ちなみに、グラバー園や大浦天主堂もまだです。
地元なので、いつでも行けるという安心感から今日まで行かずじまいになっていました。
出島(19世紀の様子)

これは川原慶賀の絵を使ったパンフレットの表紙です。
赤い矢印が出島で、19世紀当時は周囲を海に囲まれていました。
黄色い矢印は新地で、今の新地中華街は海を埋め立ててできたことが分かります。
今の出島

後のビルをトリミング

石垣の手前は川です。
出島を作った当時は海でした。
出島の周辺を含め長崎港の海岸は、埋め立てられて下の図のように大きく変わっています。

(パンフレットより)
下の図には、国道の下に埋もれた出島の境界が破線で示してあります。
(分かりやすいようにピンクで色をつけました)

(パンフレットより)
その境界線は国道にも残してあります。

分かりますか?
よく見ると、国道の左と右で色が違います。舗装のやり残しではなく、舗装の境目が出島の境界線です。
境界線が分かりやすいように加工してみました。

出島の復元工事はまだ途中で、長期計画では四面に水面を確保し19世紀初めの扇形の島を完全に復元するそうです(長崎市「出島復元整備事業」)。
昔の出島の絵には大きな旗竿にオランダの国旗がはためいています。

それを復元するためにと、私が訪ねた10/1には新しい旗竿が出来上がっていました。

出島復元はまだまだ道半ですが、今の段階でも見所いっぱいでした。
実は、今回出島を訪ねたのは川原慶賀の企画展を見るのが一番の目的でした。
「シーボルトと川原慶賀」展 ポスター

この企画展は8月からやっていたのですが、猛暑を理由に延び延びになっていたのです。
企画展の様子


慶賀の落款印が押された植物画

企画展を見た後は復元された建物やその中の展示物を見て回りました。
いくつか紹介します。
カピタンの部屋


阿蘭陀冬至を祝う再現再現
キリスト教禁教下だったので、クリスマスという言葉を使わず「阿蘭陀冬至」と言っていたそうです。
カピタンの部屋は元々は日本家屋でしたが、天井や壁には「唐紙」と呼ばれる壁紙が貼られています。
天井の模様

模様はスタンプを押しているので、間隔が均等ではありません。
宴の模型

畳ですが、オランダ人は靴を履いているのが分かります。

それに対して、インドネシアから連れてきた給仕は裸足です。

時計

梱包する箱

緩衝材にワラが使われています。あの頃、プチプチはないのでナルホドと思いました。
まだまだ沢山の展示物があり、見て回るだけで半日かかりました。
ここでは特に印象に残ったものだけ紹介しました。
最後に、再現された町並みや建物を。





