これまで姉妹とされることもあった、額田王と比べると歌や存在も地味な印象がある、この鏡王女ですが。
なまじ長い間、額田王と姉妹とされてきためにどこか鏡王女が損をしていた所もあるような。
いかにも華やかなイメージが強い額田王の陰にその存在が埋没しがちのような感じで。
歴史小説などでも額田王と比べて、鏡王女は地味な女性に描かれやすいですし。
しかし、いろいろと考えてみるとなかなかこの女性も興味深い存在ではないのかというか。
それに私が以前の鏡王女の記事の「鏡王女の出自についての謎、やはり舒明天皇の血縁者か?」でも書いたように。
舒明天皇の墓の領域内に鏡王女も埋葬されていることから彼女は舒明天皇の皇孫であり、天智天皇の信頼も厚い姪であった可能性が高いようであるとか。更に「万葉の歌人とその作品 第一巻 初期万葉の歌人たち 和泉書院」の「鏡王女に関わる歌」の中で小川靖彦氏の以下の指摘。
養老令によると皇族の結婚については次のように規定している。
凡そ王、親王を娉き、臣、五世の王を娉くことを聴せ。唯し五世の王は、親王を娉くこと得じ。(継嗣令王娶親王条)
臣下は五世王以下を娶ることができる。
逆に言えば、臣下が一世から四世の皇族と結婚することは論外だった。
このように臣下である鎌足が皇孫の可能性の高い鏡王女を「娉る」ことは極めて異例なことだった。そしてこうした結婚が個人的になされたとは考えにくい。
おそらく、鎌足と鏡女王の前後に例を見ない結婚には、藤原氏との血族的な繋がりによって自己の皇統の権力基盤を強固なものとすることを目指した天智天皇の強い意向が働いていたと見ざるを得ない。
だが「万葉集」では鏡王女と鎌足の贈答歌の直前に、天智天皇と鏡王女の贈答歌が配されていることもあって、天智天皇が自分の妻かまたは恋人であった鏡王女を鎌足に譲渡したと読む向きがあるが、鏡王女と鎌足の結婚の特異さやその背後に必ず存在したであろう天智天皇の政治的意図を考慮するならば、むしろ鏡王女は天智天皇にとっては最も心の置けない、かつ政治的使命の担い手として信頼するに足る極めて近しい
親族の一人であったと考えるべき。
このように天武天皇の信頼が極めて厚い廷臣である藤原鎌足と自分の血族である鏡王女を特別に重要な政治的意図から結婚させていることから考え、確かにここからは天智天皇の鏡王女への親愛の感情と共にその厚い信頼をも窺うことができます。
そしてこのように重要な廷臣である藤原鎌足に鏡王女を嫁がせていることから考えて、鏡王女自身もかなり有能な女官であったとしてもいいのではないのでしょうか。
また実際にも他にも鏡王女についてそう思わせる理由としては、以下のような点が挙げられます。
「日本書紀」の鏡王女の死亡記事には「天武十二年(683)七月五日、薨ず」とされており、このようにその死については「薨」の字が使われており、皇族か位階が三位(正三位・従三位)以上の人間が亡くなった時にはこの字が使われます。
このことから鏡王女が三位以上の高位にあった女官であったことがわかります。
また、鏡王女のその死の前日にはわざわざ、天武天皇が見舞っているのも、やはり、これは彼女との血縁関係の他にも壬申の乱の際には鎌足の妻として、中立的立場を保ったためではないのかとも小川靖彦氏から指摘されていますし。
このように藤原氏にとって、壬申の乱の時の微妙で難しい時期も中立の立場を保ち、更にその壬申の乱後にも藤原鎌足の正妻として、藤原氏を支えた聡明な女性という印象です。
それから藤原鎌足・鏡王女夫婦のように有能な廷臣と有能な女官の夫婦と言えば藤原不比等と橘三千代夫婦の姿と重なる所もありますね。
なまじ長い間、額田王と姉妹とされてきためにどこか鏡王女が損をしていた所もあるような。
いかにも華やかなイメージが強い額田王の陰にその存在が埋没しがちのような感じで。
歴史小説などでも額田王と比べて、鏡王女は地味な女性に描かれやすいですし。
しかし、いろいろと考えてみるとなかなかこの女性も興味深い存在ではないのかというか。
それに私が以前の鏡王女の記事の「鏡王女の出自についての謎、やはり舒明天皇の血縁者か?」でも書いたように。
舒明天皇の墓の領域内に鏡王女も埋葬されていることから彼女は舒明天皇の皇孫であり、天智天皇の信頼も厚い姪であった可能性が高いようであるとか。更に「万葉の歌人とその作品 第一巻 初期万葉の歌人たち 和泉書院」の「鏡王女に関わる歌」の中で小川靖彦氏の以下の指摘。
養老令によると皇族の結婚については次のように規定している。
凡そ王、親王を娉き、臣、五世の王を娉くことを聴せ。唯し五世の王は、親王を娉くこと得じ。(継嗣令王娶親王条)
臣下は五世王以下を娶ることができる。
逆に言えば、臣下が一世から四世の皇族と結婚することは論外だった。
このように臣下である鎌足が皇孫の可能性の高い鏡王女を「娉る」ことは極めて異例なことだった。そしてこうした結婚が個人的になされたとは考えにくい。
おそらく、鎌足と鏡女王の前後に例を見ない結婚には、藤原氏との血族的な繋がりによって自己の皇統の権力基盤を強固なものとすることを目指した天智天皇の強い意向が働いていたと見ざるを得ない。
だが「万葉集」では鏡王女と鎌足の贈答歌の直前に、天智天皇と鏡王女の贈答歌が配されていることもあって、天智天皇が自分の妻かまたは恋人であった鏡王女を鎌足に譲渡したと読む向きがあるが、鏡王女と鎌足の結婚の特異さやその背後に必ず存在したであろう天智天皇の政治的意図を考慮するならば、むしろ鏡王女は天智天皇にとっては最も心の置けない、かつ政治的使命の担い手として信頼するに足る極めて近しい
親族の一人であったと考えるべき。
このように天武天皇の信頼が極めて厚い廷臣である藤原鎌足と自分の血族である鏡王女を特別に重要な政治的意図から結婚させていることから考え、確かにここからは天智天皇の鏡王女への親愛の感情と共にその厚い信頼をも窺うことができます。
そしてこのように重要な廷臣である藤原鎌足に鏡王女を嫁がせていることから考えて、鏡王女自身もかなり有能な女官であったとしてもいいのではないのでしょうか。
また実際にも他にも鏡王女についてそう思わせる理由としては、以下のような点が挙げられます。
「日本書紀」の鏡王女の死亡記事には「天武十二年(683)七月五日、薨ず」とされており、このようにその死については「薨」の字が使われており、皇族か位階が三位(正三位・従三位)以上の人間が亡くなった時にはこの字が使われます。
このことから鏡王女が三位以上の高位にあった女官であったことがわかります。
また、鏡王女のその死の前日にはわざわざ、天武天皇が見舞っているのも、やはり、これは彼女との血縁関係の他にも壬申の乱の際には鎌足の妻として、中立的立場を保ったためではないのかとも小川靖彦氏から指摘されていますし。
このように藤原氏にとって、壬申の乱の時の微妙で難しい時期も中立の立場を保ち、更にその壬申の乱後にも藤原鎌足の正妻として、藤原氏を支えた聡明な女性という印象です。
それから藤原鎌足・鏡王女夫婦のように有能な廷臣と有能な女官の夫婦と言えば藤原不比等と橘三千代夫婦の姿と重なる所もありますね。