咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

与野駅の近くにあった踏切

2019年11月25日 | 日記
2019年10月05日ブログで私は与野駅南の跨線歩道橋の上で与野駅方面を見た。
2019年10月21日ブログでその跨線歩道橋の位置をヤフー地図に赤丸で示した。
そして昔、AとBのところに踏切があったのではないかと考え、昭和43年当時存在した大原踏切はBのところ(緑線)ではないかと書いた。
AとBのところに踏切があったのではないかと考えた理由は、昭和7年東北線赤羽大宮間線路縦断面図の東京駅からの距離だった。
昭和43年の市内の鉄道交差路を見ると、大原踏切の東京よりの鉄道交差路は中山跨線橋である。私はヤフー地図に赤丸で示したところが中山跨線橋だと思う。
そうすると、昭和7年当時に存在した踏切Aは昭和43年にはなくなっていたということだと思う。
踏切Aはどのような道だったのだろうか。

大正13年の地図を見る。
与野駅の南北で鉄道と交差する道を緑で示す
国際日本文化研究センターサイトのデーターベース(所蔵地図)から昭和25年(1950)東京都管内図を閲覧する。
その地図で与野駅周辺を見る。
凡例によれば与野駅を囲んでいる道路は国道と県道だと思う。
青で示した道は大正13年地図のこの道(青)だと思う。
そうだとすれば与野駅の南北で鉄道と交差する道(緑)は県道であり、鉄道と交差するところは踏切があったと思う。

与野駅の南北にあったと思われるこの二つの踏切は現在地図(ヤフー)のどこにあったのだろうか。
大正13年地図の下落合氷川神社と上木崎足立神社で目安線を引く。
現在の地図に同じ場所で目安線を引く。
次に大正13年地図の下落合氷川神社と針ヶ谷の神社で目安線を引く。
針ヶ谷の神社は明治18年頃の地図に天神祠と表示されているところだと思う。
目安線を引くとこのようである。

さいたま市立針ヶ谷小学校ホームページを開き、(地域の様子)(今昔マップ)を開くと「天神さま 金毘羅さま 稲荷さま」と表示された場所がある。その場所の写真はこのようである。鳥居の向こうに見える建物は双恵幼稚園さんだと思う。
明治18年頃の地図に天神祠と表示されたところは現在の双恵幼稚園さんの場所だと思われ、現在の地図に下落合氷川神社と双恵幼稚園さんで目安線を引く。
2011年1月の双恵幼稚園さん。


大正13年の地図に青で示した道を現在の地図に描くとこのようになると思う。
緑矢印の踏切は大原踏切だと思う。

大正13年地図を見ると赤丸のところは道路と鉄道が交差しており、踏切があったと思う。
2019年04月10日ブログで私は大正13年地図の緑丸の交差点現在地図この交差点(緑丸)の場所と考えた。
大正13年の地図に緑丸の交差点と針ヶ谷の神社で目安線を引く。
現在地図に緑丸の交差点と双恵幼稚園さんで目安線を引く。
大正13年地図の赤丸は現在地図のこのあたり(赤丸)だと思う。
この場所は踏切Aの場所と一致する。
昭和7年ここにあった踏切は昭和43年にはなくなっていた。
いつ廃止されたのかはわからない。

鉄道が開通する前の迅速測図を見る。
後年踏切Aが設置されたと思われる道を赤で示す。中山道と川越道を結ぶ道である。
中山道から分かれる岩槻道を黄で、川越道を緑で示す。
岩槻方面から中山道を経由して与野、川越方面へ向かうには、南の川越道を曲がるのではなく、北の赤い道を経由して川越道に合流するのが近道である。
かつてはそこそこの人通りがあった道だと思う。

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