天武元年(672)頃―和銅八年(715)没。
天武天皇と蘇我赤兄の娘の大ぬ娘(石川夫人)の皇子。同母妹には紀皇女、そして伊勢の斎王になった田形皇女がいる。
この紀皇女も、弓削皇子や高安王との恋で知られており、恋多き兄妹だったのでしょうか。子供には上道王や境部王がいる。また、彼の孫の広河女王も「万葉集」に歌が収録。正妃の存在は不明。
他に穂積皇子の妻としては、晩年に結婚したと思われる、「万葉集」の代表的女性歌人の大伴坂上郎女の存在が確認できるのみ。
大伴坂上郎女は穂積皇子から大変な寵愛を受けたという。
そして残念ながらこの「万葉集」の代表的歌人である、彼らの相聞自体は残されていない。
また、穂積皇子と言えば、同じく天武天皇の皇子で異母妹?の但馬皇女との恋で有名です。いつ、どのようにして、彼と但馬皇女との恋が始まったのかは、よくわかりません。しかし、但馬皇女の穂積皇子への情熱的な恋の歌が三首残されている事から、必ずしも但馬皇女はひたすら受身のまま、穂積皇子からのアプローチに応じたとは限らないような気がします。
とはいえ、現実には当時の但馬皇女は太政大臣の高市皇子の妃であり、彼ら二人のこの恋は、許されない恋でした。
また、但馬皇女があなたを追いかけてついていきたいという、「万葉集巻第二」の115の歌の詞書に、穂積皇子が勅命により、近江の志賀の山寺に遣わされた時の歌とあるので、やはり、二人の恋は露見したため、持統天皇の命令により、こうした形で穂積皇子が自重を促す処分が下されたと思われます。
ちなみにこの山寺は持統天皇の父である天智天皇がその即位の年である天智天皇七年(688年)に建立した崇福寺のことだろうと考えられています。
そして十二月三日は天智天皇の忌日であるため、そのような法会の用意などを口実に
、一時的に穂積皇子を都から遠ざけたものだと考えられます。
やがてその内に、但馬皇女の夫高市皇子が死去します。
そして、その後、但馬皇女も和銅元年の六月に、おそらく、比較的若くして亡くなったと推定されます。穂積皇子は但馬皇女の死を悼み、彼女の亡くなった年と思われるある雪の降る日、遠くから彼女の葬られた墓のある吉隠の猪養の岡を眺望して、涙を流しながら次の挽歌を詠んでいます。
「万葉集」巻第二 二〇三
「降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに」

意味 降る雪よ、あまりたくさん降ってくれるな、吉隠の猪養の岡に眠るあの人が寒いだろうに。しかし、これは但馬皇女の墓のある猪飼岡へと通じる道との間が雪で塞がれてしまい、自分がそこに行く事ができなくなってしまうからという意味であるという解釈も、あるようです。
いずれにしても、穂積皇子の、但馬皇女への愛と深い悲しみが伝わってくる歌だと思います。おそらく、二人は、心から愛し合っていたのではないでしょうか。
ちなみに伊藤博氏は、こうして穂積皇子が但馬皇女の死の際に詠んでいる挽歌は高市皇子の死後に晴れて但馬皇女を妻とした睦まじさを踏まえてのものか、それとも、彼らの密通が露見してしまったがために、ずっと離れ離れになっていたことへの愛着のゆえかとしていますが。
また伊藤氏は「万葉集」巻第八 秋雑歌に収録されている穂積皇子の「一五一三 今朝の朝明 雁が音聞きつ 春日山 もみちにけらし 我が心 痛し」の歌は表面上は春日山の紅葉を見たくて心が痛む意味の歌でありながら、和銅元年六月に死んだ妻
但馬皇女に対する痛みをも込めているのだろうとしていますが。
また、もう一首の「一五一四 秋萩は 咲くべくあらし 我がやどの 浅茅が花の 散りゆくを見れば」についても、これも表面上は季節の風物を歌ったように見せておいて、実は但馬皇女とのことを詠んだものだと見る向きがあるようですが。
二首の意味。
「一五一三 今朝の明け方、雁の声を聞いた。この分では春日山はもみじしてきたに違いない。つけても私の心は痛む。」
一五一四 萩の花は今にも咲きそうになっているに違いない。我が家の庭の浅茅の花が散ってゆくのを見ると。」
それから私はどうもこの二首、穂積皇子が但馬皇女とのことを詠んだ歌には感じられないのですが。
本当に文字通り、秋をテーマに詠んだ雜歌にしか感じられないのですが。
これらの二首も穂積皇子が但馬皇女とのことを詠んだ歌だとするのは、私は想像を膨らませ過ぎ、何とか穂積皇子との歌と関連付けようとし過ぎのようにも思われますし。
しかし、こうして「万葉集」巻第八の中で、その二首のすぐ後には但馬皇女のこれも雁を詠んだ以下の歌が掲載されているということは、編纂者は意図的に彼らの歌に関連性を持たせたいのかなとは感じますが。
一五一五「言繁き 里に住まずは 今朝鳴きし 雁にたぐひて 行かましものを」
人の口のうるさいこんな里なんかに住んでいないで、いっそのこと、今朝鳴いた雁と連れ立ってどこかへ行ってしまえばよかったのに。国なんかにいないで。
そして秋の雑詠に分類されてはいるものの、この「言繁きは」は通常は恋の噂を指すものたであるということもあり。
しかし、こうした場合でも私は本当に彼らの歌に関連性があったからというよりも、編纂者の意図に拠る所の方が大きいように思えますが。
それからやはり、私は但馬皇女の夫の高市皇子が死去したからといって、穂積皇子との恋が宮廷中の大騒動になっていたこと、そして持統天皇が乗り出して、一時期、穂積皇子を近江の志賀寺にまで派遣していること。
穂積皇子と但馬皇女の恋はこれだけの大騒動を引き起こしてしまうこととなり、結局彼らは別れざるをえなくなったと考えられます。
但馬皇女の夫である高市皇子が死去したからといって、彼らの関係が復活したかどうか。
そして既に私も但馬皇女の記事でも書いているように。
この穂積皇子の挽歌については、その表現や内容、また、公的な印象の皇族達関連の挽歌が前後に並ぶ中、その間でこの穂積皇子の挽歌だけがそのいかにも悲恋物語的なドラマチックな印象を与える題詞とも相俟って、明らかに前後の挽歌とは異質なものをどこかに感じてしまうというか。
なぜこのようにこの穂積皇子の挽歌だけが但馬皇女の死去した年の冬、穂積皇子が埋葬地の猪養の岡を眺めながら涙を流して挽歌を詠んだなどという、極めて個人的かつ彼自身の情感溢れる故人への思いを歌った内容になっているのか?
これらの点から、私はこの穂積皇子の挽歌については、後世の人の仮託の可能性も感じないでもなく。
そして前述の穂積皇子の秋の雑歌として収録されている歌まで、但馬皇女に関連した歌だとしたり、また彼らの婚姻関係を見ようとするなどこの伊藤博氏の見解も、高市皇子と十市皇女の場合もそうなのですが、何でも通常の亡妻挽歌のパターンに当てはめて、理解しようとし過ぎている傾向が私としては気になる所があります。
穂積皇子が但馬皇女の挽歌を詠んでいることから、これも通常の夫が妻の死を悼んで詠む亡妻挽歌のパターンだと捉えて、そこからおそらく、穂積皇子と但馬皇女も結婚していたと考えているのでしょうが。
しかし、この但馬皇女の死去時には、正式に認められた婚姻関係にあった夫の高市皇子は既に死去していること。
そして高市皇子の死去後に確実に穂積皇子と但馬皇女が結婚した証拠もない点について、もっと注目するべきでないかと思うのですが。
そして穂積皇子の但馬皇女への挽歌については仮託の可能性も考えられるとはいえ、私も実際に彼らの間に恋が存在した可能性までは否定するつもりはないのですが。
それに確かに夫の高市皇子の死去後、おそらく再婚もしないまま死去したと思われる但馬皇女の挽歌を詠むのに最も相応しい人物と言えば、但馬皇女と恋仲でこの穂積皇子であるように感じられるのも事実ですし。
穂積皇子の場合、実際に彼が但馬皇女と結婚して、その夫として但馬皇女の挽歌を詠んだというよりも、穂積皇子は但馬皇女の夫であった高市皇子に準じる立場として、夫の高市皇子に代わって但馬皇女の挽歌を詠んだ可能性も考えられなくもないですが。
まあ、いかにもこの穂積皇子こそ但馬皇女の挽歌を詠むのに相応しい相手だと人々にら思われたからこそ、仮託がされたとも考えられますが。
おそらく、但馬皇女は高市皇子との死別後は誰とも再婚もしないまま、そのままひっそりと暮らしていたのではないのでしょうか。
また実際にも但馬皇女が再婚しないままでも、経済的には何も問題もなく、暮らせたと思うので。
当時の皇族女性は経済的に独立しており、夫とは個別に財産も所有していたようなので。
また、藤原宮跡から出土した木簡の「多治麻内親王宮」という記述からもわかるように但馬皇女は独立した宮を持っていたことがわかっており。
そして黒沢幸三氏はこのことから高市皇子との間に子供のいなかった但馬皇女が新たに内親王の宮を設営して未亡人として生活していたことがわかる。
穂積皇子と但馬皇女の結婚説は訂正される必要があると指摘しています。
それから穂積皇子と但馬皇女は結婚するのには、いろいろと難しい所があったのではないかとも想像されますし。
高市皇子が死去してから但馬皇女が死去するまでの十数年間の間、穂積皇子が正妻を娶っていなかったとは考えずらいですし。
しかし、そこに新たに但馬皇女を妻にするとなれば、彼女のその皇女という身分の高さから但馬皇女が正妻ということになってしまうでしょうし。
当然、いろいろな問題が発生することも考えられますし。
それに穂積皇子には数人の子供がいたことが確認されますが。
しかし、その子供達の母は但馬皇女であったという正史の記述もありませんし。
やはり、高市皇子の死去後に確実に穂積皇子と但馬皇女が結婚した証拠となるものは見られません。
それに夫が妻の死を悼んだいわゆる「亡妻挽歌」とされるものは、十市皇女(「万葉集」巻第二 一五六・一五七・一五八)、明日香皇女(「万葉集」巻第二 一九六・一九七・一九八)、但馬皇女(「万葉集」巻第二 二〇三)、柿本人麻呂の妻(万葉集」巻第二 二〇七~二〇九)、大伴旅人の妻の大伴郎女(「万葉集」巻第三 四三八~四四〇、四四六〜四五〇、四五一~四五三、)、大伴家持の亡妾(「万葉集」巻第三 四六〇~一、四六二~四、四六五~九、四七〇~四)、高橋朝臣の妻(「万葉集」巻第三四八一~三)。
これらの女性達への挽歌などがあります。
そしてそれらの内容は、十市皇女と但馬皇女への挽歌以外は、妻の死を悼むと共に妻が生きていた頃の、その夫婦として過ごした日々の思い出について歌う内容ばかりです。
しかし、この穂積皇子の挽歌も目の前の但馬皇女の死の悲しみ自体について歌う内容であり、但馬皇女と夫婦として共に生活していた時の思い出や日々について、触れている内容ではありません。
この穂積皇子の但馬皇女への挽歌からも、高市皇子の十市皇女への挽歌同様、歌の内容からは二人が夫婦として生活していたらしい気配が感じ取れません。
こうした特徴からも、この穂積皇子の但馬皇女への挽歌も、通常の夫が妻の死を悼んで詠んだ「亡妻挽歌」として捉えてもいいのか?という私の中での疑問が湧いてきますし。
また、「万葉集」の中でも、穂積皇子と但馬皇女の恋については、天皇の介入や世間の噂などにより、ついに結ばれることのなかった彼らの悲恋物語として、伝えられている印象が強く感じられますし。
また、「万葉集」の中で冬の雪の日に泣きながら但馬皇女の挽歌を詠んでいる穂積皇子という展開からは、とても穂積皇子と但馬皇女がついに晴れて結婚したという、幸福な結末は感じ取ることができませんし。
それにこうした世間の様々な障害に突き当たり、彼らの関係が途絶えたまま、高市皇子の死後も、もう二度と彼らの関係は復活せず、離れ離れのまま、ついに死別したと想像する方がこの穂積皇子の挽歌の内容なども含め、私にはより哀切に感じられていいなと感じるのですが。
それに許されない彼らの恋については、ついには持統天皇の介入までがあり、彼らが気持ちの中ではこうした世間という障害に負けたくない、二人の気持ちを貫きたいという思いだけは強かったにしても。
それにしても、彼らがこれらの現実に抗うのはなかなか困難であったのではないかとも思われます。
ましてや、皇族であり、男性である穂積皇子にとっては、その社会的地位や役職も十分に大切なものであり、ひたすら恋の情熱だけに突き進むことは、なおさら難しいことであったと想像されます。また、何かと自分に目をかけてくれていたと思われる、持統天皇からのこうしたその自重を促す処分を下されてまで、果たして彼が但馬皇女との恋を貫くことができたのかどうか。
ただ、この天皇の勅命によるという、穂積皇子の近江の崇福寺派遣については、実際は但馬皇女との密通による謹慎命令などではなく、公務だったとする見方が多いようです。
とはいえ、私が但馬皇女の記事の中でも書いているようにこの崇福寺派遣自体は但馬皇女とのこととは、直接的な関係はなかったにしても。
しかし、「万葉集」の中では、あたかも但馬皇女との密通を起こしたことによる天皇からの謹慎命令であるかのように書かれている、この穂積皇子の崇福寺派遣から見える、こうした形での天皇の介入と類似したことは、この穂積皇子の崇福寺派遣という出来事とは別に存在していたことも私は考えられように思います。
穂積皇子と但馬皇女との関係に対しての、持統天皇からの穂積皇子への内々の訓戒のようなもの自体は存在し、それが穂積皇子の崇福寺派遣と結び付けられて、こうして「万葉集」の中で更に重大化されて表現された可能性もあり得るのではないのでしょうか。
そしてこうした世間の噂や天皇からの注意という、諸々の障害の前に、穂積皇子と但馬皇女は離れ離れにならざるを得なかったのではないでしょうか?
それから私の中での穂積皇子は情熱的なロマンチストでナイーブな人物なので。
(それにこうして見るといかにも穂積皇子は女性から好かれそうな性格ですよね。)
だから専ら穂積皇子からの但馬皇女への返歌が見られないことを理由に、但馬皇女との恋においては但馬皇女の方が積極的で、どちらかというと穂積皇子の方は消極的であったかのように捉える見方に私は違和感があり。
そしてこれと似たような捉え方をされがちなケースとしては、家持と笠女郎のケースもありますしね。
しかし、「万葉集」で見られる家持からの笠女郎への返歌は二首だけであるとはいえ、実際には家持はもっと多くの歌を笠女郎に贈っていたはずだという万葉学者の指摘も存在していますし。
だから穂積皇子と但馬皇女の場合も、穂積皇子からの返歌が「万葉集」には見られないからとはいえ、穂積皇子の方は但馬皇女との恋に消極的であったとする見方には、私は疑問を覚えます。
家持と笠女郎の場合同様、実際には存在していたことが考えられる穂積皇子の但馬皇女への歌も後にまで残らなかった理由があるのではないのか?と私には思えるのですが。
それに人目を忍ばなければならない彼らの恋の性質から考えても、その確実な証拠ともなってしまう但馬皇女への自分の恋歌は、残しておくことが難しかったことも考えられるのではないのでしょうか。また、但馬皇女から贈られた歌の方も。
しかし、そのように具体的な数々の双方の歌という形では残らなくても、穂積皇子の但馬皇女への恋心は、これらのことからも十分に読み取ることができると私には思われますし。
「万葉集」に残されることになったこのような彼と但馬皇女との悲恋の歌物語。
他にも穂積皇子自身の作ではない、仮託だと考えられるとはいえ、但馬皇女が死去した時の穂積皇子の気持ちを代弁していると思われる、あの何とも悲痛な印象を与える挽歌。
但馬皇女と別れてから既に十数年が経過していたと思われるこの時、それでもなお穂積皇子の心にはこの挽歌から想像されるような強い但馬皇女への思いがいまだに消えずに残っていたということでしょうから。
また、穂積皇子と但馬皇女の許されない恋は現実の出来事としてのそのままの形としてではなく、こうして物語化することによってこそ、「万葉集」に載せることが可能となったのでしょうし。
既に私が但馬皇女の記事でも指摘しているように、現実の彼らの恋を取り巻いていたと思われる、いろいろなシビアな政治的事情及びそれを象徴するような人物の存在は巧みに排除されて、彼らの悲恋そのものを強調する形にされている形跡からも、それは明らかですし。
それにこの穂積皇子と但馬皇女の歌物語も例によって、彼らの恋に関連する、その具体的な年月は記されてはいません。
そしてこれも昔の話だからというよりも、あえて編纂者の家持により、いつともわからない時の一体何年の間、続いたかもわからない恋の物語として曖昧な形にした、歌物語に仕立てているのでしょうし。
昔のこととはいえ、穂積皇子と但馬皇女の恋に関連する具体的な年月についても、穂積皇子自身から坂上郎女が確認することができていたはずだと思いますし。
そしておそらく、穂積皇子と但馬皇女との恋も、初めは穂積皇子の無聊をかこつ彼女の話し相手にでもなれたらと思う気持ちから始まった、内親王宮でのその彼と但馬皇女との交流がいつしか恋に発展していったというようなことだったのではないのでしょうか。
夫である高市皇子の訪れも極めて稀であり、また彼との間に子供もいない、そんな境遇の但馬皇女に対する同情が自然と繊細な穂積皇子の心に芽生えてきたとしても、不思議ではないでしょうし。
もちろん、他にも穂積皇子の但馬皇女を女性として好ましく思う気持ちも、大きく存在していたのでしょうが。
それから過去の但馬皇女との情熱的な悲恋の経験は、おそらく、穂積皇子の男性としての魅力にもなったことだと思われます。
それから但馬皇女の死後、数十年も経ち、若い頃の苦しい恋を経て、酸いも甘いも噛み分けた中年の男性になっていたと思われる穂積皇子は、当時の彼よりかなりの年齢差があったと思われる、当時の大伴坂上郎女と再び情熱的な恋に落ちたと思われます。「万葉集」には「郎女は佐保大納言卿の女なり。はじめ一品穂積皇子に嫁ぎ、寵愛を受けること類なし」とまで記されていますし。
おそらく、当時の大伴坂上郎女はまだ十五歳くらいの年齢ではなかったと思われるとはいえ、穂積皇子が晩年に出会った彼女は当時から打てば響くような才気のある魅力的な女性だったのでしょう。
そしてこの穂積皇子から、但馬皇女は男女の恋について、そして歌について多くを吸収していったのでしょう。実際にも、大伴坂上郎女は穂積皇子との死別後も藤原家の貴公子であった藤原麻呂、大伴宿奈麻呂などとの恋を経験し、彼らと巧みな歌のやり取りもしています。
それからおそらく、これは穂積皇子が晩年になってからの歌だと思われますが。
彼には自邸の宴の席で酔うと必ず口ずさむ、一首の歌がありました。
「万葉集」巻十六 三六一八 家にある櫃に鍵刺し蔵めてし恋の奴がつかみかかりて
意味 家にある櫃の中に鍵をかけて閉じ込めておいた、恋の奴めがまたつかみかかってきた。
若き日の但馬皇女との恋など、これまでさんざん、恋に悩み苦しみながらも、また恋に囚われてしまったという、穂積皇子の自嘲が感じられる歌です。
甘美でありながらも、厄介で狂おしいもの、それは恋という感じでしょうか。
穂積皇子がこのような歌を詠んでいることや少女の頃に穂積皇子に嫁いでいる大伴坂上女郎がこの穂積皇子からの影響もあり、恋多き女性歌人になっていったのではと考えられることから想像してみても。
それにおそらく、その女性達との相聞の歌までは残っていなくとも、穂積皇子は但馬皇女との恋の後にも、新たに他の女性達とも数多くの恋をしたのではないかと思われます。もちろん、それでも穂積皇子にとっては、若き日の情熱的な但馬皇女との恋は、特別で忘れがたい恋であったのでしょう。
大伴坂上郎女との結婚生活は、何年続いたのかは不明ですが、穂積皇子は最終的に知太政官事という、高位に昇りました。
穂積皇子の全体的な官職については以下の通りです
大宝二年(702)十二月二十二日、持統上皇が崩じた時、作殯宮司。
翌年の大宝三年十二月十七日、太上天皇を飛鳥の岡に火葬する際、御装長官。
大宝四(704)年一月十一日、増封200戸。慶雲二年(705)年五月、兄である忍壁親王が薨じ、同年九月、知太政官事に就任。翌年、右大臣に准じて季禄を賜る。
しかし、高位とはいえ、これは名誉職のようなもので、実権はない役職だったようです。
恋多き、多情多感な風流人であったらしい穂積皇子ですが。
しかし、彼は出世にはあまり関心がなかった印象です。
少なくとも、舎人皇子や新田部皇子のように政界の中心でバリバリ活躍しているというような印像はないですね。
特別に仕事に励むというよりも、無難に仕事をこなしていたら最終的に知大政官事にまで昇進していたみたいな。
生存している天武天皇の皇子達の中では、最年長の皇子に与えられる官位でもあったようですし。
ただ、この知太政官事の実態については議論もあるようですが。
穂積皇子と但馬皇女の恋が果たして何年間続いたのかは不明ですが。
さすがに持統上皇が崩御した時の作殯宮司という役職に穂積皇子が任命される数年前には、彼は既に但馬皇女とは別れていたものと考えられます。
それにおそらく、この作殯宮司という役職もかなり重要な役職なんでしょうし。
それから持統十年(696)の七月には高市皇子が死去しているので、それ以前には穂積皇子と但馬皇女は別れていた可能性が高いかと思われますし。
そしてこうして考えると想像される、穂積皇子と但馬皇女が恋愛中であった時期とし手は、穂積皇子が二十歳くらいから二十四歳くらいまでの、この間の期間ということになりますかね。また、二十代前半くらいから二十代半ばくらいまでって、何となく、私の中の恋愛中の穂積皇子と但馬皇女の年齢のイメージにも合う印像なのですが。
以下の賀古明氏の指摘。
持統四年(690年)に高市皇子が大政大臣に任命された時から、高市皇子薨去の持統十年(696年)までの間に、「日本書紀」に記録の出てくる皇子は、草壁・高市・河嶋以外には、舎人・長・穂積・弓削の四皇子で、この内「浄広弐位」の冠位を最も早く授けられているのは穂積皇子である所から、高市皇子が太政大臣在任中、穂積皇子は最重要視され、高市皇子と穂積皇子の親交の仲で、高市皇子宮にいた但馬皇女は訪れ来る穂積皇子に慕情を抱くようになった。
そして私はこの持統五年が穂積皇子の初叙位であったと考えて、この賀古氏の指摘するようにこの前年には穂積皇子の異母兄で但馬皇女の夫の高市皇子が太政大臣になっていることもあり、この持統五年から仕事の関係を通じて高市皇子との本格的な親交が始まり、その関係で但馬皇女とも親しくなっていったのではないのか?と想像するのですが。但馬皇女との関係が深まっていくのも、この穂積皇子の官職の経歴スタートの頃からのような気がするというか。
もちろん、それ以前に何かの機会で、とりあえず、既に彼らが顔を合わせてはいたのかもしれませんが。
天武天皇と蘇我赤兄の娘の大ぬ娘(石川夫人)の皇子。同母妹には紀皇女、そして伊勢の斎王になった田形皇女がいる。
この紀皇女も、弓削皇子や高安王との恋で知られており、恋多き兄妹だったのでしょうか。子供には上道王や境部王がいる。また、彼の孫の広河女王も「万葉集」に歌が収録。正妃の存在は不明。
他に穂積皇子の妻としては、晩年に結婚したと思われる、「万葉集」の代表的女性歌人の大伴坂上郎女の存在が確認できるのみ。
大伴坂上郎女は穂積皇子から大変な寵愛を受けたという。
そして残念ながらこの「万葉集」の代表的歌人である、彼らの相聞自体は残されていない。
また、穂積皇子と言えば、同じく天武天皇の皇子で異母妹?の但馬皇女との恋で有名です。いつ、どのようにして、彼と但馬皇女との恋が始まったのかは、よくわかりません。しかし、但馬皇女の穂積皇子への情熱的な恋の歌が三首残されている事から、必ずしも但馬皇女はひたすら受身のまま、穂積皇子からのアプローチに応じたとは限らないような気がします。
とはいえ、現実には当時の但馬皇女は太政大臣の高市皇子の妃であり、彼ら二人のこの恋は、許されない恋でした。
また、但馬皇女があなたを追いかけてついていきたいという、「万葉集巻第二」の115の歌の詞書に、穂積皇子が勅命により、近江の志賀の山寺に遣わされた時の歌とあるので、やはり、二人の恋は露見したため、持統天皇の命令により、こうした形で穂積皇子が自重を促す処分が下されたと思われます。
ちなみにこの山寺は持統天皇の父である天智天皇がその即位の年である天智天皇七年(688年)に建立した崇福寺のことだろうと考えられています。
そして十二月三日は天智天皇の忌日であるため、そのような法会の用意などを口実に
、一時的に穂積皇子を都から遠ざけたものだと考えられます。
やがてその内に、但馬皇女の夫高市皇子が死去します。
そして、その後、但馬皇女も和銅元年の六月に、おそらく、比較的若くして亡くなったと推定されます。穂積皇子は但馬皇女の死を悼み、彼女の亡くなった年と思われるある雪の降る日、遠くから彼女の葬られた墓のある吉隠の猪養の岡を眺望して、涙を流しながら次の挽歌を詠んでいます。
「万葉集」巻第二 二〇三
「降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに」

意味 降る雪よ、あまりたくさん降ってくれるな、吉隠の猪養の岡に眠るあの人が寒いだろうに。しかし、これは但馬皇女の墓のある猪飼岡へと通じる道との間が雪で塞がれてしまい、自分がそこに行く事ができなくなってしまうからという意味であるという解釈も、あるようです。
いずれにしても、穂積皇子の、但馬皇女への愛と深い悲しみが伝わってくる歌だと思います。おそらく、二人は、心から愛し合っていたのではないでしょうか。
ちなみに伊藤博氏は、こうして穂積皇子が但馬皇女の死の際に詠んでいる挽歌は高市皇子の死後に晴れて但馬皇女を妻とした睦まじさを踏まえてのものか、それとも、彼らの密通が露見してしまったがために、ずっと離れ離れになっていたことへの愛着のゆえかとしていますが。
また伊藤氏は「万葉集」巻第八 秋雑歌に収録されている穂積皇子の「一五一三 今朝の朝明 雁が音聞きつ 春日山 もみちにけらし 我が心 痛し」の歌は表面上は春日山の紅葉を見たくて心が痛む意味の歌でありながら、和銅元年六月に死んだ妻
但馬皇女に対する痛みをも込めているのだろうとしていますが。
また、もう一首の「一五一四 秋萩は 咲くべくあらし 我がやどの 浅茅が花の 散りゆくを見れば」についても、これも表面上は季節の風物を歌ったように見せておいて、実は但馬皇女とのことを詠んだものだと見る向きがあるようですが。
二首の意味。
「一五一三 今朝の明け方、雁の声を聞いた。この分では春日山はもみじしてきたに違いない。つけても私の心は痛む。」
一五一四 萩の花は今にも咲きそうになっているに違いない。我が家の庭の浅茅の花が散ってゆくのを見ると。」
それから私はどうもこの二首、穂積皇子が但馬皇女とのことを詠んだ歌には感じられないのですが。
本当に文字通り、秋をテーマに詠んだ雜歌にしか感じられないのですが。
これらの二首も穂積皇子が但馬皇女とのことを詠んだ歌だとするのは、私は想像を膨らませ過ぎ、何とか穂積皇子との歌と関連付けようとし過ぎのようにも思われますし。
しかし、こうして「万葉集」巻第八の中で、その二首のすぐ後には但馬皇女のこれも雁を詠んだ以下の歌が掲載されているということは、編纂者は意図的に彼らの歌に関連性を持たせたいのかなとは感じますが。
一五一五「言繁き 里に住まずは 今朝鳴きし 雁にたぐひて 行かましものを」
人の口のうるさいこんな里なんかに住んでいないで、いっそのこと、今朝鳴いた雁と連れ立ってどこかへ行ってしまえばよかったのに。国なんかにいないで。
そして秋の雑詠に分類されてはいるものの、この「言繁きは」は通常は恋の噂を指すものたであるということもあり。
しかし、こうした場合でも私は本当に彼らの歌に関連性があったからというよりも、編纂者の意図に拠る所の方が大きいように思えますが。
それからやはり、私は但馬皇女の夫の高市皇子が死去したからといって、穂積皇子との恋が宮廷中の大騒動になっていたこと、そして持統天皇が乗り出して、一時期、穂積皇子を近江の志賀寺にまで派遣していること。
穂積皇子と但馬皇女の恋はこれだけの大騒動を引き起こしてしまうこととなり、結局彼らは別れざるをえなくなったと考えられます。
但馬皇女の夫である高市皇子が死去したからといって、彼らの関係が復活したかどうか。
そして既に私も但馬皇女の記事でも書いているように。
この穂積皇子の挽歌については、その表現や内容、また、公的な印象の皇族達関連の挽歌が前後に並ぶ中、その間でこの穂積皇子の挽歌だけがそのいかにも悲恋物語的なドラマチックな印象を与える題詞とも相俟って、明らかに前後の挽歌とは異質なものをどこかに感じてしまうというか。
なぜこのようにこの穂積皇子の挽歌だけが但馬皇女の死去した年の冬、穂積皇子が埋葬地の猪養の岡を眺めながら涙を流して挽歌を詠んだなどという、極めて個人的かつ彼自身の情感溢れる故人への思いを歌った内容になっているのか?
これらの点から、私はこの穂積皇子の挽歌については、後世の人の仮託の可能性も感じないでもなく。
そして前述の穂積皇子の秋の雑歌として収録されている歌まで、但馬皇女に関連した歌だとしたり、また彼らの婚姻関係を見ようとするなどこの伊藤博氏の見解も、高市皇子と十市皇女の場合もそうなのですが、何でも通常の亡妻挽歌のパターンに当てはめて、理解しようとし過ぎている傾向が私としては気になる所があります。
穂積皇子が但馬皇女の挽歌を詠んでいることから、これも通常の夫が妻の死を悼んで詠む亡妻挽歌のパターンだと捉えて、そこからおそらく、穂積皇子と但馬皇女も結婚していたと考えているのでしょうが。
しかし、この但馬皇女の死去時には、正式に認められた婚姻関係にあった夫の高市皇子は既に死去していること。
そして高市皇子の死去後に確実に穂積皇子と但馬皇女が結婚した証拠もない点について、もっと注目するべきでないかと思うのですが。
そして穂積皇子の但馬皇女への挽歌については仮託の可能性も考えられるとはいえ、私も実際に彼らの間に恋が存在した可能性までは否定するつもりはないのですが。
それに確かに夫の高市皇子の死去後、おそらく再婚もしないまま死去したと思われる但馬皇女の挽歌を詠むのに最も相応しい人物と言えば、但馬皇女と恋仲でこの穂積皇子であるように感じられるのも事実ですし。
穂積皇子の場合、実際に彼が但馬皇女と結婚して、その夫として但馬皇女の挽歌を詠んだというよりも、穂積皇子は但馬皇女の夫であった高市皇子に準じる立場として、夫の高市皇子に代わって但馬皇女の挽歌を詠んだ可能性も考えられなくもないですが。
まあ、いかにもこの穂積皇子こそ但馬皇女の挽歌を詠むのに相応しい相手だと人々にら思われたからこそ、仮託がされたとも考えられますが。
おそらく、但馬皇女は高市皇子との死別後は誰とも再婚もしないまま、そのままひっそりと暮らしていたのではないのでしょうか。
また実際にも但馬皇女が再婚しないままでも、経済的には何も問題もなく、暮らせたと思うので。
当時の皇族女性は経済的に独立しており、夫とは個別に財産も所有していたようなので。
また、藤原宮跡から出土した木簡の「多治麻内親王宮」という記述からもわかるように但馬皇女は独立した宮を持っていたことがわかっており。
そして黒沢幸三氏はこのことから高市皇子との間に子供のいなかった但馬皇女が新たに内親王の宮を設営して未亡人として生活していたことがわかる。
穂積皇子と但馬皇女の結婚説は訂正される必要があると指摘しています。
それから穂積皇子と但馬皇女は結婚するのには、いろいろと難しい所があったのではないかとも想像されますし。
高市皇子が死去してから但馬皇女が死去するまでの十数年間の間、穂積皇子が正妻を娶っていなかったとは考えずらいですし。
しかし、そこに新たに但馬皇女を妻にするとなれば、彼女のその皇女という身分の高さから但馬皇女が正妻ということになってしまうでしょうし。
当然、いろいろな問題が発生することも考えられますし。
それに穂積皇子には数人の子供がいたことが確認されますが。
しかし、その子供達の母は但馬皇女であったという正史の記述もありませんし。
やはり、高市皇子の死去後に確実に穂積皇子と但馬皇女が結婚した証拠となるものは見られません。
それに夫が妻の死を悼んだいわゆる「亡妻挽歌」とされるものは、十市皇女(「万葉集」巻第二 一五六・一五七・一五八)、明日香皇女(「万葉集」巻第二 一九六・一九七・一九八)、但馬皇女(「万葉集」巻第二 二〇三)、柿本人麻呂の妻(万葉集」巻第二 二〇七~二〇九)、大伴旅人の妻の大伴郎女(「万葉集」巻第三 四三八~四四〇、四四六〜四五〇、四五一~四五三、)、大伴家持の亡妾(「万葉集」巻第三 四六〇~一、四六二~四、四六五~九、四七〇~四)、高橋朝臣の妻(「万葉集」巻第三四八一~三)。
これらの女性達への挽歌などがあります。
そしてそれらの内容は、十市皇女と但馬皇女への挽歌以外は、妻の死を悼むと共に妻が生きていた頃の、その夫婦として過ごした日々の思い出について歌う内容ばかりです。
しかし、この穂積皇子の挽歌も目の前の但馬皇女の死の悲しみ自体について歌う内容であり、但馬皇女と夫婦として共に生活していた時の思い出や日々について、触れている内容ではありません。
この穂積皇子の但馬皇女への挽歌からも、高市皇子の十市皇女への挽歌同様、歌の内容からは二人が夫婦として生活していたらしい気配が感じ取れません。
こうした特徴からも、この穂積皇子の但馬皇女への挽歌も、通常の夫が妻の死を悼んで詠んだ「亡妻挽歌」として捉えてもいいのか?という私の中での疑問が湧いてきますし。
また、「万葉集」の中でも、穂積皇子と但馬皇女の恋については、天皇の介入や世間の噂などにより、ついに結ばれることのなかった彼らの悲恋物語として、伝えられている印象が強く感じられますし。
また、「万葉集」の中で冬の雪の日に泣きながら但馬皇女の挽歌を詠んでいる穂積皇子という展開からは、とても穂積皇子と但馬皇女がついに晴れて結婚したという、幸福な結末は感じ取ることができませんし。
それにこうした世間の様々な障害に突き当たり、彼らの関係が途絶えたまま、高市皇子の死後も、もう二度と彼らの関係は復活せず、離れ離れのまま、ついに死別したと想像する方がこの穂積皇子の挽歌の内容なども含め、私にはより哀切に感じられていいなと感じるのですが。
それに許されない彼らの恋については、ついには持統天皇の介入までがあり、彼らが気持ちの中ではこうした世間という障害に負けたくない、二人の気持ちを貫きたいという思いだけは強かったにしても。
それにしても、彼らがこれらの現実に抗うのはなかなか困難であったのではないかとも思われます。
ましてや、皇族であり、男性である穂積皇子にとっては、その社会的地位や役職も十分に大切なものであり、ひたすら恋の情熱だけに突き進むことは、なおさら難しいことであったと想像されます。また、何かと自分に目をかけてくれていたと思われる、持統天皇からのこうしたその自重を促す処分を下されてまで、果たして彼が但馬皇女との恋を貫くことができたのかどうか。
ただ、この天皇の勅命によるという、穂積皇子の近江の崇福寺派遣については、実際は但馬皇女との密通による謹慎命令などではなく、公務だったとする見方が多いようです。
とはいえ、私が但馬皇女の記事の中でも書いているようにこの崇福寺派遣自体は但馬皇女とのこととは、直接的な関係はなかったにしても。
しかし、「万葉集」の中では、あたかも但馬皇女との密通を起こしたことによる天皇からの謹慎命令であるかのように書かれている、この穂積皇子の崇福寺派遣から見える、こうした形での天皇の介入と類似したことは、この穂積皇子の崇福寺派遣という出来事とは別に存在していたことも私は考えられように思います。
穂積皇子と但馬皇女との関係に対しての、持統天皇からの穂積皇子への内々の訓戒のようなもの自体は存在し、それが穂積皇子の崇福寺派遣と結び付けられて、こうして「万葉集」の中で更に重大化されて表現された可能性もあり得るのではないのでしょうか。
そしてこうした世間の噂や天皇からの注意という、諸々の障害の前に、穂積皇子と但馬皇女は離れ離れにならざるを得なかったのではないでしょうか?
それから私の中での穂積皇子は情熱的なロマンチストでナイーブな人物なので。
(それにこうして見るといかにも穂積皇子は女性から好かれそうな性格ですよね。)
だから専ら穂積皇子からの但馬皇女への返歌が見られないことを理由に、但馬皇女との恋においては但馬皇女の方が積極的で、どちらかというと穂積皇子の方は消極的であったかのように捉える見方に私は違和感があり。
そしてこれと似たような捉え方をされがちなケースとしては、家持と笠女郎のケースもありますしね。
しかし、「万葉集」で見られる家持からの笠女郎への返歌は二首だけであるとはいえ、実際には家持はもっと多くの歌を笠女郎に贈っていたはずだという万葉学者の指摘も存在していますし。
だから穂積皇子と但馬皇女の場合も、穂積皇子からの返歌が「万葉集」には見られないからとはいえ、穂積皇子の方は但馬皇女との恋に消極的であったとする見方には、私は疑問を覚えます。
家持と笠女郎の場合同様、実際には存在していたことが考えられる穂積皇子の但馬皇女への歌も後にまで残らなかった理由があるのではないのか?と私には思えるのですが。
それに人目を忍ばなければならない彼らの恋の性質から考えても、その確実な証拠ともなってしまう但馬皇女への自分の恋歌は、残しておくことが難しかったことも考えられるのではないのでしょうか。また、但馬皇女から贈られた歌の方も。
しかし、そのように具体的な数々の双方の歌という形では残らなくても、穂積皇子の但馬皇女への恋心は、これらのことからも十分に読み取ることができると私には思われますし。
「万葉集」に残されることになったこのような彼と但馬皇女との悲恋の歌物語。
他にも穂積皇子自身の作ではない、仮託だと考えられるとはいえ、但馬皇女が死去した時の穂積皇子の気持ちを代弁していると思われる、あの何とも悲痛な印象を与える挽歌。
但馬皇女と別れてから既に十数年が経過していたと思われるこの時、それでもなお穂積皇子の心にはこの挽歌から想像されるような強い但馬皇女への思いがいまだに消えずに残っていたということでしょうから。
また、穂積皇子と但馬皇女の許されない恋は現実の出来事としてのそのままの形としてではなく、こうして物語化することによってこそ、「万葉集」に載せることが可能となったのでしょうし。
既に私が但馬皇女の記事でも指摘しているように、現実の彼らの恋を取り巻いていたと思われる、いろいろなシビアな政治的事情及びそれを象徴するような人物の存在は巧みに排除されて、彼らの悲恋そのものを強調する形にされている形跡からも、それは明らかですし。
それにこの穂積皇子と但馬皇女の歌物語も例によって、彼らの恋に関連する、その具体的な年月は記されてはいません。
そしてこれも昔の話だからというよりも、あえて編纂者の家持により、いつともわからない時の一体何年の間、続いたかもわからない恋の物語として曖昧な形にした、歌物語に仕立てているのでしょうし。
昔のこととはいえ、穂積皇子と但馬皇女の恋に関連する具体的な年月についても、穂積皇子自身から坂上郎女が確認することができていたはずだと思いますし。
そしておそらく、穂積皇子と但馬皇女との恋も、初めは穂積皇子の無聊をかこつ彼女の話し相手にでもなれたらと思う気持ちから始まった、内親王宮でのその彼と但馬皇女との交流がいつしか恋に発展していったというようなことだったのではないのでしょうか。
夫である高市皇子の訪れも極めて稀であり、また彼との間に子供もいない、そんな境遇の但馬皇女に対する同情が自然と繊細な穂積皇子の心に芽生えてきたとしても、不思議ではないでしょうし。
もちろん、他にも穂積皇子の但馬皇女を女性として好ましく思う気持ちも、大きく存在していたのでしょうが。
それから過去の但馬皇女との情熱的な悲恋の経験は、おそらく、穂積皇子の男性としての魅力にもなったことだと思われます。
それから但馬皇女の死後、数十年も経ち、若い頃の苦しい恋を経て、酸いも甘いも噛み分けた中年の男性になっていたと思われる穂積皇子は、当時の彼よりかなりの年齢差があったと思われる、当時の大伴坂上郎女と再び情熱的な恋に落ちたと思われます。「万葉集」には「郎女は佐保大納言卿の女なり。はじめ一品穂積皇子に嫁ぎ、寵愛を受けること類なし」とまで記されていますし。
おそらく、当時の大伴坂上郎女はまだ十五歳くらいの年齢ではなかったと思われるとはいえ、穂積皇子が晩年に出会った彼女は当時から打てば響くような才気のある魅力的な女性だったのでしょう。
そしてこの穂積皇子から、但馬皇女は男女の恋について、そして歌について多くを吸収していったのでしょう。実際にも、大伴坂上郎女は穂積皇子との死別後も藤原家の貴公子であった藤原麻呂、大伴宿奈麻呂などとの恋を経験し、彼らと巧みな歌のやり取りもしています。
それからおそらく、これは穂積皇子が晩年になってからの歌だと思われますが。
彼には自邸の宴の席で酔うと必ず口ずさむ、一首の歌がありました。
「万葉集」巻十六 三六一八 家にある櫃に鍵刺し蔵めてし恋の奴がつかみかかりて
意味 家にある櫃の中に鍵をかけて閉じ込めておいた、恋の奴めがまたつかみかかってきた。
若き日の但馬皇女との恋など、これまでさんざん、恋に悩み苦しみながらも、また恋に囚われてしまったという、穂積皇子の自嘲が感じられる歌です。
甘美でありながらも、厄介で狂おしいもの、それは恋という感じでしょうか。
穂積皇子がこのような歌を詠んでいることや少女の頃に穂積皇子に嫁いでいる大伴坂上女郎がこの穂積皇子からの影響もあり、恋多き女性歌人になっていったのではと考えられることから想像してみても。
それにおそらく、その女性達との相聞の歌までは残っていなくとも、穂積皇子は但馬皇女との恋の後にも、新たに他の女性達とも数多くの恋をしたのではないかと思われます。もちろん、それでも穂積皇子にとっては、若き日の情熱的な但馬皇女との恋は、特別で忘れがたい恋であったのでしょう。
大伴坂上郎女との結婚生活は、何年続いたのかは不明ですが、穂積皇子は最終的に知太政官事という、高位に昇りました。
穂積皇子の全体的な官職については以下の通りです
大宝二年(702)十二月二十二日、持統上皇が崩じた時、作殯宮司。
翌年の大宝三年十二月十七日、太上天皇を飛鳥の岡に火葬する際、御装長官。
大宝四(704)年一月十一日、増封200戸。慶雲二年(705)年五月、兄である忍壁親王が薨じ、同年九月、知太政官事に就任。翌年、右大臣に准じて季禄を賜る。
しかし、高位とはいえ、これは名誉職のようなもので、実権はない役職だったようです。
恋多き、多情多感な風流人であったらしい穂積皇子ですが。
しかし、彼は出世にはあまり関心がなかった印象です。
少なくとも、舎人皇子や新田部皇子のように政界の中心でバリバリ活躍しているというような印像はないですね。
特別に仕事に励むというよりも、無難に仕事をこなしていたら最終的に知大政官事にまで昇進していたみたいな。
生存している天武天皇の皇子達の中では、最年長の皇子に与えられる官位でもあったようですし。
ただ、この知太政官事の実態については議論もあるようですが。
穂積皇子と但馬皇女の恋が果たして何年間続いたのかは不明ですが。
さすがに持統上皇が崩御した時の作殯宮司という役職に穂積皇子が任命される数年前には、彼は既に但馬皇女とは別れていたものと考えられます。
それにおそらく、この作殯宮司という役職もかなり重要な役職なんでしょうし。
それから持統十年(696)の七月には高市皇子が死去しているので、それ以前には穂積皇子と但馬皇女は別れていた可能性が高いかと思われますし。
そしてこうして考えると想像される、穂積皇子と但馬皇女が恋愛中であった時期とし手は、穂積皇子が二十歳くらいから二十四歳くらいまでの、この間の期間ということになりますかね。また、二十代前半くらいから二十代半ばくらいまでって、何となく、私の中の恋愛中の穂積皇子と但馬皇女の年齢のイメージにも合う印像なのですが。
以下の賀古明氏の指摘。
持統四年(690年)に高市皇子が大政大臣に任命された時から、高市皇子薨去の持統十年(696年)までの間に、「日本書紀」に記録の出てくる皇子は、草壁・高市・河嶋以外には、舎人・長・穂積・弓削の四皇子で、この内「浄広弐位」の冠位を最も早く授けられているのは穂積皇子である所から、高市皇子が太政大臣在任中、穂積皇子は最重要視され、高市皇子と穂積皇子の親交の仲で、高市皇子宮にいた但馬皇女は訪れ来る穂積皇子に慕情を抱くようになった。
そして私はこの持統五年が穂積皇子の初叙位であったと考えて、この賀古氏の指摘するようにこの前年には穂積皇子の異母兄で但馬皇女の夫の高市皇子が太政大臣になっていることもあり、この持統五年から仕事の関係を通じて高市皇子との本格的な親交が始まり、その関係で但馬皇女とも親しくなっていったのではないのか?と想像するのですが。但馬皇女との関係が深まっていくのも、この穂積皇子の官職の経歴スタートの頃からのような気がするというか。
もちろん、それ以前に何かの機会で、とりあえず、既に彼らが顔を合わせてはいたのかもしれませんが。