『明治二十二年四月改正 埼玉県管内全図』で現在のさいたま市域の北方面を見ると、瓦葺村で3本の川が分岐しているように見える。
現在の地図を見る。3本の川は右(東)から綾瀬川、見沼代用水東縁、見沼代用水西縁である。
見沼代用水は綾瀬川と立体交差して二又に分かれる。
2012年4月、私は見沼代用水東縁・西縁の分岐点を訪ねた。
東縁左岸から用水を見た。左が下流、右が上流。手前が東縁、奥が西縁。
右(上流)を見た。上流の綾瀬川の下をくぐっているので水面は見えなくなる。
水路が地下に入ったところの地上から下流を見た。

半回転して上流を見た。綾瀬川が見えた。
ここで左(綾瀬川上流)を見た。右を見た。橋が見える。
その橋を渡りながら私が歩いてきた方面を見た。
反対側を見た。レンガの構造物があった。
橋を渡ってレンガの後から対岸を見た。
このあたりを現在の空中写真で見る。
昭和22年の空中写真を見る。見沼代用水は綾瀬川の上を流れ、流路も現在とはちがう。
現在の空中写真に旧流路を真似て描くとこんな感じになると思う。
上尾市Webサイトのあげお写真館を拝見すると、瓦葺の掛樋(かけどい)が案内されている。
レンガ製の橋脚台に架けられた掛樋は明治41年製ということであるから、明治22年の埼玉県管内全図が製作された時代はこの掛樋ではないはずである。
平成20年さいたま竜神まつり会発行『見沼と竜神ものがたり』に掲載されている瓦葺の「掛渡井」挿絵。
明治41年製掛樋が架けられる前の流路は黄色のようだったと思う。そうであれば現在の流路と同じであるが、綾瀬川の上か下かの違いである。
明治22年の埼玉県管内全図に描かれた3本の川のうち、見沼代用水西縁を下流に辿っていく。
最後(赤丸)は新開を通って上内間木の荒川に合流している。
ここは現在地図のこのあたりになると思う。見沼代用水西縁の下流ではない。
明治22年の埼玉県管内全図に描かれた見沼代用水西縁は北袋のあたりから西に進路変更して鉄道を越える。
ところが、見沼代用水西縁は北袋を基本的には北から南へ流れている。
西に進路変更するのは支流の高沼用水路である。
中山道から分岐した川越道(赤)と高沼用水路(青)が交差するところには現在橋戸橋が架かっている。
2016年08月25日ブログで橋戸橋の上から上流を見た。下流を見た。
現在の地図を見る。3本の川は右(東)から綾瀬川、見沼代用水東縁、見沼代用水西縁である。
見沼代用水は綾瀬川と立体交差して二又に分かれる。
2012年4月、私は見沼代用水東縁・西縁の分岐点を訪ねた。
東縁左岸から用水を見た。左が下流、右が上流。手前が東縁、奥が西縁。
右(上流)を見た。上流の綾瀬川の下をくぐっているので水面は見えなくなる。
水路が地下に入ったところの地上から下流を見た。

半回転して上流を見た。綾瀬川が見えた。
ここで左(綾瀬川上流)を見た。右を見た。橋が見える。
その橋を渡りながら私が歩いてきた方面を見た。
反対側を見た。レンガの構造物があった。
橋を渡ってレンガの後から対岸を見た。
このあたりを現在の空中写真で見る。
昭和22年の空中写真を見る。見沼代用水は綾瀬川の上を流れ、流路も現在とはちがう。
現在の空中写真に旧流路を真似て描くとこんな感じになると思う。
上尾市Webサイトのあげお写真館を拝見すると、瓦葺の掛樋(かけどい)が案内されている。
レンガ製の橋脚台に架けられた掛樋は明治41年製ということであるから、明治22年の埼玉県管内全図が製作された時代はこの掛樋ではないはずである。
平成20年さいたま竜神まつり会発行『見沼と竜神ものがたり』に掲載されている瓦葺の「掛渡井」挿絵。
明治41年製掛樋が架けられる前の流路は黄色のようだったと思う。そうであれば現在の流路と同じであるが、綾瀬川の上か下かの違いである。
明治22年の埼玉県管内全図に描かれた3本の川のうち、見沼代用水西縁を下流に辿っていく。
最後(赤丸)は新開を通って上内間木の荒川に合流している。
ここは現在地図のこのあたりになると思う。見沼代用水西縁の下流ではない。
明治22年の埼玉県管内全図に描かれた見沼代用水西縁は北袋のあたりから西に進路変更して鉄道を越える。
ところが、見沼代用水西縁は北袋を基本的には北から南へ流れている。
西に進路変更するのは支流の高沼用水路である。
中山道から分岐した川越道(赤)と高沼用水路(青)が交差するところには現在橋戸橋が架かっている。
2016年08月25日ブログで橋戸橋の上から上流を見た。下流を見た。
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