goo blog サービス終了のお知らせ 

明治 大正 昭和 著作権切れ小説の公開 

魔風恋風 エンゲーヂ 悪魔の家 君よ知るや南の国 チビ君物語 河底の宝玉 紫苑の園 など

『魔風恋風』 小杉天外 (明治36年)

2011年03月03日 | 著作権切れ明治文学



小引

 明治三十六年二月起筆して、同年九月に亙り讀賣新聞に連載した小説である。
 構想の初めは専ら新描寫を試む可く苦心をしたものである。当時先輩諸家の作に不満の感を唆かされた處もあって、擱筆するに到るまで、始終世俗的刺戟から脱離し得なかったのは遺憾である。

  啓蟄や馴染の蟲ものぞかれる
                   蔘房舎天外
    昭和二十六年四月


記念會 病院 下宿 其の室 入院料 意外 子爵の養子 
畫工の家 同胞 あらそひ 魂膽 依頼心 子爵家 大決斷





記念會
 二三日前から、都下の新聞は筆を揃へて、帝國女子學院の、創立十周年祝賀會の盛大なる催しに就いて掲出てるのである。
 校長の挨拶、學監の報告、来賓の祝辞や演説、これ等は何處の會にも珍しくは無い、觀物は工芸家科學生の競技陳列品、文化學生の英語の戯曲朗読、音楽科は云ふ迄も無く洋楽の演奏、また夜に入っては、一時世評に喧しかツたので、今では美しい令嬢揃ひと云ふ事と共に、此の学校の名物に数えらるる仮装舞踏会の催しも有るとのことである。
 それから饗應は、婦人が多い所から和洋二種の献立、受持は築地ホテルと新橋の花月、互に腕を振るうて来賓二千の舌に其の巧拙を競ふ由、などと孰れも仰山の事のみなるに、今朝の新聞を見ると、若し晴天ならば、今日の女子学院の祝賀会には、畏くも皇后陛下を初め奉り、某宮、某宮の二親王殿下、某宮妃、某宮妃など打揃ひ御臨場相成る由と、巣鴨までの御順路をさへ細かに記してある。都民は皆な目を瞠った、在学生は常に千名に近く、其の基本金は五十萬圓、器械の具備した事から教授方の整頓した事、卒業生には多くの名媛を出して、最早東洋屈指の大学校ではあるが、申さば一個の私立校に陛下の行啓遊ばされることは、如何にも異例の如くに思はるるので。



 三四日打続く春日和、今日も南の風晴と云ふ天気予報は中りて、寒がりも綿入を一枚脱ぐほどの陽気である。陛下の御出門は一時、祝賀式は一時半と有るに、駒込から巣鴨に掛けて、来賓の馬車、観覧人の雑踏、午過ぎからは容易に通切れぬ程である。
 学校の正門前は、既に緑色の虹の湧きしかと思わるる大緑門、交叉したる大国旗は微風に重く揺らいで、其端は正に御者の絹帽子を誉めんばかりに垂れて居る。道は撒砂に清め、両側は巡査の警衛、着御の時刻次第に近づけば、騎馬の警吏頻りに上下して、群集の動揺は十里の長汀に春の潮の寄せては返す如くである。
 正面から七八町が間は、山の手各小学校の女生徒整列して、錦の幕を張りしにも似たるが、此の処から彼方は某伯爵邸の石垣に沿うて、道幅急に廣きだらだら坂、群集の頭の遙に黒く見渡さるる間を、一條の御通路、此方より逆行する者を禁じたれば、馬車を驅る者、人車を走らす者、宛然流に浮ぶ木の葉の如くに、女子学院の構内へと注込むのである。忽ち来賓の馬車は絶えた。最早御着あらせらるる覚ゆるぞと、群集は襟を掻合わせ固唾を呑んで、頭の者を取るやら、姿勢を正すやら…。
 「こらこら、何処へ通るのか?」
 一台の腕車が駈けて来ると、一人の巡査は敏捷くも梶棒を押へた。
 「へ、染井へ参りますんで…。」車夫は一も二も無く恐入った、車上の男は、果して女子学院への来賓では無かった。
 「今此処を通っちゃ可かん。」と、巡査は大声に叱った。
 車夫はへどもどして、幾度か首を下げて、直ぐ樣群集の中へ腕車を曳入れようとした。
 「こら、お前も降りなきゃ可かん。」また一人の巡査は、其の車上の男を叱った。
 髭の長い二重鳶の其の男は、見掛けに依らず、慌てて腕車を降りるや否や、ぴょこぴょこ叩頭したが、その機に黒の山高帽をぽこんと地面に落した、両側からどッと笑声が起こった。
 「こら!」と巡査はまた其の声を制した。
 男は赤くなッて密々と群集の中に消えた。
 すると、此の時しも坂の曲角に立つ人々の眼は、皆一様に輝いて下の方に向いた。此方に立つ群集も、そりゃ御出でだと首を伸し、人の背後なるは足を爪立てた。
 鈴の音高く、現れたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして、白リボン清く、着物は矢絣の風通、袖長けれど風に靡いて、色美しく品高き十八九の令嬢である。
 両側に列ぶ幾千の目は、只だ此の自転車を逐うて輝くのであるが、娘は学校にのみ心急ぐか、夫とも群集の前を羞かしいのか、仕切りにペダルを強く踏んで、坂を登れば一直線に、傍目も振らず正門を指して駈付けんすると、今しも腕車を曳込んだ雑踏の間から、向こう側に移らんとしたらしく、二人の書生が不意に躍出した。
 曲角の出合頭、互に避くる暇もない、後なる書生に自転車が衝突ったと思ふ間も無く、令嬢の體は横樣に八九尺も彼方に投げられ、書生は仰向きに其処に倒れたのである。


病院



 一

 大学病院の外科病室の長廊下で、両方から行逢った若い二人の看護婦は、互ににっこりして、懐かし相に窓際に立止った。
 「ちょいと、貴女の患者さん大変な別嬪さんだツてぢや有りませんか。あんまり評判が好いから、私、一寸見に行く処なのよ。」
 「えゝ、別嬪さんよ、貴女その新聞御覧なすツて?」
 「新聞に出てるの?何新聞?」
 「何ですか、二の側で其様な評判でしたから…。あの、女子学院の生徒で、大変に英語の優る女(ひと)ですツて。ですからね、昨日なんかも、皇后陛下の御前に出てね、何か英語のお話を御覧に入れる予定でしたッて…。」
 「そう、其様なに優るの?だッて、未だ十五六にきや成ら無いってぢやありませんか。」
 「いゝえ、十九よ、私、入院證を、見ましたもの、千葉県香取郡佐原町平民、学生、萩原初野…。」
 「あら、田舎の女(ひと)?ま然(そ)う。私はまた、華族とか高等官とか、紳士の令嬢と許(ばか)し思ってたら…。田舎の女(ひと)なら、何程別嬪さんでも知れてるわ。」
 「いゝえ、でもそれは別嬪よ。全く別嬪さんよ、目の大きいね、鼻の高い、色なんぞは、宛然(まるで)透通る様なのよ。彼様(あんな)に苦痛んで居て彼様(そんな)なんだから、平常はまァ、何様なだらうと思ふ位よ。」
 「そう、其様なに?」
 「貴女に見せたら、必然ぽーツとなツ了(ちま)ふわ。」
 「見たいわねえ。」
 「来らツしゃいな、見せて上げるから。」
 「貴女の附いてらツしゃる時で無きや可笑しいわ…、一緒になんか入ってツちゃア。今は何してるの、お眠(よ)ってゝ?」
 「正午(ひる)頃からやツと眠ったの。今朝までの、其の悩み方ったら無いのよ。熱が上がってね、もう、譫語(うはごと)ばかし云ってるのよ。」
 「可哀相にねえ、腕を折ったんだツてぢやありませんか。」
 「え、上膊骨の外科頸…。」
 「余程酷く落ちたんだわねえ、自転車も怖いわねえ、好くまア、顔を怪我しなかツたこと。」
 「矢張(やっぱ)し、顔を怪我しまいと思って、そら、夢中になツて、手を突いたんでせう。」
 「だけど、自転車へ乗るなんて、余程お転婆さんねえ。」
 「いゝえ、夫は、余程確乎(しっかり)した気性の女(ひと)よ、彼様に苦しがツてゝね、医師(せんせい)に聞かれると、判然(はっきり)答へるんですもの…。夫に、其の譫語(うはごと)がね、それは感心な事を云ふのよ。」
 「何様(どん)な事を?情夫(をとこ)の事でも云やしなくツて?」
 「いゝえ、此(これ)ん許(ばか)しも…。何でも、妹か何かでせう、波ちゃん波ちゃんてね、種々(いろん)な事を云って、何でも諭して聴かせる処でせうよ…最う少し辛抱して居てお呉れの、それから、本を読む許しが学問ぢやない、苦しい境遇に居って、心を清く持つのが一番の学問ですツて…、夫は、本当に感心な事許し云ふのよ。」
 「でも、其様なに譫語を云ふなら、一言位男の事も出さうなもんぢやありませんか。それを聴き度いわねえ。」
 「始まツたよ。ほゝゝゝゝ。」
 「然う云ふ容貌(きりやう)なら、誰も打棄(うツちや)っとく筈は無いんだもの…。ぢやア、全くの処女(バアジン)か知ら?十九にも成って、感心だわねえ。」
 「処女(バアジン)は最う処女に違ひ無いけどね、爰(こゝ)に一つ解せない事はね、始終、病状を覗に来る男が一人在るのよ。」
 「へえ、何様な男?」
 「何ですよ、其様な仰山な顔を顔をして、ほゝゝゝゝゝ。」
 「でも何様な男?学生?」
 「え、法科の制服を着て居る人よ。」
 「大学の?まア、何様な人?何て云ふの?」
 「何て云ふか知らないけど、男らしい、立派な学生さんよ。昨日もね、入院する時一緒に附いて来たし、今日も、今朝から最う、三度も覗に来たのよ。」
 「へえ、怪(をか)しいわねえ。」
 「だから、誰の鑑定も、何か関係の有る男(ひと)に違いないツて云ふのよ。」
 「私もそう思ふわ。」
 「だけれど、見た所では、何もそう云ふ様子も無いのよ。」
 「ぢや何なの?同胞(きゃうだい)?」
 「然うねえ、同胞にしては似て居ないし。」
 「ぢや許嫁男(いひなづけ)?でなきゃ従兄妹?」
 「然うねえ。」
 「だツて、大体挙動(やうす)でも解るぢやありませんか。まア、談話(はなし)の様子は何様なゝの?其の、口の利きツ振がさ?」
 「それが、一度も未だ談話を交(し)ないのよ。だって、昨日は其の通り人事不省でせう、今日も、来るには来たけれども、彼様なに苦痛んで居て、傍に誰が居るか判らない位ですもの、談話を交ようたツて、交る暇なんか有りアしないわ。」
 「その談話を聞けば、必然(きツと)判るんだけれどねえ。」
 「私もそう思って気を付けてるけれど…それにね、それに可笑しいのよ、先刻(さツき)もね、学校の女教師(せんせい)とか云ふ女(ひと)の来て居る時にね、また覗に来てね、人が居るもんだから、体裁(きまり)悪さうにしてね、そして、私を呼出して病態を訊くのよ。」
 「夫じゃ愈よ怪しいわ、同胞とか従兄妹とか云ふなら、何も、他人(ひと)が居たから入(はひ)れ無いツて法は無いでせう、可笑しいわ、可笑しいに極ってるわ。でなきゃ…。」
 と声の高くなるのを一人は袖を引いて、
 「一寸々々、背後(うしろ)を御覧なさいよ。背後を…」小声で注意する。
 振返れば、玄関まで人目に眺めらるゝ長廊下を、十六七とも見える美しい令嬢が、海老茶の袴の裾より見事な靴下補足、繊細(きゃしゃ)な手にはしツとりした袱紗包、病室の番号札を読みながら此方に歩み来るのである。二人の看護婦は言葉も無く、其の令嬢の通り過ぐるを眺めたが、
 「まア、美(い)い容貌(きりやう)ねえ!」と小声に目を光らす。
 「服装(なり)が莫大(たいし)た服装ぢやありませんか。それに彼の指輪…。何でせう、ダイヤか知ら?」
 「何様な処の令嬢でせう、何でも、余程良い処のだわねえ、美い姿だこと…。」
 「いゝえ、萩原様(はぎはらさん)の方は、彼(あれ)よりかまだまだ、ずうツと優(うへ)よ。」
 「彼女(あれ)より?」
 「えゝ、優ですとも、色だって白いし、もツと艶々して、第一、彼様なに痩せてやしないわ…。おや、私の室へ入ってよ。」  「必然(きっと)、萩原様のお友達でせう。」
 「未だお眠(よ)ってるか知ら…。失礼しますよ。」と一人が彼方に小走りに去らうとすると、
 「ぢや、後(のち)に行ってよ。」
 「えゝ、来(い)らツしゃいな。」



 二

 看護婦の入った室は、此の側の曲角から二室目(ふたつめ)の上等室である。
 「萩原様は、お眠って在らっしゃいますのねえ。」
 徐(しづか)に中仕切の扉(ドア)が開いて、次の室から今の令嬢が出て来たのである。看護婦は、此の社会の特有とでも云ふべき、気取った様な一種の会釈をして、
 「は、午後からは、好い塩梅にお眠みになりまして…。まア貴女、此方へお掛けなさいまし。」と云ひながら、看護婦は前(さき)に寝室に入って、消え掛った暖炉(ストーブ)の前に椅子を直し、蜜柑の皮と共に石炭を掬くって、ぢやくりと一つくべたものである。
 壁白く天井高き五六坪の一室、真中より少し窓際に寄せて鐡製の寝室、向うの隅棚には鏡一面、之には白いベットから白い被蒲団、括枕(くゝりまくら)に崩れ落ちた患者の髪、温度表の下に垂がツてる西洋手拭(タオル)などが、青く斜に映って居る。



 令嬢はしばらく寝室の側に起って、眠りながらも時々額を顰むる患者を見詰めたが、頓(やが)て徐(そッ)と身を退(の)いて、
 「大変な事になったわねえ?」と溜息と共に口に出したが、白い帽子の看護婦を見ながら、「これでまた、使用(つかへ)る様な手に成るでせうか?」
 「成りますとも、もう、全然(すっかり)癒って了ひますよ…。まア貴女、お掛けなさいまし。」
 「其様なに折れて了ひました物が、また使へる様に?」
 「癒りますとも、三週間も立てば、もう全治退院ですよ…。」
 「まア、只(たツ)た三週間で…?」と初めて其処の椅子に腰を卸して、「其様なに速く癒るもんでせうか?」
 その声が高かツたのか、患者は目を覚ましたらしく、口の中でむにゃむにゃと唸くのが聞えた。二人は背後を振返った、そして暫く物も云はずに眺めて居ると、掛蒲団が緩く波を打って、
 「あー、」と深く溜息をした。
 「お目覚めですか?」看護婦は顔を覗く。
 患者は又口をもぐもぐ為(さ)せて、
 「凍氷(こほり)を一片(ひとつ)下さいな。」
 「萩原様(はぎはらさん)。」と令嬢も起って来て看護婦の後から覗いた。
 「まア、夏本様(なつもとさん)なの。」と患者は眼を瞠った。
 「大変な事を為たわねえ。」と声も震へて、はらはらと涙が溢れた。
 それを見ると、此方も急に悲しくなツたらしく、潛然(なみだぐ)んだ眼を慌てゝ手巾(ハンケチ)に押へた。看護婦も二人の様子を見て、何でも非常に親しい間柄に違ひ無い、他(ひと)に聞かせぬ談話(はなし)も有らうと思った。で、凍氷の破片(かけ)を口に投れようとすると、患者は濡れた目を閉じて頭(つむり)を振るので、夫を機(しほ)に室の外に出て行った。
 久(しばら)くして、
 「好く来て下すツたわねえ、」と患者は染々云った、「私、何様なに貴女に会ひたかツたらう…、だツて、昨日は最う此の儘死ぬ処かと思ってよ。」
 「馬鹿々々しい、義姉様(ねえさん)のやうでも無いわ、これん許しの怪我で死んで何うするの、」と笑顔を作って、「だけど、今朝新聞を見た時はね、私、實(じつ)に吃驚(びっくり)してよ…。直ぐにも駈けて来ようと思ったけれども、母様(かアさま)は、もツと暖(あツた)かに成ってからでなきや可けないって、何うしても出して呉れ無いんですもの、本当に気が気で無かツたわ。」
 「でも、最う快いの?」
 「快いも不快(わる)いも、唯だ鼻風を感(ひ)いたのよ。」
 彼女は、それが為に四五日以来外出を禁(と)められ、昨日の記念会にも出なかツたのである。
 「貴女は直ぐ風を感くのねえ、」と凝然(ぢツ)と其の服装(なり)を眺めて、「薄着だわ、夫で寒か無いこと?」
 「暖かだわ、」と云ったが、何うしたのか、患者の顔は見て居る間に淋しい色に変わったので、「何うしたの?痛(や)んで来て?」
 「いゝえ、」と微かに答へたが、続いて深く溜息を洩した。
 友達の美しい服装を見て、昨日来た我が一張羅の小袖、自転車などを想起(おもひおこ)したのである。何様なに裂けたか、何様なに毀れたか、最う再び用ゐられぬ物に成って了ったらう、今更それを惜んでも仕様がない、此様な大負傷(おほけが)までしたのだもの、もとの様な身体に成れゝば、最うそれで満足せねばならぬのだ。けれども、今後(これから)の我が身を顧みれば、最早(もう)如彼(あゝ)いふ服装などをする望は無いのである。
 「あゝ!」と又嘆息して、「私の様に不幸(ふしあはせ)な者も無いわねえ。」
 「其様なことは無いわ、怪我ですもの、誰だツて、怪我なら詮方(しかた)が無いわ。」
 「だけれどねえ、芳江様(よしえさん)…。」と云って言澱む。
 「はア?何?何なの?」と聞いても言葉なき患者の目には、又しても涙が浮かんで居るので、
 「可厭(いや)、義姉(ねえ)さんは、其様な哀しい事許し想って…。不治の病気に羅ったぢやあるまいし、退院する時には、もとの通りの体に成って退院するんぢやありませんか。それは、今の内は痛みもするだらうけれど、だツて夫位の事で精神を挫くなんて、余り意気地が無いわ…。」
 すると患者は、行きなり利く方の手を伸べて、友達の繊細(きゃしゃ)な手を強く握った。握られた手の主ははツと思って、その蒼白い顔を微(すこ)し紅くした。
 「堪忍して頂戴よ、私ね、精神を挫きも何うもしないけれど、芳江様を見ると、急に気が緩んでね、理由も無く哀しくなツて来たのよ。矢張し、独立心が弱いからなんだわねえ。」
 「其様(そん)な事は無いけれど。」と、芳江は離された手を徐(そツ)と引いた。
 「漸(やツ)との事で、妹も故郷(くに)へ帰したし、今後(これから)は最う、煩い事も無いんだし、学資も兎に角間に合って行くしするから、六月迄は一勉強してね、余り悪くない成績を取り度いと思って居たんでせう、其処を此様(こん)な酷い難(め)に遭ったもんですから、希望も計算も、もう、めちゃめちゃに成って了った様に感(おも)ってね…」
 「夫は、義姉さんに成れば無理はないけれど、だツて、長く入院(はひ)ってる訳ぢやなし…、試験にだツて十分間に合ふわ。」
 「いゝえ、今は最う何とも思はないの…直ぐ退院が出来ると云ふ事ですもの。だけれどねえ、初めは最う、何うなる事かと思ったのよ、肩から先は、宛然(まるで)鋸でゝも挽かれる様に痛(やむ)し、熱は出るし…」
 「そうでせうねえ、私も、何様なに痛んだらうと思ってね、」と芳江は美しい眉を寄せて、「それで、貴女、如何して此処へ連れて来られたの?」
 「それが、少(ちツ)とも分からないのよ、目を開いて見るとね、何時の間にか此様な処へ臥かされてゐるんでせう…。」
 「ぢや、誰が介抱して此所まで連れて来てくれたんだらう?」
 「分からないの…。先刻ね、楠田先生が見舞いに来て下すツたから、事務の方に聞いて貰ったらね、入院証書には、下宿屋の印が押してあるんですと。」
 「ぢや、島井の主婦(かみさん)が来たのか知ら?」
 「必然(きっと)、警察からでも呼ばれて、詮方なしに保証人に成ったでせうよ。そうでも無きや、彼の主婦が何うして。」
 「幾ら島井の主婦でも、夫位の事は為て呉れるでせうよ…。保証人と云った処が、僅か三週間立てば退院の出来る患者なんですもの…。」と云ひながら、芳江は忘れて居た見舞の西洋菓子を出した。
 「三週間?」患者は解せぬ眼をした。
 「えゝ、私今、此処に居た看護婦の人から聴いてよ。三週間で、全治退院が出来ますツて。」
 「三週間?まア、其様なに長く費るの?」
 「長いことは無いわ、只(たツ)た三週間ですもの、」と芳江は笑い出さうとしたが、相手の顔色(かほ)には分明(ありあり)と心配の影が見えるので、急に真面目な顔になって、「義姉さんは、幾日許し費ると思ってゝ?」
 「三日も立てば、最う体を動かしても可いって云ふからね、私は、五日か…長くも一週間位で退院されるものと思ってよ。」
 「其様な大怪我をして…?」
 「だって、三週間なんて…、」と考への眼を据ゑて、「私は、到底(とて)も其様なに長く在院(はひ)ってる訳には可けませんわ。」
 「何故?何故在院ってられないの?例ひ何様な事情が有った処で、癒くならなきゃ仕方がないでせう。」
 「だツてねえ…。」凝然(ぢツ)と芳江を覗た。
 「何うしたの?何か、在院って居られない事情でも有って?」
 「此うして居ればねえ、日に二円以上も費(かゝ)るのよ。」
 「二円掛っても、全治するまで居なければ…。」
 「…加之(それ)に、先刻故郷(くに)へも手紙を出したんだから…。」と又嘆息した。
 彼女は、今朝の新聞に自分の負傷した記事の出て居る事を聞き、故郷の母に心配を懸けまいと思うて、四五日で退院する由を、見舞いに来た学校の女教師(せんせい)に代筆の郵便を頼んだのだ。一旦彼様な手紙を出して、三週間も掛るから夫だけの送金を頼むと、今更願って遣られもしない、又幾ら願った所で、金銭(かね)に厳格(やかま)しい異母兄(あに)の、夫を承諾する筈はないのだ。
 「あゝ、また頭痛がして…・芳江さん、看護婦を呼んで頂戴な。」と顔を顰める。
 「貴女、其様な余計な心配するからだわ、費用なんぞ幾ら掛っても、母にそう云って、私何うにでも為るわ。」
 「だけれどね、貴女にはね、私より年下なんだから、若し其様な事でもすると…。」
 「また義姉さんは其様な事を…、」と芳江は怨めし相に云ツた、「口で誓ひ合った義姉妹(ぎきゃうだい)だなんて云っても、私なんか頼みにしちゃ下さらないんだもの。」
 「いゝえ、そう云ふ訳ぢゃ無いけれど…。」
 「だツてそうだわ、波ちゃんを帰す時だツて、私の願った事は採用して呉れないでせう…それぢゃ余(あんま)り水臭いと思ふわ。」
 「其様な事は有りませんよ、貴女の心はね、夫は熟(よ)く分かってるけれどね…。」
 「ぢゃ、今度の事は可いでせう、私に任して下さるでせう…病院の費用の方をさ、ね、可いでせう?」
 「併しね、それはね…。あゝ痛い、」と耐(たへ)られぬ様に顔を顰めて、「看護婦を呼んで頂戴な、頭が破(わ)れかへる様よ。…、あゝ痛い…、あゝ!」
 芳江は驚いて看護婦を呼んで来た。氷嚢を載せても痛(いたみ)が去らぬので、医員を連れて来る様な騒(さわぎ)をした。芳江は、我が談話(はなし)から此様な事に成ったのを悔いながら、日没(ひぐれ)までも傍で看病をして居た。


 下宿


 
 駒込は千駄木林町に、或浄土寺院(でら)の地続き、杉垣薄く廻らして、泥濘(ぬかるみ)の路地深く、突当(つきあたり)は北向の潜格子(くぐりがうし)、下宿営業島井もと、と記した看板には、最う皺くちゃに成った明き間ありの紙札、之は但し男子の客は御断り申候、と書添へてある。
 去年の春、女学生の醜聞が世間に喧ましく無かッた頃までは、帝国女子学院の認可下宿として、十に余る室は常に満員の繁盛を続けたものであるが、校則改正の結果その認可も取消されて、急に今日の淋しい有様、親戚とか何とか事情を作為(こしら)へて居る二三名の外は、悉く女子学院ならぬ名も聞えぬ女学校の学生、それから外の職業に転じようとして居る看護婦、産婆、まだ給料に有り付かぬ女教師、始終医師に通ふ子宮病患者、と云った様な輩(てあひ)のみ下宿して居るのだ。
 客が此れと決まってないので、引断(ひっきり)なしに移動(でがはり)がある、従って下宿料も、月末々々にきちんと入った元の様な訳には行かぬ。ならまだ可いが、二月三月と滞った挙句、ふいと姿を隠す質の宜しからぬ者さへある。主婦(かみさん)は大嘆(おほこぼ)しで、此様な詰らない商売は無い、と人を見ると算盤珠を弾いて示(み)せ、
 「そら、ねえ、此れじゃ貴女、浅草公園(おくやま)へ行って、鯉に麩でも遣ってる方が予ほど余程(よっぽど)気が利いてるぢゃありませんか。」と云ふ。
 で、家内(うち)は余程以前から売物に出してあると云ふ話も有るが、買手(かひて)が出ぬのか、値が纏らないのか、愚痴を零しながらも相変わらず営業を続けてはいる。近所や商人(あきんど)の噂では、主婦は種々(いろいろ)な世界を渡って来た苦労人で、確り者だ、甘い酢で食へない人で、損の行く商売を一日も遣って居る筈がない、何しろ客は若い女生徒、此の頃は服装(みなり)を飾った男も出入する様子、其処にはそれ、明けて云はれぬ巧い儲け口もあらうさ、と仔細有りげに云ふ。
 午後四時頃、日没(ひぐれ)には未だ間が有るのに、白い物でも落ちて来さうな空の色、昨日の雨に濡れたまゝの庭は、枯木立(かれこだち)静り返って、室々(へやへや)の窓の中には人声も聞こえない。
 みしりみしりと梯子を降りて、煮物の香(にほひ)のする台所の前を、
 「左様なら、」と其処に働いて居る下女に挨拶して通るのは、風呂敷包の書籍(ほん)を長く背負った男である。
 すると、直ぐ其処の斜向(すぢむか)ひの室から、
 「お廉、何だい?」と荒(さび)た女の声が起った。
 下女のお廉が未だ口を開かぬに、
 「へい、拙者(てまへ)で、」と男は一寸足を止める。
 「おや、貸本屋さんかい。先刻からまだ居たの?」
 「へゝゝ。」と鼻に皺を寄せて笑って、「何ぞ御用で?」
 「一寸待つとお呉れ、今朝中村さんからね…。」と云ひながら、障子を明けて出てきたのは、丸髷の、五十近い主婦(かみさん)である。
 「へえ、中村さんのですか…。」と貸本屋は禿掛った頭を動かしながら歩み寄った。
 「確か五十八銭だツたねえ。お前さん、五円札幣(さつ)でお釣銭を持って無いだらうか?」
 「へえ、お生憎様で…。なアに、またお便次(ついで)に戴きませう。」
 「然う、ぢゃ、次回(こんど)来た時まで借りとかうね…。」と主婦(かみさん)は、出した紙入を肥った帯の下に仕舞って、「だけれど、先刻からお前さん、何処で油を売ってたのさ?」
 「へ、お二階の…。」
 「石本さんの室かい…お前さん又、悪い本なんか持って来たんぢゃ無からうねえ?」
 「へゝゝゝ。」
 「へゝゝぢゃ無いよ、彼様な物を持って来られちゃ、全く困るからさ。」
 「いゝえ、そんな物持っちゃ参りませんよ、小説本許りですよ。」
 「本当かい?私は此処で改めて見るよ。」
 「お改めなさいとも。」と云ひながら出て行く。
 「本当なら可いけれど…。」と主婦は其の背後(うしろ)を眺めて居たが、頓(やが)て、「仕様が無いよ。」
 と独語しながら、今出た室に再(ま)た入らうとして、其処の障子に手を掛けるや否や、吃驚した様に、
 「まア、此の煙(けむ)…。」と顔を顰めて身を反らした。
 紙巻莨(シガレット)の煙の渦巻く底には、押入れと床の境に背を凭せて、色白の若い男が、黒の二重鳶(とんび)を被(き)たまゝ胡坐(あぐら)を組(か)いて居る。
 「毒ですよ、些と明け置(と)きませう、」と主婦は内に入って、「寒いんですか?」
 「いゝや、寒か無いが、可いのかね?」と何処(どツ)か笑ってる様な調子。
 「何がです?此処を明けてもですか?」と主婦は小火鉢を間(なか)に男の対(むか)うに坐り、
 「大丈夫ですよ、誰も覗いて見る者は有りませんよ。まア御覧なさい、此の煙ですもの…、ふう、ふう、おゝ大変だ」
 「如何だ、最う一戦(ひといくさ)来る気が有るかね?」
 「遣りますとも、撒いて下さいな。」
 「負けた人から撒くさ。」
 「でも、貴方は上手いから。」
 若い男は、火鉢の傍(わき)に散らばツてる花骨牌(はなふだ)を拾上げて、細い指を器用にはたはたと切始めた。二十四五の年配、少し顔は小さいが、色白で、髭を剃った跡が蒼々として、頭髪(あたま)はコスメチツクで綺麗に分けて居る。二重鳶(とんび)の下から見える其の服装(なり)は、大島らしい十の字絣に、黒八の襟の揃うた下着を二枚も重ね、白っぽい八丈格子の絲織の書生羽織を着て居る。
 主婦(かみさん)は木綿盡(づく)め、寒くさへ無ければ何でも構はぬ、と云った様に、肩を丸く着こんで居る。何方(どちら)かと云へば大女の方で、手の頸も肥って、色は黄色い。目の縁は小皺に刻まれ、鬢の辺りには大分白い毛が見えるのだ。
 「…今の話は、彼(あれ)は皆(みん)な貸本の見料かね?」と男は、骨牌(ふだ)を撒きながら訊いた、「五十八銭とか云ったが、何様な書籍(ほん)で、其様な高い見料を取るんだらう?」
 「いゝえ、彼(あれ)は貴方、二た月分も溜ったからですよ。一種(ひとつ)の御本で其様な、五十何銭なんて、其様な馬鹿々々敷い見料があるもんですかね。」
 「でも、今の様子ぢゃ、随分怪(をか)しい物を持って来るやうぢゃ無いか。」
 「怪しい物ですか、はゝゝゝ。」と主婦は高く笑ったが、「流石は殿井様(とのゐさん)だよ、お耳の早いこと…、はゝゝゝゝゝ。」
 「だが、僕は初めて聞いたが、女学生が其様な物を借りて見るのかねえ?」
 「いゝえ、手前共では貴方、此うやって私が眼張(がんば)ってますもの、其様な物なんぞ入れさせるもんですか。」
 「一々検査する訳にも行かないぢゃないか…。併し驚いた。全く意外だ、貸本屋も抜目は無いねえ、可い所へ目を着けたもんだ、是は必然(きツ)と的(あた)るよ。」
 「先アづ、商売を始めるなら貸本屋ですかね、はゝゝゝゝ。」と主婦は花骨牌を叩きながら、
 「貸本屋に依っちゃ、随分質の悪いのがございますからねえ。彼(あ)の為めに堕落(しくじ)る女学生さん許(ばか)しも、中々少数(すくな)い事ぢゃ無いでせうよ。夫で無いでも、私が此うして見てますに、最う小説本を借りる様になツちゃ駄目ですねえ。」
 「そんなら、家(うち)へ入れなきゃ宜さゝうなもんだ。」
 「そうは行きませんよ、元と違ってそう厳(やか)ましく云ふ権利はありませんもの、夫に、手前の方では幾ら厳ましくしても、今ぢゃお客が曳張(ひっぱ)って来ますもの。」
 「そうか。ぢゃ仕様が無いね。…ぢゃ、今の其の女も、其の貸本の方の組だね?」
 「其の女…其の女って誰です?」
 「今談(はな)した娘さ。」
 「萩原様ですか、萩原様は貴方、別物ですよ、何うして、貸本どころか、学校の勉強の他には、余所見一つなさらないツて方ですもの。」
 男は義歯(いれば)を光らして笑ひ、
 「大層褒めたもんだね。」
 「だツて、実際のお話ですもの。」と主婦は力を入れて云った、「また、如彼(あれ)で無きや、彼様な成績(でき)の優(い)い筈はありませんからねえ。」
 「お主婦(かみ)さんがそう云ふ位ぢゃ、余程変わってると見えるね。」
 「変わってるツて貴方、如彼が本当の学生さんなんですよ、他(はた)が変わってるんでさアね、勉強家で品行が良くツて…。」
 「それから美人で…。」
 「そうですとも、」主婦は真面目に頷頭(うなづ)き、「別嬪さんでは有るし、お家は財産家だし…。」
 「加之(おまけ)に、片方の手がぶらんさんだしか、はゝゝゝゝ。」と笑ひ出した。
 「また其様なお口の悪い事を、手は貴方、最う直ぐ癒っ了(ちま)ふぢゃありませんかね。」
 「夫は冗談だが、卒業をして、それから何(どう)仕(し)ようと云ふんだ?財産家なら学問が無いでも、幾らも貰ひ手が有りさうなもんぢゃ無いか…?必然(きっと)何だね、許嫁でも在って、其奴が教育が無ければ不可(いけな)いとか何とか…、其様なところだね?」
 「だツて、当今は最う、何様な処の阿嬢(おぢゃう)さんでも、皆な御修行なさるんぢゃありませんかね。」
 「けれども、皆な夫々の事情が有るさ、独立して生計(くらし)を立てなきゃ成らんとか、或は、許嫁の望だとか…、何か其処に仔細が有るさ。」
 「夫はまあ然うでせうけれど。」
 「でなきゃ、女が学問して何に成るんだ…?愚問か、や、一口に学問て云ふけれど、一学科を修めるのは容易な事ぢゃ無いんだからねえ、男皃(をとこ)の学生だツて、首尾好く成功する者は一割、…漸(や)っと二割有るか無しだらうよ。」
 「そうでせうよねえ。」
 「夫も可いが、首尾好く卒業してからがさ、先づ、喰って行くだけ取れゝば上出来、でなければ、借金を拵へる許(ばか)しだ。まア、何方かと云へば借金を拵へる方が多いね、況して女だ…、女て云ふ物は、是で男よりは金が費(かゝ)る物だからね…。」
 「いゝえ、女だって女にも依りけりですけれど、金の費る事は男の方ですねえ。」
 「女には衣服(きもの)と云ふ物が有るさ。」
 「男の方にだツて有るぢゃありませんか…。まア、衣服だツて、女の使ふ御金は、使った丈の品がちゃんと其処に残って居ますけれど、殿方の遣ふお金は然うは来(まい)りません、芸者だとか、交際だとか…、その外にも、貴方の様にそう云ふ…」と迄云ったが、「ほゝゝゝ、はゝゝゝゝゝ」
 男も笑って、
 「ぢゃ、男の方が余計に金が掛るとしても可いさ、兎に角、女の腕で取る金なら知れたもんだよ、此の物価高騰の世の中で、二十や三十の給料が何になるんだ、少し好き嫌ひを云ったら、一ト月の家賃にだツて足りアしない。」
 「いゝえ、女子学院の本科を卒業したとなると、未だ未だ猶(もツ)と取れます。去年卒業なすツた方で…矢張(やっぱ)し拙前共(てまえども)に在らしった方ですけれど、廣島の学校へ五十円で抱へられて行きましたもの。萩原様は如何云ふ思召か知れませんけど、月給取りにお成りに成ったら、五十円の物は七十円も…八十円もお取りなさるでせうよ、だツて学校の人たちの評判て云ふものは、夫は大した物ですもの…。」と、主婦は、我と我が談話に感心して首をひねり、「全く人望が有りますねえ、陰でだツて、悪口(わるくち)一つ云ふ人は有りませんよ。」
 「そうかねえ、余程優(でき)ると見えるね。」
 「何しろ、女子学院の花と立てられる方ですもの、あの学問ばかりは…。さ、今度は貴方の番ですよ、」と主婦(かみさん)は、我が手の骨牌(ふだ)に目を移したが、また、「さ、殿井様、如何なすツたんですよ、早くお遣んなさいましよ。」
 「ま、此様な事は止さう、」と殿井は骨牌を其処に投(はふ)って、「もっと、その萩原の話を聴こうぢゃ無いか。」
 主婦は呆れた顔をして、そう云ふ殿井を眺めていたが、頓て、
 「おゝゝゝ、はゝゝゝ。」と笑出した。
 「何だい、他(ひと)の顔を見て突然(だしぬけ)に笑ふなんて…、失敬な。」その癖、自分も可笑(をかし)いのを耐へて居る様な風である。
 「ほゝゝゝ、また貴方、そろそろ持病の蟲が起りましたね、はゝゝゝゝ。」
 「だツて、余りお主婦(かみさん)の話が巧いもの、つい、捲き込まれて了うぢゃ無いか。」
 「けれども不可(いけ)ません、萩原様ばかしは不可ません。」と主婦は手を振った。
 「不可ないツて?何が不可ないんだ?可笑しいぢゃ無いか、談(はなし)を為ちゃ可けないのかい?」
 「いゝえ、お話は幾らでも致しますけれど、あの方許(ばか)しは不可ません、お堅いんですもの、不可ません…。」
 「だから、何が可けないと聞いているぢゃ無いか、可笑(をか)しなお主婦だ、自分独りで合点しているんだ、はゝゝゝ。」と無理笑のやうに笑って、「まア冗談で無く、その萩原の話をもっと聴かせないか…、郷里は千葉県の佐原とか云ったね?」
 「萩原様ですか…。」と主婦(かみさん)は初めて手にした骨牌を捨てゝ、「大変な御執心ぢゃありませんか…。ですけれども不可ませんよ、幾ら御執心でもこれ許しは駄目ですよ…」
 「また始まツた、」と殿井は焦燥(じれツ)た相に、「執心だらうとなからうと、唯だ談を聴く許しぢゃないか、厭ならお由、もう聴かない。」
 「お話だけなら訳はありませんがね…。」
 「ぢゃ、勿体振らないで、疾(はや)く話してお聞かせよ。その代り、今夜はお主婦の好きな物を散財(おご)って上げやう…。」と殿井は二重鳶(とんび)を脱いで胡坐を掻き直した。
 「そうですか、そう云ふ事なら私も…。」と主婦も膝を進めたが、男の注ぐ急須の空(から)なのを見て、「おや、注しませう。お廉、一寸お廉…。何処へ云ってるだらうねえ。お廉や。」
 「はいはい。」と云ふ返事は、遙か玄関の方から駈けて来て、障子の外から、「お主婦(かみさん)、お呼びでしたか?」
 「何処へ行ってるんだよ、」と障子の間から湯沸を出して、「一寸(ちょい)と、此れを注してお来(い)でな。」
 それと一緒に赤く肥った下婢(げじょ)の手がぬツと内へ入って、
 「只今、この郵便が。」と青い封筒の書状と葉書を投込んだ。
 主婦はそれを手に取上げたが、
 「此の葉書は、これは石本様へ来たのだよ。」と再びお廉に渡して、我が名を認めた書状(てがみ)を、近視眼(ちかめ)の覚束ない眼で見詰める。
 「骨牌(はな)を曳く時は平気で、文字を見る時は近眼に化(な)るんだね、不都合な眼もあったもんだ、はゝゝゝゝ。」
 「また其様な…。」と云ったが、其の書状を殿井の方へ向けて、「これ、此れですよ、萩原吉兵衛、ね、千葉県佐原町、ね?」
 「此れが何なんだ?」
 「萩原様のお兄様、此の方が戸主なんですよ。阿父様は、何でも二三年跡に亡くなツたとか云ふお話ですがね…。」と云ひながら、主婦は開封をした。
 殿井は紙巻草(たばこ)を喫(の)みながら、眺むるとも無く主婦を眺めて居たが、
 「如何したね?」と夫を読んでいる主婦の顔色が変わったので、斯う聞く。
 「まア、何う云ふ訳だらう?」と主婦は独語して首を捻ったが、再(ま)た前から読み始めた。
 「如何したんだ、其様な顔色(かほ)をして?」
 「まア呆れた!」と主婦は書状(てがみ)を其処へ置いて、嘆息するやうに云ふ。
 「何故、何様な事を云って来たんだ?」
 「実に乱暴ですねえ、是ぢゃ義理も人情も知らないと云ふもんですねえ…」
 「どれ、見ても可いかね?」
 「まア御覧なすって下さい。私がね、此の間貴方、萩原様の入院した事に就いてね…。」と主婦は息巻いて語り出した。
 その云ふ所を摘まむと、萩原初野が自転車から落ちて入院した其の日の様子から、自分が保証人に成った事、医師の話では、三週間で全治退院さるゝ事、少しも其の痕が遺らぬと云ふ事、上衣は落ちた機(はずみ)に擦切れたが、他の物は何とも無い事、自分も時々見舞いに行く事、及ばずながら出来る限りの力は尽す心算(つもり)なれば、決して御心配には及ばぬ事まで、細々認めた書状を初野が兄なる此の吉兵衛に送ったのである。
 殿井恭一は、主婦の話を聞きながら此の書状を読むと、此様な意味が書いてある。初野の事に就いて種々御深切を下すツて有難い、其の儀は厚く御礼を申上ぐるけれども、金銭の事に関しては余り立入ってお世話下さらぬ様に願ふ。それも「貴下に於て責任を負ひ下さるゝ御所存ならば格別に候へども」私から償却せしむる心算ならば、それは断然止めて貰ひ度い、全体初野を修行に出したのは、一家族悉く反対であるが、当人が強(たツ)ての願から止を得ず許したのである、従って学資も定額外には一銭も送らぬ約束、私の方でも其の外の準備が無ければ、送ることが出来ぬ次第である、然るに此の度のお手紙に拠れば、平生自転車など乗廻し、又た他の病室が塞がツて居るとは云へ、勝手に上等室に入院するなど、その贅沢には驚き入る、併し当人には其費用を支払する的(あて)が有って為たのであらうから、其処まで私の方から、苦情は申さぬ、只だ私の方では此の度の費用には一切関係がないのだから、左様に承知して貰ひ度い、と云ふのである。
 「酷く残酷な物(もん)だねえ。」と殿井は読終って主婦に面を向けた。
 「下宿屋と客とは云ひ候、申さば私は他人ぢゃ有りませんか、他人の私に此程心配を掛けて置いて、現在兄たり戸主たる者が、此様な不人情な事が云へるもんでせうか。」
 「全く乱暴だねえ、これでも、同胞(きゃうだい)なのかねえ?」
 「同胞ですとも。勿論阿母さんは違ふ相ですが、それでも貴方、兄妹は兄妹ぢゃありませんかね。」
 「母が違ふと云ふと?初野さんは後妻の子かなんかだね?」
 「そうです、萩原様の阿母さんて云ふ人は、もとはお妾だツたて相ですけれど…。」
 「成程、夫で此様なに情愛が無いんあだね。併し、夫にしても乱暴だ。金は持ってるんだらう?」
 「持ってるのなんのツて、佐原でも屈指(ゆびをり)の財産家でさアね。」と云ったが、主婦は急に考へる顔色をして、「だけれど、本当にお金を送らなかったら、如何したら可いでせう?」
 「入院料かい?夫は、初野さんに手配の的(あて)が有るだらう。」
 「如何ですか?否(いゝ)え、お故郷(くに)の外に的なんぞ有りますまいよ。何しろ、一日二円以上、彼此三円も掛りますからねえ、三円が三週間…そら、六十円から以上(さき)ぢゃ有りませんか、如何して貴方、六十円なんて…。」と云ふ中に主婦は眼を瞠って、「さア大変だ!其様なお金なんぞ負担(せお)はされた日にはまア!」
 「其様な事が有るもんか、親類も有るだらうし、友人も有るだらうし…。六十円許(ばか)し、金策(こしらへ)ようと思や何うでも出来るよ。着物とか、書籍(ほん)とか、何か有る物を売っても出来ようぢゃ無いか。」
 「ですけれどもね、」と考へて居たが、主婦は思出した様に座を起って、「貴方、済みませんが一寸(ちょい)と何卒(どうか)。」
 「何を…?如何するんだ?」
 「一寸何卒…。些し、見て戴き度い物が有りますから。」と主婦は前に起って、此室(こゝ)から一間隔てた六畳の一室に入った。


 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。