平成20年埼玉新聞社発行埼玉県立文書館編『古地図を楽しむ』に <教育の実情を映し出す小学校位置図> というページがある。
掲載されている小学校位置図とその部分拡大。この絵図は明治32年(1899)の木崎村における小学校の位置を示している。
小学校位置図の右端に北足立郡木崎村大字略図とある。
ウィキペディア木崎村(埼玉県)には、“ 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に平行して上木崎、下木崎、駒場、瀬ヶ崎、針ヶ谷、本太、北袋、木崎領領家の8箇村が合併し、成立 ” と記述されている。
木崎村大字略図で旧8箇村の位置を見る。
小学校位置図には三つの小学校(木本小学校・木崎小学校・浦和小学校)の位置が示されている。
木崎村と浦和町の境界線の一部を紫で示す。
小学校位置図右端には「北足立郡木崎村大字略図」に続いて
「木本小学校より木崎小学校迄25丁乃至30丁」
「木本小学校より浦和小学校迄2丁乃至5丁」と記されている。
『古地図を楽しむ』によれば、この当時は一町村一学区で、木崎村も一つの学区を形成していた。木崎村には南部に木本尋常小学校(現仲本小学校)、中央北寄りに木崎尋常小学校が設置されていた。絵図右下には、学区の異なる浦和尋常小学校が描かれており、絵図とともに埼玉県に提出された書類によると、同年から木崎村南部地域の児童を、浦和尋常小学校へ越境通学させることになった。
越境通学となった理由の第一は距離で、遠いところでは、木崎尋常小学校まで約30丁(約3.3Km)もあった。また田畑が多く通学路の地質が悪いため、雨天では膝下までのぬかるみになった。
第二は村費が嵩み2校を完全に維持することが困難な状況で、教育費の減額を余儀なくされていた。
木崎村南部の大字本太のうち、前地・宮口・向原の3小字は、隣町の浦和尋常小学校に1、2丁の近接地であったため、木本尋常小学校を廃校とし、浦和尋常小学校へ「委託授業」という形で通学させることになった。
浦和町と木崎村との間で契約書が交わされ、両町村長の連名で埼玉県に申請がなされた。
大字本太の3小字(前地・宮口・向原)を小学校位置図で見る。
『古地図を楽しむ』には “ この三小字から浦和尋常小学校までは近距離であったほか、「浦和草加間の公益道」を利用するため、通学の便が良かったのである ” との記述がある。
「浦和草加間の公益道」とはどの道のことだろうか。
明治13年の地図で見る。
小学校位置図に赤で示した道は明治13年地図のこの道だと思う。
大正4年出版『浦和案内』所載の浦和町全図を見ると、停車場の下(南)に鳩ヶ谷草加道というのがある。
先ほどの小学校位置図に赤で示した道は浦和町全図のこの道だと思う。
浦和小学校はここだと思う。
「浦和草加間の公益道」というのは中山道から浦和小学校沿い北を東に延びる道ではないかと思う。
『浦和案内』は道路についてこのように案内されている。その中の県道で “ 鳩ヶ谷、草加を経て千葉県流山へ通ずるもの ” というのが「浦和草加間の公益道」のことだと思う。
『古地図を楽しむ』には “ その他の地域は、従来通り木崎尋常小学校に通学することとされた。これは、遠距離ではあったが、三小字のような通学上の問題はないと判断されたためである ” との記述がある。
私は寺前・寺後の2小字(青丸)が浦和尋常小学校への通学に何故含まれないのか疑問に思うのである。
小学校位置図の木本小学校・木崎小学校・浦和小学校の場所は現在の仲本小学校・木崎小学校・高砂小学校の場所だと思う。
平成2年発行『浦和市史通史編Ⅲ』所載の明治22年町村制施行に伴う「新学区と町村名及び学校一覧」を見る。
一町村一学区となっている。木崎村(第26学区)の場合は明治25年から明治32年まで一村二校方式をとっていた。
木本小学校という校名は「木崎村大字本太」からとったのではないかと私は思う。
掲載されている小学校位置図とその部分拡大。この絵図は明治32年(1899)の木崎村における小学校の位置を示している。
小学校位置図の右端に北足立郡木崎村大字略図とある。
ウィキペディア木崎村(埼玉県)には、“ 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に平行して上木崎、下木崎、駒場、瀬ヶ崎、針ヶ谷、本太、北袋、木崎領領家の8箇村が合併し、成立 ” と記述されている。
木崎村大字略図で旧8箇村の位置を見る。
小学校位置図には三つの小学校(木本小学校・木崎小学校・浦和小学校)の位置が示されている。
木崎村と浦和町の境界線の一部を紫で示す。
小学校位置図右端には「北足立郡木崎村大字略図」に続いて
「木本小学校より木崎小学校迄25丁乃至30丁」
「木本小学校より浦和小学校迄2丁乃至5丁」と記されている。
『古地図を楽しむ』によれば、この当時は一町村一学区で、木崎村も一つの学区を形成していた。木崎村には南部に木本尋常小学校(現仲本小学校)、中央北寄りに木崎尋常小学校が設置されていた。絵図右下には、学区の異なる浦和尋常小学校が描かれており、絵図とともに埼玉県に提出された書類によると、同年から木崎村南部地域の児童を、浦和尋常小学校へ越境通学させることになった。
越境通学となった理由の第一は距離で、遠いところでは、木崎尋常小学校まで約30丁(約3.3Km)もあった。また田畑が多く通学路の地質が悪いため、雨天では膝下までのぬかるみになった。
第二は村費が嵩み2校を完全に維持することが困難な状況で、教育費の減額を余儀なくされていた。
木崎村南部の大字本太のうち、前地・宮口・向原の3小字は、隣町の浦和尋常小学校に1、2丁の近接地であったため、木本尋常小学校を廃校とし、浦和尋常小学校へ「委託授業」という形で通学させることになった。
浦和町と木崎村との間で契約書が交わされ、両町村長の連名で埼玉県に申請がなされた。
大字本太の3小字(前地・宮口・向原)を小学校位置図で見る。
『古地図を楽しむ』には “ この三小字から浦和尋常小学校までは近距離であったほか、「浦和草加間の公益道」を利用するため、通学の便が良かったのである ” との記述がある。
「浦和草加間の公益道」とはどの道のことだろうか。
明治13年の地図で見る。
小学校位置図に赤で示した道は明治13年地図のこの道だと思う。
大正4年出版『浦和案内』所載の浦和町全図を見ると、停車場の下(南)に鳩ヶ谷草加道というのがある。
先ほどの小学校位置図に赤で示した道は浦和町全図のこの道だと思う。
浦和小学校はここだと思う。
「浦和草加間の公益道」というのは中山道から浦和小学校沿い北を東に延びる道ではないかと思う。
『浦和案内』は道路についてこのように案内されている。その中の県道で “ 鳩ヶ谷、草加を経て千葉県流山へ通ずるもの ” というのが「浦和草加間の公益道」のことだと思う。
『古地図を楽しむ』には “ その他の地域は、従来通り木崎尋常小学校に通学することとされた。これは、遠距離ではあったが、三小字のような通学上の問題はないと判断されたためである ” との記述がある。
私は寺前・寺後の2小字(青丸)が浦和尋常小学校への通学に何故含まれないのか疑問に思うのである。
小学校位置図の木本小学校・木崎小学校・浦和小学校の場所は現在の仲本小学校・木崎小学校・高砂小学校の場所だと思う。
平成2年発行『浦和市史通史編Ⅲ』所載の明治22年町村制施行に伴う「新学区と町村名及び学校一覧」を見る。
一町村一学区となっている。木崎村(第26学区)の場合は明治25年から明治32年まで一村二校方式をとっていた。
木本小学校という校名は「木崎村大字本太」からとったのではないかと私は思う。