処置も、あくまでも持統天皇の高市皇子と穂積皇子個人への思いやりの上の命令であるかのような描かれ方ですし。
これもシビアな政治的配慮の要素は一切排除されて。
おそらく、実際にも持統天皇からの穂積皇子への但馬皇女とのことについて行なわれた可能性が考えられるその訓戒も、その理由としては持統天皇の高市皇子や藤原不比等との関係からの配慮もあるでしょうが。
その他にも高市皇子の妃である但馬皇女と穂積皇子との密通により、高市皇子と穂積皇子との関係に大きな亀裂が入り、仕事上の支障が出ることも危惧したのではないのでしょうか。
やはり、このように現実の穂積皇子と但馬皇女の恋と「万葉集」の中での彼らの恋との間にはいろいろな隔たりが見られます。
但馬皇女が持統天皇の片腕である高市皇子の妃というだけではなくて、こちらも持統天皇との関わりも深い廷臣である藤原不比等の姪でもある時点で、穂積皇子と但馬皇女との恋が高市皇子、穂積皇子、但馬皇女三人だけの問題で済む訳がないだろうとも思われますし。
それにこれも伊藤氏の指摘にもあるように、確かに「万葉集」の歌の中から見た限りでは、但馬皇女は持統天皇が高市皇子と穂積皇子の立場を配慮し、一時的に穂積皇子を都から遠ざけ、つまり、但馬皇女の許から遠ざけるために穂積皇子を近江の山寺へと派遣しているのにも関わらず。
しかし、この詞書が添えられて掲載されている但馬皇女の歌は何とも大胆不敵で情熱的です。
「穂積皇子に勅して、近江の志賀の山寺に遣はす時に、但馬皇女の作らす歌一首
一一五 後れ居て、恋ひつつあらば 追ひ及かむ 道の隈みに 標結へ我が背
後に一人残って恋焦がれてなんかおらずに、いっそのこと追いすがって一緒に参りましょう。道の隈の神様ごとに標を結んでお祈りをして下さい、あなた。」
このようにまるで天皇の介入も意に介さず、それ所か天皇でさえもこの自分の穂積皇子への恋心を禁止することはできない、そして自分達を引き離すことができないと高らかに宣言し、その穂積皇子への激しく情熱的な恋心を強く訴えている大胆で情熱的な女性の印象です。
まさにその三首のいずれも、夫の高市皇子と同じ宮に住みながらもその場所で夫以外の他の男性を思う恋心を堂々と歌い、また、どんなに世間の噂がうるさかろうが問題ではない、秋の穂が一方に片寄っているように、ただひたむきにあなたに寄り添っていたいと言い放つ。
また、天皇の命令など知ったことではない、こうして天皇の命令により、都から遠ざけていくあなたにただ恋焦がれてなんかいるのは嫌だ。
あなたを追いかけていきたい。
これら三首の中では、密通についても、またその密通が暴露されたことについても、一歩もたじろがぬ女性の強烈な恋心が見事に表現されています。
しかし、現実としては穂積皇子と但馬皇女は、世間の噂や天皇の権威と権力などの障害についに逆らうことができず、彼らの恋は終わりに向かっていったと想像されますし。
「万葉集」の中での但馬皇女は、穂積皇子との恋のためならまさに何者をも恐れない、大胆で情熱的な恋のヒロインにされていると言っていいでしょう。
それから穂積皇子と但馬皇女の恋物語については、既にこの恋に関わる高市皇子と穂積皇子、そして但馬皇女が三人とも他界しているために好き勝手にいろいろと創作された可能性も考えられるとは思いますが。
しかし、中臣宅守と狭野弟上娘子の恋物語同様、やはり、こちらも一定の事実に基づいて創作された物語だと考えてもいいのではないのでしょうか。
実際は恋人同士でもなかった二人を、さすがに「万葉集」の歌物語の中でも恋人同士にまではしたりはしないだろうし。
それから賀古明氏の指摘のように穂積皇子と但馬皇女の関係は一方的に穂積皇子に但馬皇女が思いを寄せていただけだけだとすれば。
実際の但馬皇女がそんな大人しい女性なら、「万葉集」であのような悲恋の歌物語に発展していく程の強い関心を坂上郎女や家持が抱くのだろうか?という疑問を私は覚えますが。
それにいくら「万葉集」の歌物語と言えどそんなに現実の但馬皇女とかけ離れた人物像にまで創り上げられないのではないかとも考えられますし。
あの「万葉集」の中の但馬皇女の姿は、実際の但馬皇女の姿をある程度は反映しているのではないかとも私には感じられますし。
それから廣岡義隆氏の指摘する、穂積皇子と但馬皇女の歌物語はそもそも、但馬皇女は穂積皇子に恋心さえも抱いていなかった、おそらく、共に父母が皇族ではなく、そしてその母が夫人であるという多少の境遇の共通点から生まれた事実に基づかない彼らの恋の噂から生まれたあくまでも遊びの世界、虚構の恋歌の世界とすることについてですが。
確かに奈良時代に入ってからは天平の片恋文化とも呼ばれる、大伴家持や坂上郎女などやその周辺の歌人達により、虚構の恋歌の文化が発展していきますが。
しかし、この穂積皇子や但馬皇女は主に飛鳥時代に属する人々ですし。
従って、まだそこまで恋歌の虚構化も進んでおらず、現実の恋愛を歌った恋歌は多かったと考えられます。)
それに穂積皇子と但馬皇女の恋歌から想像される、彼らの恋はそのような初めから虚構を基本にしたものではなく、現実の彼らの許されない恋をこうして半ば虚構化した歌物語化することによって、現実で語ることが可能になったものという印象の方を私は強く感じますが。
確かに彼らのその恋の内容が内容だけに生々しい現実そのままとして、人々が語ることは憚られそうですが。
しかし、こうして間にフィクション性を挟み、新たに物語として再構成することで、そうした彼らの許されない恋でも語りやすくなるというのは、何か私にもわかるような気がしますし。
それにこちらは宮廷に仕える女嬬との恋という、これも禁断の恋である、中臣宅守と狭野弟上娘子の恋の場合も、そうした例に相当すると思いますし。
彼らの恋の場合も、歌物語の中ではごく簡単な彼らの恋歌のやり取りに関連した、いくつかの場面説明が付けられて、主に彼らの恋歌で彼らの恋が語られる形になっていますし。「中臣宅守と狭野弟上娘子との贈答の歌」・「右の四首は、娘子の別れに鑑みて、作る歌なり」・「右の四首は、中臣朝臣宅守の、上道して作る歌なり。」
具体的な彼らの状況や彼らを巡る年月や出来事の説明は一切付けられていません。
確かにこの中臣宅守と狭野弟上娘子の恋も宮廷と大きく関わる内容でもありますし、特に宮廷の間では現実そのままの恋の話としては語りずらい部分があったと想像されますし。
参考文献
「但馬皇女と穂積皇子の歌について ―「言寄せの世界」廣岡義隆
AN100450900020010.PDF