ペールギュントはサハラ砂漠にいて、はるか東方の地平線を見ている。
砂漠の朝は、思いのほか寒い。
やがて、大きな赤い太陽が静かにゆっくりと昇ってくる。
きょうもまた一日が始まる。せいいっぱい生きよう。
ペールギュント『朝』
youtube.com/watch?v=OeEotm…
貧乏でヒマがないので、半年ばかり、美術館に行っていない。
画集は一通り持っているので、次善の策であるが、それで我慢している。
絵画は、特にタブローは実物と画集では雲泥の差がある。
映画の本編と予告編ぐらい違う。
絵画をイコロジカルに文法的に観る場合にのみ画集の優位性があるだろう。
ただし、日本の美術館に行っても、不満足に終わる場合が往々にしてある。
外国からの借り物コレクションが多いので、管理が厳重でガラスケースに入っていたり、ロープが張られていたりする。
いつぞや、ロンドン大学コートールドコレクションを見に行ったときいやな思いをした。
マネの『フォリーベルジェール劇場のバー』が来ていた。
マネは黒色の得意な画家であるが、この絵は背景が鏡で、カウンターに置かれたガラス瓶などが映っていてる。透明なガラスを描くのにどんな絵の具を
どのように使っているのか見たくて、身を乗り出したら警報が大きく鳴り、警備員がとんできた。
そういう残念なことを差し引いても、実物は見たい。
画集にある絵と大きく異なるのは、当然ではあるが「大きさ」である。
ゴッホの小さな絵もゴヤの大きな絵も画集ではほぼ同じ大きさで載っている。サイズは表記されているが実感はない。
外国の知識絵本なら人間の影絵が尺度になるのが多いが。
ピカソの『アヴィニョンの娘たち』はキュビズムの原点となった有名な絵である。ニューヨークのMOMAで初めて観た時は、「うわ、こんな大きかったんや」と思った。
若かりし僕と比して、かなり大きい絵だが、画集ではこの感覚がわからない。 pic.twitter.com/hHN5iZlM3t
先のツイでイコロジカルと書いていましたが「ノ」が脱字です。
イコノロジカルです。イコノロジーはIcon学、アイコン解釈学など訳されますが適訳はないです。
西洋絵画には絵の文法がありそれを研究するのがイコノロジーでした。
元来、絵は言葉でしたから、それを解釈する文法がありました。
僕の得意な文法で言えば。
「白い百合の花」を持つ、あるいは捧げられる女は処女である。
聖母マリアが聖天使ガブリエルから「あんた、神さんの子ども、孕みましたんやで」と告げられる、いわゆる受胎告知画には必ず白い百合の花が描かれている。
一角獣と一緒にいる女も処女です。
絵の文法。
「動きがあるとすれば、左から右に動く」
モネの絵に、モネの奥さんと小さな息子がポピー畑の2か所で
描かれいるが、それは左から右へ移動したということだ。
舞台でも大抵の登場人物が下手から現れるのと軌を一にしている。
右利きの人間が多いからだろうと、僕は推測している。
@sakuranotabi
この絵の解釈は甲論乙駁があって定かではありません。
薔薇の花を蒔く女のドレスの裾は春風を受けて右へたなびいています。
ボッティチェッリが文法を誤ったかもしれません。
意図的かもです。
モネのジャポネーゼは誤りを訂正して上から塗り直されています。
絵画をイコノロジカルにあるいはアレゴリカルに観るのであれば、画集でもできる。拡大したり、X線写真を見たりして分析的に解釈できるだろう。
しかし、それは鑑賞とは言えない。
絵の鑑賞とは、実物を観て、「好きか嫌いか」でしかない。
「青の時代」のピカソは好きだが、あとは嫌いだ、とか。