2017年08月19日ブログ私は埼玉県立浦和図書館跡地の前で浦和一女発祥の地記念碑を見た。
また、すぐそばの階段のところで埼玉県立浦和図書館の記憶を見た。
左下に埼玉県立浦和図書館の歩み(年表)が載っていた。これによれば県立浦和図書館の始まりは大正11年10月の県教育会立埼玉図書館で、場所は北足立郡役所敷地内だった。
大正13年北足立郡役所発行『北足立郡誌』所載の北足立郡役所庁舎と敷地建物平面図。この建物は大正11年3月10日竣功した。図書館が敷地内のどこに開設されたかは不明である。
浦和図書館の前身は、明治11年に建てられた埼玉県師範学校の校舎にさかのぼるとある。
埼玉県師範学校といえば、「埼玉県師範学校 埼玉県医学校 発祥之地」という石碑が旧中山道沿い東和銀行浦和支店さんの前にある。
平成4年浦和市発行『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』には “ 明治6年に浦和宿本陣内に小学校教員養成のため学校改正局が設置された。同7年には岸村に新校舎を造り埼玉県師範学校と改称。翌8年校舎内に県立中学校が新設され更に明治9年県立医学校が設置された。医学校は明治9年10月13日、現在の岸町5丁目のコミュニティセンターのところに新校舎を建てて移り、明治11年師範学校は現在の高砂3丁目の埼玉会館のところに移った。医学校は明治12年8月、わずか4年で廃校となった。” と案内されている。
『目でみる埼玉百年』所載の明治7年に開設された師範学校。
明治13年測量の地図を見ると、師範学校と中学校が表示されている。中学校は「発祥之地」の校舎内に明治8年新設された県立中学校だと思う。
明治11年建築の師範学校について『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』には “ 明治天皇が北陸巡幸の際に同校舎を行在所とされた。太政大臣三条実美が、この校舎が鳳凰が翼をひろげて翔び立つさまに似ているところから「鳳翔閣」と名付けたと伝える由緒ある建物である。(中略)なお、「鳳翔閣」の一部は、三室にある市立郷土博物館の建物に再現されている。” と案内されている。
ウィキペディア埼玉師範学校によれば、師範学校は明治34年(1901)4月浦和町鯛ヶ窪(現・さいたま市役所所在地)に校舎新築、移転した。そして鳳翔閣は同年発足の埼玉県女子師範学校・埼玉県高等女学校に引き継がれた。
大正元年11月埼玉県発行『埼玉県写真帖』の行在所記念-女子師範学校を見る。
大正3年の地図を見ると、行在所記念-女子師範学校の写真は表門通から撮ったのではないかと思う。
県立浦和図書館跡地の前に行在所記念之碑が建っている。先ほどの写真のこの石碑(黄矢印)ではないかと思う。そうであれば、「行在所記念之碑」の7字は徳大寺実則公の書を刻んだものである。
『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 浦和』所載の昭和3年埼玉県立図書館の写真を見る。
鳳翔閣は後方に移動されている。石碑も移動されている。
明治天皇浦和行在所御座所の写真を見る。2階の左側の部屋が御座所として使われたところで、そのまま保存されてきたと解説されている。玄関を入って2階の左側の部屋ということであれば、ここ(黄)ではないかと思う。
『図説 浦和のあゆみ』所載の鳳翔閣復興市立郷土博物館。
2012年8月の写真。
また、すぐそばの階段のところで埼玉県立浦和図書館の記憶を見た。
左下に埼玉県立浦和図書館の歩み(年表)が載っていた。これによれば県立浦和図書館の始まりは大正11年10月の県教育会立埼玉図書館で、場所は北足立郡役所敷地内だった。
大正13年北足立郡役所発行『北足立郡誌』所載の北足立郡役所庁舎と敷地建物平面図。この建物は大正11年3月10日竣功した。図書館が敷地内のどこに開設されたかは不明である。
浦和図書館の前身は、明治11年に建てられた埼玉県師範学校の校舎にさかのぼるとある。
埼玉県師範学校といえば、「埼玉県師範学校 埼玉県医学校 発祥之地」という石碑が旧中山道沿い東和銀行浦和支店さんの前にある。
平成4年浦和市発行『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』には “ 明治6年に浦和宿本陣内に小学校教員養成のため学校改正局が設置された。同7年には岸村に新校舎を造り埼玉県師範学校と改称。翌8年校舎内に県立中学校が新設され更に明治9年県立医学校が設置された。医学校は明治9年10月13日、現在の岸町5丁目のコミュニティセンターのところに新校舎を建てて移り、明治11年師範学校は現在の高砂3丁目の埼玉会館のところに移った。医学校は明治12年8月、わずか4年で廃校となった。” と案内されている。
『目でみる埼玉百年』所載の明治7年に開設された師範学校。
明治13年測量の地図を見ると、師範学校と中学校が表示されている。中学校は「発祥之地」の校舎内に明治8年新設された県立中学校だと思う。
明治11年建築の師範学校について『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』には “ 明治天皇が北陸巡幸の際に同校舎を行在所とされた。太政大臣三条実美が、この校舎が鳳凰が翼をひろげて翔び立つさまに似ているところから「鳳翔閣」と名付けたと伝える由緒ある建物である。(中略)なお、「鳳翔閣」の一部は、三室にある市立郷土博物館の建物に再現されている。” と案内されている。
ウィキペディア埼玉師範学校によれば、師範学校は明治34年(1901)4月浦和町鯛ヶ窪(現・さいたま市役所所在地)に校舎新築、移転した。そして鳳翔閣は同年発足の埼玉県女子師範学校・埼玉県高等女学校に引き継がれた。
大正元年11月埼玉県発行『埼玉県写真帖』の行在所記念-女子師範学校を見る。
大正3年の地図を見ると、行在所記念-女子師範学校の写真は表門通から撮ったのではないかと思う。
県立浦和図書館跡地の前に行在所記念之碑が建っている。先ほどの写真のこの石碑(黄矢印)ではないかと思う。そうであれば、「行在所記念之碑」の7字は徳大寺実則公の書を刻んだものである。
『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 浦和』所載の昭和3年埼玉県立図書館の写真を見る。
鳳翔閣は後方に移動されている。石碑も移動されている。
明治天皇浦和行在所御座所の写真を見る。2階の左側の部屋が御座所として使われたところで、そのまま保存されてきたと解説されている。玄関を入って2階の左側の部屋ということであれば、ここ(黄)ではないかと思う。
『図説 浦和のあゆみ』所載の鳳翔閣復興市立郷土博物館。
2012年8月の写真。
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