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咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

上尾駅付近を昔の地図でみる

2016年03月12日 | 日記
2016年03月04日ブログで私は延享二年(1745)建立の庚申塔を見た。
その日私は赤矢印のように歩いたが、庚申塔は赤丸の交差点にあった。
延享二年は伊能忠敬が生まれた年であるが、庚申塔は中山道沿いにあり、伊能忠敬はこの庚申塔の前を歩いていると思われる。
InoPediaサイトDataBaseサービス伊能測量概要の測量日記一覧を見ると、第3次測量では享和2年(1802)10月、宿泊地が熊谷宿、桶川宿、蕨宿と進んでいることから、中山道上尾宿を通過して行ったものと思われる。
また、第4次測量でも享和3年(1803)10月、熊谷宿に宿泊した翌日、桶川宿で中食をとり浦和宿に宿泊していることから中山道を歩いたのではないかと思う。

大日本沿海輿地全図はウィキペディアに、“ 江戸時代後期の測量家伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図である。「伊能図(いのうず)」とも称される。完成は文政4年(1821年)。” と記述されている。
大日本沿海輿地全図で桶川~大宮間を見る。中山道と思われる道が描かれているがその道を赤太線で強調する。
現在の地図に埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線(旧中山道)を赤太線で強調する

伊能図には上尾、柏座村などに御料所と書かれたところがある。ウィキペディア御料所によれば、天皇(皇室)及び幕府などのいわゆる「公儀」と称される公権力が直接支配した土地(直轄地)である。

現在地図の上尾駅付近を明治14年の迅速測図で見る。
迅速測図に赤で示したところを現在地図に示すとこのようになると思う。
延享二年建立の庚申塔はここ(黄丸)だと思う。

明治38年出版『埼玉県地理案内』の上尾町略図を見る。
上尾駅の北に中山道から西に延びる大石村道がある。
迅速測図で上尾宿の西に位置する村名を黄で囲む。谷津村、弁財村、今泉村、小泉村、小敷屋村、中分村、領家村 の村名がある。大石村はない。

ウィキペディア大石村の歴史には、“ 1889年4月1日 - 町村制施行に伴い、藤波村・中分村・畔吉村・小敷谷村・小泉村・石戸領領家村(以上石戸領)・沖ノ上村・弁財村・中妻村・井戸木村(以上大谷領)が合併し、大石村となる。名称は石戸領と大谷領の頭文字をとって大石村とした。” との記述がある。
1889年は明治22年だから、明治14年の迅速測図には載ってない訳である。
迅速測図の小敷屋村は小敷谷村、領家村は石戸領領家村であるとすれば、紫で囲んだ村が大石村になった。
なお、明治22年町村制施行に伴い谷津村は上尾町に、今泉村は大谷村にそれぞれ合併してなった。
昭和4年頃の地図に表示の大石村と大谷村。

さて中山道から西に延びる大石村道であるが、遍照院への道の北に位置することから、この道(赤)ではないかと思う。
現在のこの部分(赤)が当時の大石村道を残しているのかも知れない。
2016年03月04日ブログで私は中山道からその道(線路方面)を見た
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