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万葉集恋歌

「万葉集」の中の恋の歌に特化して紹介。大友皇子や高市皇子、十市皇女。「万葉集」の歌人大伴家持や笠女郎などの考察も。

鏡王女は優れた万葉の女流歌人で天智天皇の信頼も厚い有能な女官

2020-02-12 19:04:29 | 「万葉集」の人々
これまで姉妹とされることもあった、額田王と比べると歌や存在も地味な印象がある、この鏡王女ですが。
なまじ長い間、額田王と姉妹とされてきためにどこか鏡王女が損をしていた所もあるような。
いかにも華やかなイメージが強い額田王の陰にその存在が埋没しがちのような感じで。
歴史小説などでも額田王と比べて、鏡王女は地味な女性に描かれやすいですし。
しかし、いろいろと考えてみるとなかなかこの女性も興味深い存在ではないのかというか。
それに私が以前の鏡王女の記事の「鏡王女の出自についての謎、やはり舒明天皇の血縁者か?」でも書いたように。
舒明天皇の墓の領域内に鏡王女も埋葬されていることから彼女は舒明天皇の皇孫であり、天智天皇の信頼も厚い姪であった可能性が高いようであるとか。更に「万葉の歌人とその作品 第一巻 初期万葉の歌人たち 和泉書院」の「鏡王女に関わる歌」の中で小川靖彦氏の以下の指摘。



養老令によると皇族の結婚については次のように規定している。
凡そ王、親王を娉き、臣、五世の王を娉くことを聴せ。唯し五世の王は、親王を娉くこと得じ。(継嗣令王娶親王条)
臣下は五世王以下を娶ることができる。
 逆に言えば、臣下が一世から四世の皇族と結婚することは論外だった。
このように臣下である鎌足が皇孫の可能性の高い鏡王女を「娉る」ことは極めて異例なことだった。そしてこうした結婚が個人的になされたとは考えにくい。


おそらく、鎌足と鏡女王の前後に例を見ない結婚には、藤原氏との血族的な繋がりによって自己の皇統の権力基盤を強固なものとすることを目指した天智天皇の強い意向が働いていたと見ざるを得ない。
だが「万葉集」では鏡王女と鎌足の贈答歌の直前に、天智天皇と鏡王女の贈答歌が配されていることもあって、天智天皇が自分の妻かまたは恋人であった鏡王女を鎌足に譲渡したと読む向きがあるが、鏡王女と鎌足の結婚の特異さやその背後に必ず存在したであろう天智天皇の政治的意図を考慮するならば、むしろ鏡王女は天智天皇にとっては最も心の置けない、かつ政治的使命の担い手として信頼するに足る極めて近しい
親族の一人であったと考えるべき。



このように天武天皇の信頼が極めて厚い廷臣である藤原鎌足と自分の血族である鏡王女を特別に重要な政治的意図から結婚させていることから考え、確かにここからは天智天皇の鏡王女への親愛の感情と共にその厚い信頼をも窺うことができます。
そしてこのように重要な廷臣である藤原鎌足に鏡王女を嫁がせていることから考えて、鏡王女自身もかなり有能な女官であったとしてもいいのではないのでしょうか。
また実際にも他にも鏡王女についてそう思わせる理由としては、以下のような点が挙げられます。
「日本書紀」の鏡王女の死亡記事には「天武十二年(683)七月五日、薨ず」とされており、このようにその死については「薨」の字が使われており、皇族か位階が三位(正三位・従三位)以上の人間が亡くなった時にはこの字が使われます。
このことから鏡王女が三位以上の高位にあった女官であったことがわかります。


また、鏡王女のその死の前日にはわざわざ、天武天皇が見舞っているのも、やはり、これは彼女との血縁関係の他にも壬申の乱の際には鎌足の妻として、中立的立場を保ったためではないのかとも小川靖彦氏から指摘されていますし。
このように藤原氏にとって、壬申の乱の時の微妙で難しい時期も中立の立場を保ち、更にその壬申の乱後にも藤原鎌足の正妻として、藤原氏を支えた聡明な女性という印象です。
それから藤原鎌足・鏡王女夫婦のように有能な廷臣と有能な女官の夫婦と言えば藤原不比等と橘三千代夫婦の姿と重なる所もありますね。

神祇を祭ることに力を入れた天武天皇の皇女の大伯皇女・十市皇女・多紀皇女・田形皇女らの四人もが祭祀に関連

2020-02-09 19:30:26 | 「万葉集」の人々
かつて天武天皇は壬申の乱では吉野脱出の途上、朝明川のほとりで大海人皇子が天照大神を遥拝している。
そして壬申の乱に勝利した天武天皇は天照大神によりこの勝利がもたらされたとして、
天照大神を皇祖神として定め、そしてまずは自身の皇女である大伯皇女を初代斎王として、正式に未婚の皇女達を斎王とする伊勢斎宮制度を定めました。



確かに天武天皇の皇女達からは大伯皇女・十市皇女・多紀皇女・田形皇女の四人もが伊勢斎王などの、何らかの形で祭祀に関わっています。
そしてこれは以前の多紀皇女や田形皇女の記事でも、私も指摘したように。
朱鳥元年四月に石川夫人・多紀皇女・山背姫王が伊勢神宮に派遣されている時には既にこの多紀皇女、そして石川夫人の娘である田形皇女が斎王になる予定の皇女として選ばれていたのでしょう。
明らかにこの朱鳥元年四月の石川夫人の伊勢神宮派遣と後にその娘の田形皇女が伊勢斎王に選ばれたのは強い関連性があると思われますし。
それにこの三人の女性達が伊勢神宮に派遣されたのは天武天皇の病気平癒の祈願のためだったらしく。
だからこの伊勢神宮派遣が既にこの多紀皇女の斎王としての予行練習と言えないこともない部分もあるような。
このように珍しく、正式に斎王になる前にこの多紀皇女がこうして伊勢神宮に派遣されているということは、彼女は将来の斎王としてはかなり有望であると判断されていたということなのかもしれません。
それにこの多紀皇女は斎宮退下後に志貴皇子と結婚した後も慶雲三(七〇六)年十二月にも伊勢神宮へと赴いていますし。



それからこの多紀皇女や田形皇女達がいずれも二十代後半くらいでの結婚となっているのも、やはり、以前から斎王になる予定の皇女として彼女達が独身を義務付けられており、またこちらもかなり以前からそれぞれ志貴皇子や六人部王との結婚が決められていたからでしょう。
皇族ともなれば自然とその結婚相手候補者も限られてくるでしょうし。



ちなみに伊勢斎王であった他三人の皇女達と比べて、この十市皇女に関してはそうした具体的な歴史研究上での指摘や関連した文献などもないものの。
けれども、これまでも私が高市皇子の挽歌についての考察や実際の高市皇子と十市皇女との関係の考察関連記事の中でも指摘してきた通り。
この十市皇女に関連した吹芡刀自や高市皇子の歌や日本書紀の関連記述などから総合的に判断して、この十市皇女も伊勢斎王になった他の天武天皇皇女達に準じる立場や役割を担っていた皇女であったと思われます。
一説には天武七年の四月の倉梯川の斎宮で潔斎を終えた後にこの十市皇女も伊勢斎王として伊勢神宮に赴く予定だったともされていますが。



最初に藤原定家が言い始めたらしい、この説ですが。
しかし、十市皇女が伊勢斎王に選ばれていたという確実な証拠もないですし、これは少し飛躍し過ぎた推測だと思われます。
「日本書紀」の中では天武七年四月に倉梯川に斎宮が設えられ、天神地祇を祭るために天武天皇を乗せた輿が出発した直後に宮中で十市皇女が急死したためについに天神地祇を祭ることはなかったと書かれているだけですし。
一言もこの日に十市皇女が斎宮で潔斎した後に斎王として伊勢神宮に出発する予定であったなどとは「日本書紀」には書かれていません。
それにもし倉梯川の斎宮で潔斎した後に十市皇女が伊勢神宮に赴く予定であったのならば最初から「日本書紀」にもそのようなことが書かれていたはずではないのか?とも思える所もありますし。


それに未婚の処女ではない十市皇女が途中から突然に伊勢斎王に選ばれるのというのは、私は原則的にも不可能だとも思いますし。
また、当時の斎王在任中に続けて新たに二人目の斎王就任などというのも、他に例を見ない話ですし。
万葉学者の塚本澄子氏も既に大伯皇女が斎王に選ばれているため、新たに十市皇女が斎王に選ばれる必要性はないと指摘しており、私も同感です。
とはいえ、十市皇女がおそらく、伊勢の祭祀と関わる十市県主家に養育されていたことや天武天皇が神祇を祭ることに力を入れた天皇であることなども関係し、この十市皇女も塚本澄子氏言う所の巫女的な役割を担うことになったのでしょう。
私の考えでは壬申の乱後の、阿閉皇女や吹芡刀自と共に十市皇女が天武四年二月に伊勢神宮に赴いている時から。



それにこれは最初から処女を守ることが義務付けられている伊勢斎王にまでは十市皇女は選ばれてはいないとはいえ、こちらも神事に従事する皇女として選ばれた以上、十市皇女も今後は男性との恋愛や結婚は禁止ということになったはずですし。
おそらく、壬申の乱で夫の大友皇子を失ない、未亡人になり、また今後の再婚の可能性もないことからこの十市皇女が神事に従事する役割を担う、天武天皇の皇女としては適任だとして判断されたということなのでしょうが。
だから既に少女の頃から斎王になるために未婚が義務付けられていた大伯皇女と一度は普通に結婚もしている十市皇女とはこうした違いは見られるものの。
とはいえ、いずれも男性との恋愛や結婚の可能性がない皇女という部分では共に神事に従事する天武天皇皇女達としてこの大伯皇女と十市皇女には共通する点があったのでしょう。



それにこれも私が以前の記事でも書いているように伊勢神宮に参宮した時に吹芡刀自が主人の十市皇女に対して「永遠の処女、常処女でいてください」と十市皇女について歌っているのもやはり、神事に従事する神聖な存在の女性、そしてそうした女性の永遠性についての象徴的な意味が込められているものと考えられますし。
この歌については十市皇女の永遠の若さを祈ったものとする解釈では、いまひとつ、私は意味が理解できないような印象が強かったのですが。
そうした願いがどうして伊勢神宮やこの十市皇女と結びつくのか、いまひとつ、その具体的な繋がりがよくわからないというか。
実際に万葉学者からもこの歌が十市皇女の伊勢神宮参宮とどういう風に結びつくのか不明という指摘もありますし。



しかし、これは文字通り、本当に十市皇女の永遠の若さを祈ったものとして解釈するよりも、これは巫女のような神事に従事する立場の女性の神聖さを象徴するような表現とする塚本澄子氏の解釈として、この歌を捉えると私としても非常に納得がいく思いでした。
(それにの歌の意味をこのように考えれば。この吹芡刀自の歌や高市皇子の挽歌などの十市皇女に関わる歌が何かと伊勢神宮、三輪の神杉、神前に供える幣帛に用いる麻木綿などの神事に関連した表現ばかりが目立つことにも同様に大変に納得がいくというか。)
確かにそれまでの大友皇子の正妃からこれからはそうした神事に従事する天武天皇皇女としての新たな十市皇女の再生と呼べるとも思いますし。
それにそうした十市皇女の再生の目的も兼ねて、この十市皇女の伊勢神宮への参宮も行なわれたのかもしれませんし。



それから自身が伊勢斎王であった大伯皇女の歌以外では伊勢神宮に関わる歌としては、以下の歌が存在します。


和銅五年の夏の四月に、長田王を伊勢の斎宮に遣はす時に、山辺の御井にして作る歌


八一 山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢娘子ども 相見つるかも

山辺の御井、この御井を見に来て、はからずも、神風吹く伊勢のおとめ達に出会うことができた

この和銅五年に伊勢に遣わされた長田王が、連れ添った一行と山辺の地で旅の宴を行なった時の歌です。


そしてなぜ、突然にこの長田王が伊勢神宮に派遣されたのか?という疑問についてですが。
この点については山中智恵子は「斎宮志 大和書房」の中で、以下のように指摘。
「もし、この詞書の「斎宮」が伊勢神宮そのものを指すとすれば斎王の有無は問題ではなくなるが、もし斎宮寮を指すとすればこの長田王は斎王群行に従ったか、帰京の迎えに参向したと考えられること。
山辺の御井は、一志郡桃園村新家・同郡嬉野町、または鈴鹿市山辺町の説があるが平城京から伊勢への道程を考えると一志郡である。」



確かに突然、男性の長田王が和銅五年に斎宮に派遣されているのはおそらく、長田王は斎王群行に従ったか、斎王の帰京の迎えに参向したのだろうという、この山中氏の見解は大変に説得力を感じさせるものです。
確かにそういう目的でもなければ、なかなか男性が斎宮には来ないと考えられますし。
まだ後に伊勢に斎王を送り届け、帰京の際には迎えに来る「長奉送使」に相当する職務が久勢女王の頃までは明確に職務化されていなかったらしいとはいえ、既にそうした任務を果たす役目の人物がいたとしても不思議でもないでしょうし。
斎宮を退下して伊勢から帰還する皇女を迎えも派遣せずに帰京させるとも、考えにくいですし。

実際には密通の子ではないのになぜ藤原麻呂はそのように「尊卑分脈」で書かれたのか?

2020-02-01 19:37:09 | 「万葉集」の人々
これも木本好信氏の「藤原四子 ミネルヴァ書房」によると藤原不比等の四男藤原麻呂は特に長男の武智麻呂と仲が良かったようで。
特に武智麻呂の家政機関と麻呂の家政機関の間には緊密な関係が見られ、武智麻呂が自分への進上物を麻呂に転送したり、麻呂の家政機関への援助なども行なっていた
形跡が確認されるとか。
それに五百重娘が早くに母娼子を亡くした武智麻呂の面倒を見た可能性も指摘されています。
つまり、武智麻呂と麻呂は共に五百重娘の許で育てられたかもしれないらしく。
確かにこうした環境からも特に兄弟の中でも、彼らの親密な関係が育まれたのかもしれないですし。


それから麻呂と言えば南北朝時代に成立した系図集の「尊卑分脈」によると不比等が異母妹の五百重娘が密通して生まれた子供だとさています。
しかし、これについても木本氏は麻呂が生まれたのは母の五百重娘が天武天皇と死別して九年後のことであり、けして密通ではなく、この記述は事実ではないと指摘しています。
だが「尊卑分脈」のこうした記述からもわかるようになぜか麻呂には密通により生まれた子供という陰湿なイメージが付きまとったらしいことについても指摘。
「万葉集」の天武天皇とやり取りした五百重娘の大原の里の歌から想像するとおそらく、五百重娘は夫人時代も天武天皇と死別後も大原に住んでいたと思われ、父不比等の大原第での異母兄の不比等との同居の中で、やがて五百重娘が彼と関係を持ち、麻呂を生んだことは不思議なことではない。
だが八世紀初頭に大宝律令が施行されるなど中国の儒教思想が急速に広まっていた影響があり、天皇の夫人でありながら異母兄の不比等と夫婦になり、その間に子供をもうけたことが人々からは批判的に見られ、また麻呂自身にも重荷となり、それが権勢欲もなく上昇志向もないどこか自虐的とも思われる性格にさせた所があるのではないのかというようにも指摘。


つまり、儒教が浸透していくに従い、おそらく、天皇の夫人でありながらよりにもよって、同じ大原第の邸に同居していた異母兄の不比等といつしか夫婦となり、更にその間に子供までもうけるなどどこかだらしがないような印象を多くの人々に持たれたというようなことでしょうか。
五百重娘、そして不比等は。
通常は古代での異母兄妹と言うとそれぞれの母方で育てられ、そして成人して後に結婚したりすることもあるものですが。
しかし、不比等と五百重娘の場合は五百重娘が天武天皇の夫人であったことに加えて、共に父不比等の大原第にずっと兄妹として同居していたことが大きく関係し、人々の批判の対象にされてしまったのかもしれませんね。

藤原不比等の三男宇合は選ばれしエリートで美形だった

2020-01-31 19:22:54 | 「万葉集」の人々
最近、木本好信氏の「藤原四子 ミネルヴァ書房」を読みました。
藤原不比等の四人の息子達はそれぞれ違う得意分野を持ち、役割分担をしながら藤原氏政権の確立に努めていたようです。
そして清廉潔白な政治家ながらも藤原氏に陥れられた悲劇の人物という見方をされる長屋王ですが。
しかし、この木本氏の書籍の中で、長屋王失脚の原因の一つとなったものと思われる理由については。
やはり、長屋王のその極端な儒教主義に基づいた理想政治と藤原氏との政治路線を巡っての権力闘争が存在していたと思われること。
それに詳しく、その長屋王の政策を検討した結果、見えてきたものとしては。
その官人達への綱紀粛清内容も例えばその「養老田令」位田条などの支給の例を見ても、長屋王の自分には厚くて、他には薄いという処遇の現実が注目されること。 
また、このように律令官人社会の秩序確立を主眼とする長屋王の試作は、その人間性を原因とする多くの矛盾と独断を内包していた様子が見て取れること。
そしてこうした部分が長屋王が官人社会から遊離して、官人達の離反をも招く要因が見られ、更にこれが藤原氏の主導する官人社会成立への趨勢の一因ともなったもの考えられる。



基本的に自身の才覚と努力により、持統天皇の大きな信頼をも得て、太政大臣にまで昇った現実感覚にも富んだ父親の高市皇子と比べると生まれながらの貴公子で苦労知らずであまりにも順調に昇進し続けてきた弱点を内包していた人物だったのかもしれません。



それから木本氏によると長屋王の変においては確かにその首謀者は武智麻呂であったと思われるが。
だがその彼の意図を受けて、最も尽力したのはこの宇合であったのではないかということです。
それから特に宇合と言えば遣唐使副使にも選ばれていることが注目されます。
そしてこの木本氏の本や遣唐使の阿部仲麻呂に関する指摘でも共通のことですが。
この遣唐使というのは容姿に優れ、挙措も優雅であり、文才に優れた人物達が選ばれています。言わば当時の選び抜かれたエリートにして、イケメンが遣唐使だったのです。
そして事実、宇合も「万葉集」や「懐風藻」にはそれぞれ六首ずつ収録され、優れた歌や漢詩がいくつか見られます。
そのような人物であったことが証明されています。
それにしても、いずれも優秀な四人の息子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂と更にこれも優秀な一人の娘である安宿媛に恵まれて、こうした点を見ると不比等は幸運な人物だったのだなとも感じずにはいられません。


文武天皇の難波行幸の時にそこでの宴会で忍坂部乙麻呂の読んだ歌に続いて、宇合が詠んだ歌。
七二 玉藻刈る 沖辺は漕がじ 敷栲の 枕のあたり 念ひかねつも 

海女達が玉藻を刈る沖辺なんか漕ぐまいぞ。ゆうべの宿の枕辺にいた人、その人達への
思いに耐えかねていることだから。

まず、最初に乙麻呂が旅先の鶴の鳴き声を苦痛だとして、家郷の妻に思いをそそげば、それに続いて宇合が旅先の一夜妻への執心から陸地近くへ漕ごうと述べている。


三一二 昔こそ 難波田舎と 言はれけめ 今は都引き 都びにけり 

昔は、難波都と軽んじられもしたろう、が、今は都を引き移してすっかり都らしくなった。


それから余談ですが。
遣唐使として最も有名なのは何と言っても、唐の玄宗皇帝に仕えた阿部仲麻呂でしょうが。
実は帰国も叶わないまま、ついに唐で生涯を終えた彼は独身とされることもありましたが。しかし、どうも唐人女性と結婚して子供までもうけていた形跡があるようです。
「続日本紀」によると阿部仲麻呂の家族が貧しくて葬儀が行なえないために日本から麻が届けられたという記述があるそうです。
つまり、この家族というのは阿部仲麻呂が結婚して、新たに唐で作った家族ということでしょうし。
それに阿部仲麻呂と親しかった詩人の一人の王維の漢詩にも、仲麻呂の唐人女性の結婚を思わせる内容のものがあるようです。
私もあれだけ有能な人物で家柄も良く、しかも美男で立ち居振る舞いも優れていたと思われる阿部仲麻呂なら当然、唐の女性達にモテただろうし。
また、周囲も放っておくはずもなく、自然に縁談の話などももたらされそうだしとも以前から想像していました。
それに他の遣唐使の藤原清河や羽栗吉麻呂も唐人女性と結婚し、子供ももうけているのてで阿部仲麻呂にも妻がいても不思議でもないとも考えていましたし。
それにしても阿部仲麻呂と言えば玄宗皇帝にも重用され、秘書官にまでなった人物だというのにその死後にその家族が葬儀も行えない程に困窮していたのは謎のようです。

穂積皇子の一五一三番歌は但馬皇女への挽歌的なものである可能性

2020-01-23 19:07:51 | 「万葉集」の人々
竹嶋麻衣氏の論文「恋歌の伝承 但馬皇女と穂積皇子の恋」によると「万葉集」巻八の秋の雑詠として収録されている穂積皇子の雁の歌は実際は但馬皇女への挽歌的なものではないのか?とする、興味深い以下のような指摘があります。

「――四番歌の題詞から、但馬皇女が異母兄・高市皇子の宮に妻の一人として同居し、「睦まじい生活」を送っていながら、同じく異母兄の穂積皇子に恋慕の情を抱き、関係を持ったことが知られる。


後代の仮託とされる磐姫皇后歌群を巻頭に据え、藤原朝に至るまでの皇族歌人の歌を多く採録した巻二相聞の部は、伊藤博「巻二磐姫皇后歌の場合」(「万葉集の構造と成立」上、塙書房、昭49)の中で「歌物語的趣向のもとに集められ、後人にあるロマンスを感じさせるように配列されていると指摘するように物語性が非常に強いとされている。
特に但馬皇女の歌については、高野正美の指摘の悲恋物語として当時の宮廷人の心に同情の涙を誘ったことだろう、犬養考の指摘の全体が渾然とした劇的な物語になっている。おそらく悲しい歌物語的なものとして伝承されてきたものぢろう。
これらの各万葉学者達により、その物語性や伝承性が早くから議論されてきた。」



実際の高市皇子と但馬皇女の夫婦関係はともかく、この「万葉集」の歌物語としての穂積皇子と但馬皇女の恋の中では、そのような印象を与えようとしていた可能性がありそうなことは興味深い点ですね。更にそうした三角関係の中で起きた悲恋ということで。
それに実際には彼らが別々に住んでいた可能性も、十分に考えられる形跡もありますし。私も以前の記事でも指摘しているように但馬皇女には内親王宮として、自分独自の宮も持っていたことも、彼女の宮に仕える役人が皇女のために薬の調合を申し出ている木簡の内容からも明らかになっているし。
大伯皇女に関しても、同様の宮の存在が確認されているようですし。
このように当時の皇族女性達は独自の財産や宮を所有していたことがわかっています。
それに「万葉集」の題詞は必ずしも事実を反映した内容ではないことは、他の数々の歌の題詞の例からもわかりますし。
「万葉集」の歌は題詞と歌の内容と一体化して、物語化されている傾向ですし。



そして続いての竹嶋氏の指摘。
「夫がありながら別の男性と関係を持ち、人の噂にも負けずに一途に寄り添いたいと歌う一―四番歌。近江崇福寺に派遣された穂積皇子を追いかけたい、その為に目印の標を「旅の無事を祈り、旅路を振り返る境界の地点」である隈に結って欲しいと願う一―五番歌。そして密通が発覚して、騒がしくなった周囲の噂に耐えきれず、「朝川」を渡って穂積皇子に会いに行く―一六番歌。」

そして但馬皇女の一連の歌についての竹嶋氏の続く、以下の指摘。
但馬皇女のこれら三首の展開が物語的であるがゆえに、歌自体を第三者の創作と見、密通を否定する説もあるが、私はこの歌群が持つ「物語性」は、彼女が実際に起こした恋愛事件にまつわる「伝承」を踏まえて、巻二編者が配列したことによるものだと考える。
その理由としては、事実無根の恋物語が、但馬皇女に仮託され、持統朝の宮廷サロンで享受されたとは考えにくいこと、巻二の三首は類型的な面も多いけれども、例えば「人言」の前では臆してしまうのが常であるのに、皇女はそれを物ともしないで乗り越えようとしている点、ズハ(―マシヲ)」型の歌は、「物思いをしなくてすむ存在になりたい」という「逃げの姿勢」を詠むものであるのに、「追っていきたい」と願っている点、「朝」という特異な時間に、川を渡って穂積皇子に会いに行っている点などに独自性が見出せ、彼女の実作と判断すべきことなどが挙げられるが、最大の理由は三首の配列に、伝承を踏まえたらしき痕跡が見られる。
恋歌の背景までもが創作ではあり得ないというような。



ただ、但馬皇女の歌については独自性の強い仮託の歌とする指摘もあり、それにこのように幾通りもの解釈が生まれてくるのが「万葉集」の歌の特徴でもあるので。
これはなかなか決着がつかない性質の問題であると私は感じますし。
それからこれは私も以前の記事の中でも指摘しているように穂積皇子と但馬皇女の恋愛事件の事実自体は存在し、しだいにそれが物語化されていったものであるとは私も感じています。
また、穂積皇子の同母妹の紀皇女も艶聞で知られていた女性であったこと自体は事実であったらしく、このように奔放な恋多き兄妹という印象で、彼らの間に似たような個性も感じられる部分があると思われることもあり。
しかし、人目を忍ぶ必要がある関係であった穂積皇子と但馬皇女の間での恋の歌であるため、果たしてそうした歌が後々まで残り得るのか?という根本的な疑問が私はどうしても湧いてしまいますし。
だから現在、但馬皇女の歌として伝えられている三首は仮託なのでは?という疑問は、やはり私の中では存在し続けています。




ただ、他に興味深い竹嶋麻衣氏の指摘としては、「万葉集」には季節の雑歌として収録されている穂積皇子の1513番歌が但馬皇女の死を悼んだ挽歌的なものなのではないのか?というものです。
万葉集巻八 一五一三「今朝の朝明 雁が音聞きつ 春日山 黄葉にけらし 我が心痛し 」
今朝の明け方、雁の声を聞いた。この分では春日山はもみじしてきたに違いない。つけても私の心は痛む。

「一五一四 秋萩は 咲くべくあらし 我がやどの 浅茅が花の 散りゆくを見れば」についても、これも表面上は季節の風物を歌ったように見せておいて、実は但馬皇女とのことを詠んだものだと見る向きがあるようですが。


萩の花は今にも咲きそうになっているに違いない。我が家の庭の浅茅の花が散ってゆくのを見ると。


一五一五 言繁き 里に住まずは 今朝鳴きし 雁にたぐひて 行かましものを


人の口のうるさいこんな里なんかに住んでいないで、いっそのこと、今朝鳴いた雁と連れ立ってどこかへ行ってしまえばよかったのに。国なんかにいないで。


村瀬憲夫氏の「万葉歌の分類ー巻八と巻十における『雑歌』と『相聞』」(『萬葉集編纂の研究』塙書房)の中での、指摘。
この但馬皇女の一五一五番歌も「相聞」部に収められても一向におかしくはない。それに、作者が但馬皇女であり、異母兄の穂積皇子との間に残した悲恋の歌が、巻二の「相聞」部を飾り、しかもその歌旬が「恋ひつつあらずは」(②一一五)、)、「人言を繁み言痛み」(②――六)と、この歌と通じる趣をもっていることからすれば、なおさらである。ところが実際には「雑詠」部に配されている。また一方でこの歌の直前には穂積皇子の歌が配されてあり、⑧一五一三、一五一四)、とりわけ巻八の一五―三番歌は、雁を詠み、しかも「我が心痛し」という恋の心痛を想像させるような表現を有している。以上の種々のことを勘案すると、編者は、有名な二人の関係を巧みに利用して、直接的表面的には秋の景物を詠んだ雑歌として配し、その背後には二人の悲恋の情を匂わせるという、歌の配列の妙を考案したのではないか。



そしてこれらの村瀬氏の見解も踏まえた上での竹嶋氏の以下の主な指摘。
まず、一五一四番歌の「秋萩は 咲くべくあらし 我がやどの 浅茅が花の 散りゆくを見れば」は、ただの雑詠だろう。
黒沢幸三氏はこの浅茅が花とは但馬皇女のことだと指摘しているが。
だが「浅茅」は「未成熟の女性」の比喩である。
穂積皇子と同年代だと思われる但馬皇女を「浅茅」と見るのは、無理である。
この歌からは但馬皇女への思いは読み取れない。
また、この一連の穂積皇子の秋の雑詠の歌については表面的には「雑歌」で、背後に「相聞」を匂わせる「配列の妙」というよりは、巻二のような「物語的」な展開を意識した配列ではないかと私は考えるのだが、何れにせよ巻八編者に「伝承」を踏まえた「配列意識」があったことは間違いないだろう。
また、一五一五番歌の但馬皇女の歌は「一書に云はく、子部王の作」とも題詞にあるように実際は子部王の作品であり、但馬皇女に仮託する形でこの歌を詠んだのではないのかと指摘しています。



確かにこの但馬皇女の歌も、子部王の仮託である可能性も考えられますね。
それから確かに明らかにこの二首の穂積皇子の歌が但馬皇女への恋の歌であったら、やはり、そこまで手の込んだ配列のしかたはせずに「相聞」の歌に分類されているのではないのかとも私も感じますし。
ただ、竹嶋氏の指摘するように編纂者が物語性を意識して、あえてこの穂積皇子の歌と但馬皇女の歌を並べて配列したと考えられます。
そして更に続いての竹嶋氏のこの穂積皇子の雁の歌についての指摘。
「作歌時期は「春日山」の所在から、平城京遷都後、即ち和銅三年の秋から穂積薨去の前年、和銅七年の秋までと見るのが主流である。
しかし、「ケラシ」が「過去の事実、または過去から現在に継続している事実に対する、比較的確実性をもった推量をあらわすのに用いる」助動詞であることから、穂積は実際には黄葉を見ていないとして、遷都以前の作と見る坂本信幸「穂積皇子の御歌、巻八・一五ニニをめぐって」(「叙説」十二、昭61・3もある。
坂本氏は、北島徹「春日山黄葉にけらし我が心痛しー穂積皇子の恋情ー」(「古典と民俗」十五、昭58.l)が、平城京遷都の暁には共に春日山の黄葉を見よう、という約束が二人の間で交わされていたのではないかと推察したのを受けて、和銅―一年に穂積が藤原の地にあって、約束を果たすことなく逝ってしまった但馬を思って詠んだものと解する。
しかし、高市皇子が持統十(六九六)年に亡くなった後も、結ばれることのなかった二人が、遷都後の約束を交わすほど親しい間柄だったとは考えられない。
また、万葉人にとって「雁が飛来したら黄葉する」というのはごく一般的な認識であった。たとえ実景を見なくとも、雁が音から黄葉を連想することは十分可能だったはずである。やはり遷都後に、身近にある春山の黄業を「雁が音」から想像して詠んだと見るのが適当であろう。」



この一連の指摘には私も賛成です。
伊藤博氏もこの歌は穂積皇子が但馬皇女を妻とした後の歌かなどともしていますが、それは少し想像を膨らませ過ぎだろうとも感じますし。
私も穂積皇子と但馬皇女はついに結婚することはなかったと思いますし。
ただ、私もそれまではただの秋の雑歌として、穂積皇子が詠んだ歌を「万葉集」の編纂者が但馬皇女の歌とあえて並べて配列し、何か双方の歌に関連性があるように思わせただけであり、この穂積皇子の歌は但馬皇女への気持ちを詠んだ歌ではないと考えていたのですが。
ただ、これも続く、竹嶋麻衣氏の指摘にはかなり興味深いものがあります。
以下の指摘。
「さて、約束は無くても、この歌には但馬皇女に対する穂積皇子の思いが込められている可能性はある。新日本古典文学大系本は、「雁声や黄葉に悲哀を起こすこと、万葉集には珍しい。中国文学の『悲秋』の気分の影響があるのではないか。」とするが、坂本氏が「『心痛」い感情は、人間に関わる具体的な強い感情であって、漠然とした季節などに関わる感情ではない。」と述べるように、集中の「心痛し」を見る限り、「悲秋」とは考えにくく、但馬皇女への思いと見るほうが自然なのである。
その一方で、「悲秋」の早い例が宋玉「九弁」の中に見られ、『懐風藻』にも「悲秋」の概念を踏まえたものが幾つか見られるので、穂積皇子が「悲秋」を意識して詠作した可能性も皆無とは言えないのが実情である。」
このように竹嶋氏は指摘しつつも、その一方で死者が黄葉を求めて山路を分け入ったり、死者を黄葉に例えた例があることを踏まえ、この穂積皇子の歌は但馬皇女のことを悼んで詠んだ挽歌的なものである可能性があることも指摘しています。
それから坂上郎女の一五六一番歌から坂上郎女が穂積皇子と但馬皇女の恋愛事件を知っていたことがわかるとも指摘。

「万葉集」巻八 一五六一 吉隠の猪養の山に伏す鹿の妻呼ぶ声を聞くが羨しさ

吉隠の猪養の山で、そこをねぐらとしている鹿の、妻を求めて鳴く声、その声を聞くのは心がしみじみとして懐かしい限りだ。


この「吉隠の猪養の岡」という言葉が出てくる歌は穂積皇子の挽歌とこの坂上郎女の歌だけであるともして。
確かに坂上郎女が穂積皇子と但馬皇女の恋愛事件を知っていた可能性は私も高いと思います。そして、更にその話が彼女から大伴家持へとその話が伝えられたのではないのかとも想像されますし。
そして続いての竹嶋氏の指摘。
「穂積皇子の挽歌と、但馬皇女への思いを知らなければこの一五六一番歌は詠めない、また、巻八の三首(一五一三~一五一五)が、巻二相聞の部詞様に、「物語的」に配列されていることにも納得がいく。」
しかし、このように竹嶋氏は穂積皇子の但馬皇女への挽歌が穂積皇子の実作であると考えているようですが。
けれどこの穂積皇子の挽歌についても、以前の記事でもこれらの疑問について、私も指摘してきたように。
この穂積皇子の挽歌は大変に物語性が強い題詞と歌の内容になっていること、他にもこの穂積皇子の挽歌が実際の但馬皇女の死から半年も経てから詠まれている不自然さ。
これらの点からこの穂積皇子の挽歌は仮託の挽歌であり、彼の実作ではないと私は判断しています。
また高市皇子の妃という他の男性の妻であった但馬皇女、そして彼女の夫でもなかった穂積皇子が但馬皇女の挽歌を詠める立場にもなかっただろうとも想像されますし。



それに果たしてこの中での、一連の穂積皇子と但馬皇女の歌の伝承に関わったのは、本当に坂上郎女なのか?という疑問も残りますし。
竹嶋氏の見解によるとそうなるようですが。
けれどもこの竹嶋氏の推測は穂積皇子の挽歌と但馬皇女の一連の歌が全て彼ら自身の実作であることも前提にしていますし。
そしてこの坂上郎女の歌が穂積皇子の死後に詠まれた歌だと考えられることなどから考えてみても。
私はこの坂上郎女の猪養の岡の歌が穂積皇子の但馬皇女への思いをうらやんだ結果、詠まれたものとするよりも、あえて坂上郎女が最初からこのように但馬皇女の埋葬された猪養の岡と関連付ける内容の歌として興味を示し、意識的にこうした歌を詠んだ可能性も考えられると思いますし。
つまり、この坂上郎女の歌は「万葉集」の他の歌にもしばしば見られるようにこうして歌と歌、そして関わる人々同士の関連性を強調するという、主に文学的な意図に基づいて読まれた歌なのではないのでしょうか。
坂上郎女の但馬皇女への嫉妬や羨望などという、そんな深刻な深い思いが込められた歌ではないように私には感じられるのですが。



それに他にも全体的に理知的・技巧的な印象が強く、激しい感情の吐露のようなものが見られない傾向の、その坂上郎女の作風などから考えても。及びそうした作風から考えられる彼女の性格。
それからもちろん、坂上郎女も穂積皇子の但馬皇女への思いは尊重はしていたとは思います。
実際にはこのように坂上郎女の猪養の岡の歌には、それ程彼女の但馬皇女への深刻な感情が表わされているのではないにしても。
かといって、けしてかつての穂積皇子と但馬皇女との恋や穂積皇子の但馬皇女への思いを坂上郎女が軽く扱っているということでもないと私は思っていますし。
おそらく、坂上郎女もと大伴家持も穂積皇子と但馬皇女の悲恋に感動して強く心を動かされたからこそ、「万葉集」の中の重要な恋の歌物語として扱っているのでしょうし。また、穂積皇子と但馬皇女の恋を坂上郎女も大切に思っているからこその、こうしたその皇女の埋葬地、そして穂積皇子の但馬皇女への思いとも関連付ける歌を自身も詠んでいるのだと考えられますし。
こうした様子も、二人の恋を坂上郎女が尊重した上での享受の形の例の一つでしょう。



それに仮に坂上郎女に但馬皇女への複雑な感情があったとしても、坂上郎女はそうした感情をこのように歌という形としては、そのまま表わさないようにも私には思えるというか。
坂上郎女の勝気な感じの性格から考えても。
更にここから仮託の挽歌として、但馬皇女の死から半年後の冬に穂積皇子が詠んだとされるあの猪養の岡の挽歌が「万葉集」の編纂者により、挿入されたのではないのかとも考えられますし。
それからこの塚上郎女の歌が彼女が穂積皇子の但馬皇女への思いをうらやんだ歌、つまり、実際は坂上郎女への穂積皇子への思いを詠んだ歌だとしたら、相聞の歌に分類されているはずではないでしょうか。
穂積皇子の一連の歌も、やはり、恋の歌というよりも、秋の雑詠の要素が強い歌だから秋の雑歌に分類されているのでしょうし。



それに坂上郎女も自分よりも遥かに年長の男性であり、妻子もいる穂積皇子が自分と結婚する前にも、既に様々な恋愛経験を経ている男性であることは十分に理解していたはずだと思われますし。そしてそれらのことも理解した上で、彼女も穂積皇子と結婚したのでしょうし。
それなのに自分が生まれる遥か昔の穂積皇子と但馬皇女の恋に強く嫉妬したり、うらやましがるような気持ちが彼女の中にあったのかどうか?
それに坂上郎女が大伴家の荘園跡見庄に行っていた時に詠んだ、この吉隠の猪養の岡で妻を求めて鳴く鹿の歌ですが。

おそらく、坂上郎女はこちらに行っていた時に自然とそういえば、ここはかつて穂積皇子の愛した女性の但馬皇女の埋葬された場所だったなと思い出したような気がします。
亡き夫穂積皇子に繋がるものはこのように過去に彼が愛した女性の存在も含めて、それらさえも慕わしいというような、穂積皇子への坂上郎女のより大きな愛情をむしろ私はこの歌から感じます。
むしろ坂上郎女にとっては、かつて穂積皇子が恋した女性である但馬皇女の埋葬された地である猪養の岡というのは。おそらく、穂積皇子や彼との思い出を自然に連想させる要素であったということなのではないのでしょうか。
やはり、坂上郎女にとっての穂積皇子の存在はその過去の但馬皇女との恋も含めて、構成されたものだったということなのでは。
それに坂上郎女がこの歌を詠んだ時は既に三人目の夫の宿奈麻呂と結婚した後だったと思われますが。でも、こうして坂上郎女が最初の夫穂積皇子にも繋がる、吉隠の猪養の岡についての歌を詠んでいることから彼女の最初の夫であった穂積皇子への愛情も感じ取ることもできますし。
それから確かにこの坂上郎女の吉隠の猪養の山で、そこをねぐらとしている鹿の、妻を求めて鳴く声、その声を聞くのは羨ましいことだとする解釈もありますが。
しかし、やはり、私としてはこの伊藤博氏の「懐かしい」とする解釈の方がよりしっくりとくるように思います。



それから本題に戻りますが。
一見、秋の雑詠の歌に思えるこの穂積皇子の雁の歌ですが。
しかし、実は但馬皇女を悼んだ挽歌だとする竹嶋氏の、この指摘はかなり興味深いです。その全体的な歌の調子からしても、穂積皇子の但馬皇女への歌としては穂積皇子の但馬皇女の挽歌よりは、よほど現実感があるように私には感じられますし。
また、この雁の歌なら但馬皇女が詠まれた季節も死去した夏からそんなに季節が離れていないのことも、より説得力を感じさせるように思えますし。
それにしても「万葉集」の編纂者はこの穂積皇子の歌のことを但馬皇女への思いがこめられているのをどこかに感じながらも、季節の歌としても読める微妙内容だと感じたのでしょうか?
それにしても、この秋の雑歌として分類されている穂積皇子の歌のように、もし穂積皇子の実際の但馬皇女への気持ちを詠んだ歌が存在していたとしても、明らかにそれとわかるような内容の歌としては伝わっていない方が禁断の恋をしていた彼らの歌としては私は相応しいようにも思えます。


「恋歌の伝承 但馬皇女と穂積皇子の恋」竹嶋麻衣
http://rp-kumakendai.pu-kumamoto.ac.jp/dspace/handle/123456789/1842

2007年