咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

昭和初期の荒川を渡る道

2019年06月03日 | 日記
2019年04月26日ブログで私は昭和2年発行の地図「東京」を見た。
その地図でさいたま市の西を流れる荒川を青で示す
荒川を横切る道があるところを赤丸で示す。
数が多いので上流から番号を付ける。
上流を拡大して見る。番号を付ける
1は地図記号で橋が架かっていることがわかる。
2および3は橋の地図記号ではない。地図の左の符号を見ると渡舩(渡し船)である。
1から9までの地図記号を見ると、1と9が橋で、残り2~8は渡し船である。

昭和4年頃の地図で上流付近を見る。
1と2を赤丸で示す。1は川越新道の上江橋である。
明治14年の迅速測図でそのあたりを見る。
1と2の場所はここになると思う。
1の場所に橋はない。大宮市史の年表によれば “ 大宮~川越間の荒川にかかる上江橋架設 ” は明治27年(1894)12月4日である。
2の場所は川越道の千手堂ノ渡である。
1と2の場所を現在の地図に示すとこのあたりになると思う。

ウィキペディア荒川(関東)の目次から「10.2 渡船場」を見る。
1と2はここだと思う。
以下昭和2年の地図の3~9をウィキペディアの渡船場に対応させるとこのようになると思う。
ウィキペディアの渡船場には7と9の間に早瀬の渡しがある。
昭和2年の地図を拡大して8番の渡船場を赤丸で示す。
現在の地図に8番の渡船場の位置を示すと大体このあたりになると思う。
ウィキペディアの渡船場の7と9のあいだは早瀬の渡しで現在の笹目橋付近とある。
笹目橋はここにあり、8番についてはウィキペディアの渡船場に該当するところがないと思う。

大日本帝国陸地測量部作成の明治42年測量大正6年修正(東京西北部)地図でこのあたりを見る。
昭和2年の地図の7・8・9を大正6年修正の地図に示すとこのようになると思う。
8は四葉川岸とある。弘化元年の東都近郊圖には荒川の左岸に「大野」「早瀬」があり、右岸に「徳丸原」がある。新編武蔵風土記稿の豊島郡狭田(はけた)領に徳丸四葉村がある。現在東京都板橋区に「四葉」という地名がある。
ウィキペディアの渡船場の「大野の渡し」と「早瀬の渡し」はここ(緑丸)だと思う。
コメント
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