最近、木本好信氏の「藤原四子 ミネルヴァ書房」を読みました。
藤原不比等の四人の息子達はそれぞれ違う得意分野を持ち、役割分担をしながら藤原氏政権の確立に努めていたようです。
そして清廉潔白な政治家ながらも藤原氏に陥れられた悲劇の人物という見方をされる長屋王ですが。
しかし、この木本氏の書籍の中で、長屋王失脚の原因の一つとなったものと思われる理由については。
やはり、長屋王のその極端な儒教主義に基づいた理想政治と藤原氏との政治路線を巡っての権力闘争が存在していたと思われること。
それに詳しく、その長屋王の政策を検討した結果、見えてきたものとしては。
その官人達への綱紀粛清内容も例えばその「養老田令」位田条などの支給の例を見ても、長屋王の自分には厚くて、他には薄いという処遇の現実が注目されること。
また、このように律令官人社会の秩序確立を主眼とする長屋王の試作は、その人間性を原因とする多くの矛盾と独断を内包していた様子が見て取れること。
そしてこうした部分が長屋王が官人社会から遊離して、官人達の離反をも招く要因が見られ、更にこれが藤原氏の主導する官人社会成立への趨勢の一因ともなったもの考えられる。
基本的に自身の才覚と努力により、持統天皇の大きな信頼をも得て、太政大臣にまで昇った現実感覚にも富んだ父親の高市皇子と比べると生まれながらの貴公子で苦労知らずであまりにも順調に昇進し続けてきた弱点を内包していた人物だったのかもしれません。
それから木本氏によると長屋王の変においては確かにその首謀者は武智麻呂であったと思われるが。
だがその彼の意図を受けて、最も尽力したのはこの宇合であったのではないかということです。
それから特に宇合と言えば遣唐使副使にも選ばれていることが注目されます。
そしてこの木本氏の本や遣唐使の阿部仲麻呂に関する指摘でも共通のことですが。
この遣唐使というのは容姿に優れ、挙措も優雅であり、文才に優れた人物達が選ばれています。言わば当時の選び抜かれたエリートにして、イケメンが遣唐使だったのです。
そして事実、宇合も「万葉集」や「懐風藻」にはそれぞれ六首ずつ収録され、優れた歌や漢詩がいくつか見られます。
そのような人物であったことが証明されています。
それにしても、いずれも優秀な四人の息子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂と更にこれも優秀な一人の娘である安宿媛に恵まれて、こうした点を見ると不比等は幸運な人物だったのだなとも感じずにはいられません。
文武天皇の難波行幸の時にそこでの宴会で忍坂部乙麻呂の読んだ歌に続いて、宇合が詠んだ歌。
七二 玉藻刈る 沖辺は漕がじ 敷栲の 枕のあたり 念ひかねつも
海女達が玉藻を刈る沖辺なんか漕ぐまいぞ。ゆうべの宿の枕辺にいた人、その人達への
思いに耐えかねていることだから。
まず、最初に乙麻呂が旅先の鶴の鳴き声を苦痛だとして、家郷の妻に思いをそそげば、それに続いて宇合が旅先の一夜妻への執心から陸地近くへ漕ごうと述べている。
三一二 昔こそ 難波田舎と 言はれけめ 今は都引き 都びにけり
昔は、難波都と軽んじられもしたろう、が、今は都を引き移してすっかり都らしくなった。
それから余談ですが。
遣唐使として最も有名なのは何と言っても、唐の玄宗皇帝に仕えた阿部仲麻呂でしょうが。
実は帰国も叶わないまま、ついに唐で生涯を終えた彼は独身とされることもありましたが。しかし、どうも唐人女性と結婚して子供までもうけていた形跡があるようです。
「続日本紀」によると阿部仲麻呂の家族が貧しくて葬儀が行なえないために日本から麻が届けられたという記述があるそうです。
つまり、この家族というのは阿部仲麻呂が結婚して、新たに唐で作った家族ということでしょうし。
それに阿部仲麻呂と親しかった詩人の一人の王維の漢詩にも、仲麻呂の唐人女性の結婚を思わせる内容のものがあるようです。
私もあれだけ有能な人物で家柄も良く、しかも美男で立ち居振る舞いも優れていたと思われる阿部仲麻呂なら当然、唐の女性達にモテただろうし。
また、周囲も放っておくはずもなく、自然に縁談の話などももたらされそうだしとも以前から想像していました。
それに他の遣唐使の藤原清河や羽栗吉麻呂も唐人女性と結婚し、子供ももうけているのてで阿部仲麻呂にも妻がいても不思議でもないとも考えていましたし。
それにしても阿部仲麻呂と言えば玄宗皇帝にも重用され、秘書官にまでなった人物だというのにその死後にその家族が葬儀も行えない程に困窮していたのは謎のようです。
藤原不比等の四人の息子達はそれぞれ違う得意分野を持ち、役割分担をしながら藤原氏政権の確立に努めていたようです。
そして清廉潔白な政治家ながらも藤原氏に陥れられた悲劇の人物という見方をされる長屋王ですが。
しかし、この木本氏の書籍の中で、長屋王失脚の原因の一つとなったものと思われる理由については。
やはり、長屋王のその極端な儒教主義に基づいた理想政治と藤原氏との政治路線を巡っての権力闘争が存在していたと思われること。
それに詳しく、その長屋王の政策を検討した結果、見えてきたものとしては。
その官人達への綱紀粛清内容も例えばその「養老田令」位田条などの支給の例を見ても、長屋王の自分には厚くて、他には薄いという処遇の現実が注目されること。
また、このように律令官人社会の秩序確立を主眼とする長屋王の試作は、その人間性を原因とする多くの矛盾と独断を内包していた様子が見て取れること。
そしてこうした部分が長屋王が官人社会から遊離して、官人達の離反をも招く要因が見られ、更にこれが藤原氏の主導する官人社会成立への趨勢の一因ともなったもの考えられる。
基本的に自身の才覚と努力により、持統天皇の大きな信頼をも得て、太政大臣にまで昇った現実感覚にも富んだ父親の高市皇子と比べると生まれながらの貴公子で苦労知らずであまりにも順調に昇進し続けてきた弱点を内包していた人物だったのかもしれません。
それから木本氏によると長屋王の変においては確かにその首謀者は武智麻呂であったと思われるが。
だがその彼の意図を受けて、最も尽力したのはこの宇合であったのではないかということです。
それから特に宇合と言えば遣唐使副使にも選ばれていることが注目されます。
そしてこの木本氏の本や遣唐使の阿部仲麻呂に関する指摘でも共通のことですが。
この遣唐使というのは容姿に優れ、挙措も優雅であり、文才に優れた人物達が選ばれています。言わば当時の選び抜かれたエリートにして、イケメンが遣唐使だったのです。
そして事実、宇合も「万葉集」や「懐風藻」にはそれぞれ六首ずつ収録され、優れた歌や漢詩がいくつか見られます。
そのような人物であったことが証明されています。
それにしても、いずれも優秀な四人の息子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂と更にこれも優秀な一人の娘である安宿媛に恵まれて、こうした点を見ると不比等は幸運な人物だったのだなとも感じずにはいられません。
文武天皇の難波行幸の時にそこでの宴会で忍坂部乙麻呂の読んだ歌に続いて、宇合が詠んだ歌。
七二 玉藻刈る 沖辺は漕がじ 敷栲の 枕のあたり 念ひかねつも
海女達が玉藻を刈る沖辺なんか漕ぐまいぞ。ゆうべの宿の枕辺にいた人、その人達への
思いに耐えかねていることだから。
まず、最初に乙麻呂が旅先の鶴の鳴き声を苦痛だとして、家郷の妻に思いをそそげば、それに続いて宇合が旅先の一夜妻への執心から陸地近くへ漕ごうと述べている。
三一二 昔こそ 難波田舎と 言はれけめ 今は都引き 都びにけり
昔は、難波都と軽んじられもしたろう、が、今は都を引き移してすっかり都らしくなった。
それから余談ですが。
遣唐使として最も有名なのは何と言っても、唐の玄宗皇帝に仕えた阿部仲麻呂でしょうが。
実は帰国も叶わないまま、ついに唐で生涯を終えた彼は独身とされることもありましたが。しかし、どうも唐人女性と結婚して子供までもうけていた形跡があるようです。
「続日本紀」によると阿部仲麻呂の家族が貧しくて葬儀が行なえないために日本から麻が届けられたという記述があるそうです。
つまり、この家族というのは阿部仲麻呂が結婚して、新たに唐で作った家族ということでしょうし。
それに阿部仲麻呂と親しかった詩人の一人の王維の漢詩にも、仲麻呂の唐人女性の結婚を思わせる内容のものがあるようです。
私もあれだけ有能な人物で家柄も良く、しかも美男で立ち居振る舞いも優れていたと思われる阿部仲麻呂なら当然、唐の女性達にモテただろうし。
また、周囲も放っておくはずもなく、自然に縁談の話などももたらされそうだしとも以前から想像していました。
それに他の遣唐使の藤原清河や羽栗吉麻呂も唐人女性と結婚し、子供ももうけているのてで阿部仲麻呂にも妻がいても不思議でもないとも考えていましたし。
それにしても阿部仲麻呂と言えば玄宗皇帝にも重用され、秘書官にまでなった人物だというのにその死後にその家族が葬儀も行えない程に困窮していたのは謎のようです。