2019年03月29日ブログはこのような道筋を綴った。
城址公園の緑矢印の突き当たりに岩槻城跡の案内板があった。
そこの江戸時代の絵図を見る。絵図にある田中橋、新曲輪橋、知楽院、弥勒寺、浄国寺、愛宕神社を直線で結ぶ。
現在の地図(ヤフー)でその場所を直線で結ぶとこのようになった。
江戸時代の絵図は測量に基づいて作成されたものではないと思う。
絵図には位置関係がわかるように現在の建物も表示されているのだか、その場合、昔からある寺社とか道路があればわかりやすいと思うのだが、そういうものがないと、江戸時代の絵図に現在の建物の位置を特定するのは難しい作業だと思われる。
2019年03月29日ブログでは別の場所でもこの絵図を見た。中央公民館、温水プール、消防分署が表示されているのだが、この場所は先ほど絵図に田中橋と新曲輪橋を結んだ線上に概ね位置している。
ところが現在の地図では中央公民館、温水プール、消防分署はその線上から外れ、赤丸のあたりになる。
大正6年の岩槻市街図を見ると明治に開通した岩槻新道(現在の県道2号)が描かれている。
大正6年の赤で示した道は現在のこの道(赤)と概ね重なると思う。
両端を直線で結ぶと県道2号と交差するところは消防署である。
大正6年の地図で両端を直線で結ぶと岩槻新道と交差するところは三差路である。
現在のこの交差点になっているのかも知れない。
緑矢印の突き当たりの案内板の上の案内図を見る。
赤矢印のところが案内板で、先日私はそこから右に進み、反時計回りに斜面を下りて菖蒲池を見た。
岩槻城の沼の青矢印のあたりになるのではないかと思う。
案内板のところから右へ向かうと菖蒲池で左へ向かうと城址公民館である。
左折し、さいたま市立岩槻城址公民館を見に行く。
ここから右に進んで建物の南側を見る。
北へ向かう。
右を見る。
玄関を見る。

西に進んで振り返る。アップする。
もとの道にもどる。
城址公園を歩いていて昭和63年10月3日実施住居表示街区案内図を見た。
市立生涯学習センターが現在の城址公民館だと思う。
昭和55年の地図を見ると青年の家となっている。
岩槻市主要年表を見ると、昭和38年県立青年の家が岩槻公園内に完成する というのがあり、昭和62年県立岩槻青年の家を改修し、生涯学習センターが開所する というのがある。
彩の国デジタルアーカイブの特別配信に昭和43年(1968)埼玉県報道文化課企画製作「埼玉ニュースNo.147 青少年をすこやかに(1)」というのがあり、その映像の中に埼玉県立岩槻青年の家の建物シーンがある。
現在のさいたま市立岩槻城址公民館はこの建物だと思う。
城址公園の緑矢印の突き当たりに岩槻城跡の案内板があった。
そこの江戸時代の絵図を見る。絵図にある田中橋、新曲輪橋、知楽院、弥勒寺、浄国寺、愛宕神社を直線で結ぶ。
現在の地図(ヤフー)でその場所を直線で結ぶとこのようになった。
江戸時代の絵図は測量に基づいて作成されたものではないと思う。
絵図には位置関係がわかるように現在の建物も表示されているのだか、その場合、昔からある寺社とか道路があればわかりやすいと思うのだが、そういうものがないと、江戸時代の絵図に現在の建物の位置を特定するのは難しい作業だと思われる。
2019年03月29日ブログでは別の場所でもこの絵図を見た。中央公民館、温水プール、消防分署が表示されているのだが、この場所は先ほど絵図に田中橋と新曲輪橋を結んだ線上に概ね位置している。
ところが現在の地図では中央公民館、温水プール、消防分署はその線上から外れ、赤丸のあたりになる。
大正6年の岩槻市街図を見ると明治に開通した岩槻新道(現在の県道2号)が描かれている。
大正6年の赤で示した道は現在のこの道(赤)と概ね重なると思う。
両端を直線で結ぶと県道2号と交差するところは消防署である。
大正6年の地図で両端を直線で結ぶと岩槻新道と交差するところは三差路である。
現在のこの交差点になっているのかも知れない。
緑矢印の突き当たりの案内板の上の案内図を見る。
赤矢印のところが案内板で、先日私はそこから右に進み、反時計回りに斜面を下りて菖蒲池を見た。
岩槻城の沼の青矢印のあたりになるのではないかと思う。
案内板のところから右へ向かうと菖蒲池で左へ向かうと城址公民館である。
左折し、さいたま市立岩槻城址公民館を見に行く。
ここから右に進んで建物の南側を見る。
北へ向かう。
右を見る。
玄関を見る。

西に進んで振り返る。アップする。
もとの道にもどる。
城址公園を歩いていて昭和63年10月3日実施住居表示街区案内図を見た。
市立生涯学習センターが現在の城址公民館だと思う。
昭和55年の地図を見ると青年の家となっている。
岩槻市主要年表を見ると、昭和38年県立青年の家が岩槻公園内に完成する というのがあり、昭和62年県立岩槻青年の家を改修し、生涯学習センターが開所する というのがある。
彩の国デジタルアーカイブの特別配信に昭和43年(1968)埼玉県報道文化課企画製作「埼玉ニュースNo.147 青少年をすこやかに(1)」というのがあり、その映像の中に埼玉県立岩槻青年の家の建物シーンがある。
現在のさいたま市立岩槻城址公民館はこの建物だと思う。
岩槻在住で城址公民館でボランティアをやっております。
城址公民館はご推察のとおり、旧岩槻市立生涯学習センター、その前は県立岩槻青年の家でした。岩槻区に5つある公民館の中で唯一変わった経歴を持つ建物です。
ここ数年の間に他の公民館は大規模改修されてきれいになったのですが、なぜか城址公民館は大規模改修されないままです。
中に入ると昔のまま使っているのでノスタルジックな感じです。
公民館とは関係ないですが、記事中に出てくる大正6年の市街図、工事中の武州鉄道(昭和11年廃線)が載っていますね。渋江の交差点から幸手方面へ向かう御成街道と並行して「武州鉄道の小路」という道路があります。
御成街道を進んでベルクの手前で東武野田線と立体交差しています。これは、武州鉄道と東武線が交差するために作られたものです。
ご教示ありがとうございます。
さいたま市立岩槻城址公民館は新築当時の外観を残していると思うのですが、安全面が保たれるのであれば長く使用するのがよろしいかと思います。