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咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

江戸時代の地図で見るさいたま市の川

2016年10月06日 | 日記
日文研サイトデーターベース所蔵地図から弘化元年(1844)東都近郊圖 : 全で旧浦和・大宮・与野市周辺を見る。
2016年09月21日ブログで私は綾瀬川と見沼代用水東縁・西縁の分岐点を明治22年埼玉県管内全図で見た
その場所を東都近郊圖で見るとここだと思う。
見沼代用水東縁・西縁を下流に辿るとこのよう(青)になると思う。
東縁から分岐するこの水路は赤堀用水だと思う。

ここ(黄)は見沼通船堀だと思う。黄矢印の川は見沼悪水ヲトシ芝川と書いてある。
ウィキペディア見沼通船堀の芝川,見沼代用水(西縁,東縁)との位置関係

見沼代用水西縁から文蔵方面(黄丸)に分岐している水路(黄)は辻用水だと思う。
中山道と交差しているところ(赤丸)がある。
現在の地図で旧中山道と辻用水(六辻水辺公園)が交差するのはここである。

この水路はその先、沼影、鹿袋、曲本、田島のあたりを通過して新開のあたりで鴻沼川と思われる川に合流する。
現在の地図にそれらの地名を赤で囲む。現在このような地域を流れる水路を私は知らない。
ちなみに、六辻水辺公園はこのよう(青)な川筋で笹目川に合流している。
笹目川は大人の学校サイトの寺子屋の記録、第5回川は町の姿を映す鏡に “ 大正末期から昭和初めにかけて、農業用水、家庭雑排水の排水路として開削された人工の川 ” とある。江戸時代にはなかった川である。

2016年09月21日ブログで私は、明治22年埼玉県管内全図の見沼代用水西縁を下流に辿ると最後は荒川に合流すると書いた。そしてそれは途中から支流の高沼用水に移るからではないかと書いた。
明治22年埼玉県管内全図に描かれたその川を東都近郊圖に描くとこのようになると思う。

高沼新田の下流に合流する川を黄で示す。
この川の合流点付近は高沼新田の西を流れていることから高沼用水西縁だと思う。
水路を青と黄で示し、川越道を赤で示す。それらを明治の迅速測図に示すとこのようになると思う。
現在の地図で見ると黄で示した川は鴻沼川と高沼用水西縁である。

東都近郊圖に黄で示した川を上流に辿ると中山道の西にあり、中新井、戸崎、向山の東側である。
明治の迅速測図のこのあたりだと思う。
現在の地図で見る。この川は鴨川である。
迅速測図に鴨川から分岐している川を水色で示す。分岐点を現在の地図に示すとここ(赤丸)だと思う。
この川は逆川で南側が上流であり、鴨川は最下流(終点)である。
2016年09月11日ブログで触れたが、逆川を上流に辿ると、鴻沼川の上流(源流)に辿り着く。
しかし、東都近郊圖の川は阿弥陀寺村、清河寺村の横を流れているように描かれているので、逆川ではないようである。与野町に入る直前、鴻沼川に変わったように見える。
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