朝日新聞DIGITAL東北新幹線開業30年の写真の中に「戦後の雰囲気が残る大宮駅周辺=1982年6月」がある。1982年は昭和57年。この写真はどこから撮影したものだろうか?
同じ時期の昭和57年6月15日の写真を見る。駅ビルが写っているがウィキペディア大宮駅によれば、昭和57年6月19日大宮ステーションビルの新館としてWe(現・ルミネ2)が開業する。
左の木造家屋の右側(駅方面)には建物が見えないことから、木造家屋はここ(赤矢印)ではないかと思う。
撮影年は不明だが、少し前の写真を見る。
①②③④の建物は昭和57年の①②③④だと思う。先ほどの木造家屋は④ということになる。
We(現・ルミネ2)開業11ヶ月後の昭和58年5月6日の写真を見る。
木造家屋④は残っているようである。
その後と思われる写真に先ほどの建物番号を付けるとこのようになると思う。
昭和54年の空中写真を見る。建物番号はこのようになると思う。
昭和57年の写真を見る。④の建物はここ(矢印)だと思う。
昭和59年の空中写真ではここ(矢印)になると思う。
近くに歩行者デッキの階段があり、赤で示す。
先ほどの写真にも階段が見えており、赤で示す。
ヤフー地図の空中写真に階段を赤で示す。
グーグルアース3Dに階段を赤で示す。
昭和60年頃の写真を見る。右に階段が見えている。
ここ(矢印)は武蔵野銀行さんだと思う。ソニックシティビルの工事はまだ始まっていないように見える。
先ほど昭和58年5月の写真で見た方向をグーグルアース3Dで見る。
木造家屋はこのあたり(矢印)にあったのではないかと思う。
同じ時期の昭和57年6月15日の写真を見る。駅ビルが写っているがウィキペディア大宮駅によれば、昭和57年6月19日大宮ステーションビルの新館としてWe(現・ルミネ2)が開業する。
左の木造家屋の右側(駅方面)には建物が見えないことから、木造家屋はここ(赤矢印)ではないかと思う。
撮影年は不明だが、少し前の写真を見る。
①②③④の建物は昭和57年の①②③④だと思う。先ほどの木造家屋は④ということになる。
We(現・ルミネ2)開業11ヶ月後の昭和58年5月6日の写真を見る。
木造家屋④は残っているようである。
その後と思われる写真に先ほどの建物番号を付けるとこのようになると思う。
昭和54年の空中写真を見る。建物番号はこのようになると思う。
昭和57年の写真を見る。④の建物はここ(矢印)だと思う。
昭和59年の空中写真ではここ(矢印)になると思う。
近くに歩行者デッキの階段があり、赤で示す。
先ほどの写真にも階段が見えており、赤で示す。
ヤフー地図の空中写真に階段を赤で示す。
グーグルアース3Dに階段を赤で示す。
昭和60年頃の写真を見る。右に階段が見えている。
ここ(矢印)は武蔵野銀行さんだと思う。ソニックシティビルの工事はまだ始まっていないように見える。
先ほど昭和58年5月の写真で見た方向をグーグルアース3Dで見る。
木造家屋はこのあたり(矢印)にあったのではないかと思う。
私は1981年の夏休みの終わりが近づいてきた頃に、住み慣れた武州・大宮の地から神奈川県下へ泣く泣く引っ越しを余儀なくされましたが、引っ越しして翌年になると新幹線開業を控えた大宮の話題が、様々なメディアを通して大きく取り上げられる様になり、以来88年のソニックが出来上がり、その年の秋にNHK総合テレビ『首都圏88』というローカルトピック番組で、「ダサイタマ返上・大宮が生まれ変わった」を視るなり、大宮のJR西口の変貌ぶりに対し、とても羨しく感じたのを覚えてます。
翌89年に私は首都圏を飛び出し、かねてより憧れてた関西へ移ったものの、いつだったか上方・大阪は梅田の地下道にて、たまたま見かけたフジタさんの広告で、フジタさんが手掛けたソニックの全貌を見るなり、異郷の地にて武州・大宮を見てしまった私は、大宮の変貌ゆえ、「イイな、イイな、大宮が羨ましい」と感じたのを覚えてます。
以上をもちまして、私はこの辺にて失礼します。
ふるさとを離れて40年以上経過し、私の記憶からふるさとは薄らいでいますが、テレビの旅番組などでふるさとが映ったりすると、すごくなつかしいです。
ふるさとを想う気持ちは誰でもが持っているのだと思います。