2017年05月30日ブログで私は浦和区大原を、2017年04月21日ブログで大宮区大原を歩いた。
さいたま市の町名「大原」は現在浦和区と大宮区にある。大原は1丁目から7丁目まであり、1丁目から5丁目までは浦和区にあり、6丁目・7丁目は大宮区にある。
政令指定都市になる前は大原1丁目から7丁目まですべて浦和市にあった。平成4年浦和市発行『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』の地図。
『わがまち浦和』の浦和市住居表示実施状況一覧を見ると、大原1~7丁目は昭和57年8月1日に成立した。
平成13年浦和市発行『浦和市史 通史編Ⅳ』には “ 大原は本来、大字上木崎の字名であるが、大原中学校が見沼地域に移転したことにより、その周辺を大原とした ” との記述がある。
大原中学校については『わがまち浦和』にこのように案内されている。現在地に移転したのは昭和58年4月であり、大原1~7丁目が成立して8ヶ月後に学校が移転した。2017年05月30日ブログの大原中学校。
平成25年発行青木義脩著『さいたま市 地名の由来』には “ 大原は本来、上木崎の字であったが、そこにあった大原中学校が見沼田んぼの中に移転したため、新しい町名が学校にちなんで生じた。要するに大原が動いたのである。『武蔵国郡村誌』には字地として大原がある。東西南北とも285間で、村の西方にあるということであるが、とりもなおさず元の大原中学校があった辺りで、今の上木崎4丁目とその周辺である ” との記述がある。
元の大原中学校があった場所を昭和51年の地図で見る。
現在の地図(ヤフー)だとここ(赤文字)になる。
2016年10月29日ブログの写真。(仮称)さいたま市子ども総合センター建設工事をしていた。
Bing地図の概観図で見る。工事着工前である。
昭和54年の空中写真を見る。大原中学校を見る。現在の大原中学校の場所を見る。現在の空中写真で大原中学校を見る。
2010年1月私は元の大原中学校があった場所を訪れた。
さいたま市文化財資料室の門から入り、北側の旧校舎と思われる建物を見た。
さいたま新都心方面を見た。
南側の体育館のような建物を見た。

さいたま市立大原中学校ホームページの大原中の沿革を拝見すると、昭和41年(1966)3月10日に “ 体育館兼講堂落成 ” というのがある。これかも知れない。
さいたま市の町名「大原」は現在浦和区と大宮区にある。大原は1丁目から7丁目まであり、1丁目から5丁目までは浦和区にあり、6丁目・7丁目は大宮区にある。
政令指定都市になる前は大原1丁目から7丁目まですべて浦和市にあった。平成4年浦和市発行『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』の地図。
『わがまち浦和』の浦和市住居表示実施状況一覧を見ると、大原1~7丁目は昭和57年8月1日に成立した。
平成13年浦和市発行『浦和市史 通史編Ⅳ』には “ 大原は本来、大字上木崎の字名であるが、大原中学校が見沼地域に移転したことにより、その周辺を大原とした ” との記述がある。
大原中学校については『わがまち浦和』にこのように案内されている。現在地に移転したのは昭和58年4月であり、大原1~7丁目が成立して8ヶ月後に学校が移転した。2017年05月30日ブログの大原中学校。
平成25年発行青木義脩著『さいたま市 地名の由来』には “ 大原は本来、上木崎の字であったが、そこにあった大原中学校が見沼田んぼの中に移転したため、新しい町名が学校にちなんで生じた。要するに大原が動いたのである。『武蔵国郡村誌』には字地として大原がある。東西南北とも285間で、村の西方にあるということであるが、とりもなおさず元の大原中学校があった辺りで、今の上木崎4丁目とその周辺である ” との記述がある。
元の大原中学校があった場所を昭和51年の地図で見る。
現在の地図(ヤフー)だとここ(赤文字)になる。
2016年10月29日ブログの写真。(仮称)さいたま市子ども総合センター建設工事をしていた。
Bing地図の概観図で見る。工事着工前である。
昭和54年の空中写真を見る。大原中学校を見る。現在の大原中学校の場所を見る。現在の空中写真で大原中学校を見る。
2010年1月私は元の大原中学校があった場所を訪れた。
さいたま市文化財資料室の門から入り、北側の旧校舎と思われる建物を見た。
さいたま新都心方面を見た。
南側の体育館のような建物を見た。

さいたま市立大原中学校ホームページの大原中の沿革を拝見すると、昭和41年(1966)3月10日に “ 体育館兼講堂落成 ” というのがある。これかも知れない。
コメントありがとうございます。