咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

古地図で昼間の渡しから川越へ岩槻へ

2019年07月16日 | 日記
前日のブログで私は西区飯田新田にあった「昼間の渡し」について触れ、その中で昭和55年大宮市発行『大宮のむかしといま』の記述を見た。そこには “ 川越町へ通ずる街道の荒川筋に当たっていた ” また “ 『新編武蔵風土記稿』によれば、(中略) 古くから川越・岩槻という二つの軍事拠点を結ぶ連絡道として利用されたことを伝えている ” との記述がある。
新編武蔵風土記稿で足立郡植田谷領飯田新田を見ると、「渡津」に「晝間渡」が記述されている。
終り2行には “ コノ渡場ノ傍ニ古ヘ川越ヨリ岩槻ヘノ街道トテ其頃ノ一里塚ノコレリト云 ” と記述されている。昔の川越~岩槻街道の一里塚が残っていたようである。

ウィキペディア一里塚によれば、日本での一里塚のはじまりは平安時代末期で、全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。
2016年10月15日ブログで見た弘化元年(1844)東都近郊圖 : 全ではさいたま市域で一里塚があった道は中山道、日光御成道、日光御下道だった。
徳川家康が「昼間の渡し」を利用したのは天正19年(1591)とあるから関ヶ原の前である。その頃ここに川越~岩槻間の街道が通っていたということだと思う。

2018年07月06日ブログで私は大正5年発行の地図大宮に大宮~川越間の当時の新道を緑、旧道を赤示した
赤で示した川越道(旧道)の荒川渡船場は「千手堂の渡し」である。「昼間の渡し」はもっと下流にある。
下流の地図に「千手堂の渡し」を赤丸で「昼間の渡し」を黄丸で示す
それぞれの道を川越方面に辿る。
迅速測図に地図を変えて、川越方面にさらに辿る。二つの道は小仙波村で一つになった。

大正5年発行の地図の範囲を大宮方面に移す。
荒川の二つの渡船場から大宮方面に延びるそれぞれの道を辿る。水判土の近くで一つになった。
2018年07月06日ブログのこの地図に「昼間の渡し」から辿った道を描く

「昼間の渡し」から川越方面および岩槻方面(大宮方面)に延びる道を大正5年発行の地図で辿ってみたが、辿った道(黄)が一里塚があった街道かどうかはわからない。ただ、明治初期に川越道、岩槻道と呼ばれていた街道と一里塚があった街道とは全く別ルート(例えば東海道と中山道)の道ではなく、時代の変遷によって部分的にルート変更(バイパスのように)されて別々の道になったような気がする。

大宮から岩槻方面の岩槻新道が開通する前の街道(岩槻道)を大正5年発行の地図に赤で描くとこのようになると思う。徳川家康が通った道もこれに近かったのではないだろうか。

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